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春の雨6

「……春ちゃん」

 震えた声が、春の耳を打った。
 目の前にいたのは、蛇だ。

 神主であるミコトの背が突然盛り上がったかと思ったら、見る見るうちに胴体が伸び、足が縮み、消え去り、鱗が走り、巨大な蛇へと変貌していったのだ。

「来てはいけないと言ったじゃないか」

 頭に直接語りかけてくるような、ぼんやりした声のように思えた。
 ぬらりと光る体が雨粒を受けて輝いている。

「……え……え?」

 目の前で起こった事態を未だに飲み込めない春が呆けた声を出した。
 俯いた巨大な蛇が、裂けた口から優しい声を出す。

「雨の日は、本性が抑えられなくてね……この間の雨の日もそうだった……」

 春は言葉を失っていた。声を出そうにも喉でつかえて何も出てこない。悲鳴すら。
 青ざめた顔で、ただただ立っていた。震えすら起きないのは、まだ現実だと認められていないからだ。

 瞬間的に頭の奥が熱くなるのを感じ、春は顔を強張らせた。
 気づけば春は走り出していた。泉のほうへと。林の入り口へと。
 無我夢中だった。

 走っている最中、涙が出てきた。
 あれだけ蛇について、蛇神についてよい話を聞いたというのに、春の体が蛇を拒否したからだった。
 思わず拒絶して逃げてしまったことが、ショックでならなかった。
 春を見る蛇神……ミコトの眼差しが、悲しげだったのをちらりと見て、春は再び涙をこぼした。


 謝らなきゃ。
 神社と自宅の間にある小さな公園に逃げ込み、膝を抱えて泣き出した春は、頭の中で一生懸命に考える。
 今まで蛇に騙されて働いていた、とも考えることができるが、そうではないと強く思っている。今までとても親切にしてもらった。
 ミコトと共に神社で働くのは楽しかったし、だんだんと彼や神社のことが好きになっていたはずだ。

 謝らなきゃ。
 思わず逃げ出してしまったこと。蛇を拒絶してしまったこと。
 今でも蛇は怖いが、正直に言って謝ったら、きっとミコトは許してくれる。彼は、優しいから。
 乱暴に目をこすって、春は立ち上がった。神社へ向かって歩き出す。
 そうして、見てしまった。

 とび職風の若者が、仲間を大勢引き連れて神社への階段を上っていくところを。

「とっとと取り壊すぞ! こんなボロ神社!」

 とび職風の男は大声で叫んだ。意気込みが血の気になって現れているようで、顔が赤い。もしかしたら酒が入っているのかもしれない。
 おお、と仲間たちの威勢が良い叫びも上がった。
 手に手にオノやノコギリを持って階段を上る彼らを見て、春は一気に血の気が失せた。ミコトの正体を知った時とは比較にならないほど青ざめ、そして走り出していた。

「何をしているの! 警察を呼びますよ! 帰りなさい!」

 彼らにすがるように追いかけ、一人の服を掴む。振りほどかれた。それでもなお掴もうとして、突き飛ばされる。
 地面に倒れこんだ春を見て、とび職の男が笑い声を上げた。

「なんだ、お前か! 余計な真似するなよ! 村の若い連中はなぁ、こんな薄気味悪い神社、早くなくなれって、そう思ってるからさ!」

 ノコギリを喉元に突きつけられた。息が詰まる。
 緊張した春を見て、若い連中はニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「さっさと辞めてたら良かったのになあ!」

 もはや暴徒と化したこの連中にストッパーなど存在しない。暴れるだけ暴れて、神社をぼろぼろにして去っていくのだろう。
 たまらなく悔しい。
 鉄パイプを持った男が目の前に迫ってくる。もう駄目だ。きつく目を閉じた直後だった。

「シャアァァッ!」

 階段の上から声がした。
 鳥居に巻きついた真っ白な蛇が、大きな口をあけて、男たちを威嚇しているのが見えた。

「……ミコトさん」

 春が一番謝りたい相手がそこにいた。春に手を出すことを許さないかのように、男たちに牙を向けていた。
 最初こそ怯んだ男たちだったが、やはり酒が入っていたのだろう、とび職の男が偉く大きな態度で声を張り上げた。

「蛇神だぁ! 殺せえ!」

 地響きかと思うような足音の群れが鳥居へ向かっていく。
 春が男たちを止めようと追いかけるも、一人に突き飛ばされ、階段から転げ落ちた。
 痛む体を抑えながら起き上がった春が見たものは。
 男たちに切り刻まれる、蛇神の姿だった。

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