※エンパベースのおはなしなので、色々設定がフリーダムです。
これのつづきというか、その後のふたり。



練を終え、与えられた城内の自室で一息吐くために回廊を歩む。まだ朝夕はひんやりとしているものの、どこか春の気配が肌で感じられるようになり日毎に水も温んできたうららかな午后。もうだいぶ城仕えにも慣れて、ふらふら放浪していたのが懐かしいと思えるくらいにいまの日々が日常と化していた。
この国も着々と力をつけて、枝葉を伸ばすように劉備殿のいるこの首都を中心に広く豊かになっていて、すこしはその一端となれているのかなと思うと充実感もある。今日はあとで尚香ちゃんとお茶をする約束もしていたしと、心が弾むのはあたたかな陽射しにだけじゃなく、それになにより。

「あ、」

ふっと庭に咲く蝋梅をうつしていた視界に、緑の長衣がひらりとはためく。そのまま上げれば、遠目にも視線が合ったのが分かった。
なにか考え事をしていたのだろうか、いつもより暗く浮かない表情がまるで雲間から陽が覗くみたいに、晴れ上がる。ぱあっ、と効果音でも付きそうなそれについつい、うわぁ…と思う。いつものことだけど、こちらに向かって歩んでくる彼の頭部には髪と同色の耳が、そのうしろにはぱたぱたと振られるふさふさの尾が見える気がしたのは、きっと気のせいじゃない。どちらも犬のそれだ。

「名前」

その声にすら喜色が混ざっている気がして、とても自然に敬称がなくなっていたのが一体いつ頃だったのかをわたしは覚えていなかった。進行方向的にも歩む先だったので、直ぐに目の前までの距離になって、間近で見ると余計に彼の放つ朗らかでありながらどこか浮ついた空気にこちらまであてられるようだった。いや、わたしも嬉しいんだけど。

「徐庶殿、お疲れ様です」

確か彼は軍議だったはずだと思い出して労えば、「あ、えっと……ありがとう。きみこそ、教練だったのだろう?」徐庶殿もお疲れ様と、相変わらずの困った風な微笑みで言ってくれた。うん。でもやっぱりその背後で尻尾が揺れてる気がする。のを、ようやく消していると「あ……」と徐庶殿が声をあげたのでどうしたのだろうかと思って見ると。
ふわり。そっと髪を撫でられ、かたまってしまう。
何事かと思う前に、その手は離れていって。追うように徐庶殿を見上げたら、どこか真摯な眼差しと重なって、だけどそれは瞬きをする間もなく困惑に濡れて。

「すっ……すまない…勝手にさわってしまって……ええと、その、髪がすこし乱れていたから、つい……」

もごもごと、若干尻すぼみになりながら言い訳を並べる徐庶殿は完全に下がりきった眉に、頬も微かに染まっていて、わたしは自分がどういう顔をしていいのか分からなくなる。なるほど、教練の時に乱れたままだったのかあ……って現実逃避している場合じゃなくて!やめてください徐庶殿!自分でやっておいてそういう反応されるとこっちもなんか恥ずかしいです!いやほんとう。とこっそり内心悶えてしまうので、やめてほしい。相変わらず、表面には一切出ないとはいえ。
それ以前に、髪にふれた時の、そのあまりにもやさしい手の感触が消え去ってくれない。
徐庶殿とは、あの秋月の夜もといお酒くさかった夜(の方が印象が強い)以降、誤解がなくなって無事に普通に接することが…………まあ、できる訳がなくて。いや、お互いに嫌われているという思い込みによる問題は無事に解消されたものの、あの晩はそれだけじゃなくて。徐庶殿に……す……好き、だと……(未だに慣れない)言われたおかげで、その距離は同僚を飛ばしてしまった気がした。たぶん、恋仲だと言っていい……のかな、どうなんだろう。
でも、と思ってちらり未だに羞恥の色の消え去らない徐庶殿を見る。なんていうか、ほんっとうに徐庶殿変わったなあ……。一番最初の出会いが戦場で、しかも敵対していたものだから、殺意とか毛嫌いされている感じがひしひしと伝わってくる暗く鋭い、冷たい泥の沼にも似た眼差しとかもうどこえやらな現状に、ちょっとたまに記憶との差異に眩暈がしそうになるのは、たぶん仕方ないことだ。
いや、変わったというのには語弊があるんだろうけど。どちらもおんなじ徐庶殿で、人間いろんな顔があるからどれも彼の持つもののひとつに過ぎないのだ。

「え、っと……その、ほんとうにすまない……」

わたしの視線に気付いたのだろう、徐庶殿はまだ謝罪の言葉を重ねてきて消し去ったはずの耳と尾が垂れている気がしつつ「いやあ、気付いてなかったので。ありがとうございます徐庶殿」お礼を言えば、困ったような雰囲気はそのまま、だけどほんのりと嬉しそうにするから、やっぱり可愛いと思ってしまう。

「あ、そう言えば徐庶殿明日発つんでしたっけ」
「え?あ、ああ……そうだね」

他国と同盟を結ぶための使者として今回徐庶殿が選ばれていたのを思い出して、きっと今日の軍議もそれについての最終確認だったんじゃあと思いつつ訊ねれば、途端に朗らかな空気がちょっと薄れたので、あれ、と思う。どうしたんだろう。
とはいえ、徐庶殿のことだからいつもの自信のなさの表れだろうと「大丈夫ですよー、徐庶殿は外交とか向いてると思います。わたしはそういうのは全然駄目なんで……」あはは、と笑って言えば、徐庶殿はちょっときょとんと睛を瞬かせた。え、なんですかその反応。

「……あ、えっと……うん、ありがとう」

そう言ってくれたものの、眦を下げて頬をかく姿はなんだかわたしが間違ったことというか、的を外したことを言ったような気に陥って、なんだろうと、小首を傾げて窺ってしまう。それに気付いたのかちょっとの間のあと「……いや、その……外交が上手くいくか……ああ、いや上手くいかせないといけないんだが……それも心配事のひとつではあるんだ」そう言って。じゃあ、他にもなにか心配事があるんだろうかと余計首を捻るわたしに、苦笑しながらも徐庶殿はふっとその表情を消し去って。

「ただ……それ以上に、名前、きみの傍にいられないことが耐え難いんだ……」

軍師失格だな……。そんなことをどこか苦しげに、真剣な眼差しで紡ぐものだから、わたしは完全にかたまってしまった。徐庶殿といると、よくかたまってしまうのは相変わらずだ。
じゃあなくて!ちょ、ま……っ!!急いで凍結状態を直すものの「え、あ、いやあ……そ、そんなこと、は……ないと思い、ます、よ……?」盛大にどもってしまったので、あんまり意味がなかった。っていうか、不意打ちで爆弾投下してくるのはやめてください!!ほんとう!!徐庶殿ってたまにこういうことをしてくるので、危険だ。軍師らしく故意なのかそれとも無自覚なのかは、わたしには判断がつかないけれども、この差異にも眩暈がするしいつまで経っても慣れない。無理です!無理!!

「あー……あはは……えっと、何事もないとは思いますが、無事に帰ってきてくださいね!」

ちょっとなくなりかけていたのに、一気に膨れ上がった恥ずかしさを誤魔化すみたいに笑えば、

「ああ、分かっているよ」

徐庶殿も笑ってくれたので、とりあえずよかった。いやあー……ほんとう心臓に悪い。


そんなことを尚香ちゃんにこぼしたら、「名前の口からのろけが聞けるなんて!あなたにもようやく春がきたのね!」と盛大に面白がっていただけてなによりですと思いつつ、翌日徐庶殿は馬に乗って発っていった。
朝に様子を見るのと挨拶をと思い彼の室に行けば、そこにはもうちゃんと準備も終え軍師の顔をした徐庶殿がいたので、これなら大丈夫だろうとほっと安心したものの、去り際に、ぎゅっと抱き締められて、あー……と思いつつ、わたしも腕をまわしてその広い背を撫でておいた。わたしだって心配だったし、寂しい気持ちがないといえば嘘になったからだ。
ただ、それが徐庶殿に同行する将兵の人が呼びにくるまでだったので、ちょっと、正直、長い抱擁だった。お気をつけてと送り出す時にもなんだか後ろ髪ひかれているようなというか、売られていく子牛のような瞳をしていた気がしたのは……たぶん、きっと、うん……わたしの気のせいにしておいた。



とはいえ、徐庶殿がいてもいなくてもわたしのやることはさして変わりないというか、将軍という位をいた…だいてしまっているおかげで結構忙しい日々なので、ふっとした時に徐庶殿元気かなあ…と思うくらいの心地の中。ある日届いた文に、徐庶殿かなと思うもそれは数少ない友人のひとりからで。今度この地に来ることがあるので会わないかというような内容のものだった。居住が安定したおかげで以前よりも友人達と文を交わすことは多くなっていたとはいえ、実際に会えることは殆どなかったので嬉しいしらせにすぐさま了承の返事を送った。
ら、その後日にたまたま顔を合わせた諸葛亮殿から、ああそうそう、とでも言うくらいなんてことないみたいに「帰還する日取りが決まったそうですよ」そうさらっと告げられた。
無駄なこと(諸葛亮殿にとって)をだいぶはぶかれたので、一瞬、ん?となったものの、徐庶殿が無事に外交を済ませたのだと理解して喜んだのも束の間、それがつい先日出したばかりの手紙で会う予定となった日と重なっていて、ほんの数秒だけ……だ、大丈夫だよね、そんな直ぐに出迎えれなくてもたぶん大丈夫だよね、というかもう約束しちゃったし、いや、うん、大丈夫……かな……?と葛藤したものの、結局先約はこちらだしと友人と会う方に傾いてしまった。それに、出迎えれなくてもその日の晩には会えるだろうし、まあ、平気だろう。うん、と自分を納得させてそれから数日後に、わたしは城下の街に足を運んでいた。

ただ案の定というか友人との再会もほんとうに嬉しくて、久し振りすぎて積もる話がいっぱいあったおかげでちょっと、いや、だいぶ、予定より遅くなってしまった朧月も高い夜の頃合。
ううん、お喋りで時間を忘れるなんてわたしも一応女の子だったんだなあ……としみじみしつつも、徐庶殿いるかなと自邸には戻らず城に向かったら、見回りをしていた衛兵さんに「あれ、名前殿は宴には参加されていなかったのですか?」と訊かれて、あ、徐庶殿の帰還祝いにかこつけてみんな飲んでるんだ……若干遠い目をしながら会場を覗いてみると、嫌な予感通りの死屍累々。そして屍の中でまだ飲んでいる張飛殿に見つかると厄介そうなので、こっそり様子を窺うものの徐庶殿の姿が見つけられず。どうにか逃げおおせたのかなと、彼の室へと足を進めた先では灯りが燈っていないのでこれはもう寝てしまったのだろうかと思いつつ「徐庶殿ー……?」そっと扉の外からちいさく声をかけてみるも、やっぱり返事はない。うん。留守か寝てるかだな。
ひとり結論づけて、仕方がないので明日出直すかあ……そう踵を返す背後で戸の軋む音がしたと思った時には、「え、わ、うひゃあっ……!?」手首を掴まれすごい勢いで引っ張られて、

「…………」

目の前で閉まった扉。暗闇に引きずりこまれた身体は、すっかり室内に入ってしまっているみたいだった。びっくりして変な声をあげてしまったものの、もう脳が冷静になっているのはいいことなんだろうけれど、城内だからと油断しきっていたせいで咄嗟になにもできなかったのはちょっとあれだなあと反省しながら、背中や締め付けるみたいにぎゅうっときつくまわされた腕から伝わるぬくもりに意識を向ける。
……徐庶殿ー……いるなら返事してくださいよー……と内心呟くけど、声には出さない。代わりに「おかえりなさい」と言えば、わたしの肩口に埋めている顔がぴくりと動いたのが分かった。

「徐庶殿……?」

やっぱり返事がないので、おとなしく腕の中におさまったまま、徐庶殿のにおい久し振りだけど、ちょっと、だいぶ、お酒くさいなあとぼんやり待ってみているとややあってから、ちいさく息を吐くみたいに掠れてくぐもった「ただいま……」が返ってきた。よかった。
それにしても酔っているんだろうか。酔っているんだろうなあ。素面だったらきっと直ぐに謝罪の言葉が飛んできているだろう現状は、すり……と首筋に犬猫がやるみたいに頭がすり寄せられて、跳ねた髪の毛先があたるのがくすぐったくて笑ってしまう。

「徐庶殿、くすぐったいですよー」
「ん……」

こんなことをされていて羞恥心が薄いのはあれだ。なんだかもう眠そうな大型犬に甘えられている気分だからだ。それに、後ろからで顔が見えないのも一因なんだろう。疲れているだろうし眠そうだし、とりあえず寝るように促した方が賢明だろうかとどうするか考えていると「名前……」名を呼ばれたので、上の空で返事をしていると。

「楽しかったかい……?」

言葉よりも、紡いだ声がさっきよりもずっと明確なことがひっかかるも、もう遅かった。

「え、わっ……」

ぐるんと一回転した身体に、急激な視界の変化にそれでも窓から差し込む月明かりに慣れていた睛はしっかりと徐庶殿をうつした。
俯いているせいで前髪に隠れた目元は陰になって分からないけれど、肩に置かれた手のその近さに微かに息を呑む。前からとか、この距離には未だ慣れないからだ。それよりも、そんなことよりも、いまのは、楽しかったかい、って、それは。

「あー……えっと……はい、あの……ごめんなさい、ちゃんと出迎えられなくて」

やっぱり、大丈夫じゃなかったのかっていうか、やっぱり駄目ですよね!ちゃんと恋仲の人のお出迎えもしないなんて駄目ですよね!!ぶっちゃけ友人にももう帰り際にそのことを話したら「直ぐに帰ってあげてください」って怒られました。静かにやんわりとすごいいつもと変わらないやさしい微笑みだったけど睛は笑ってなかったです。怖かったです!!
思い出したのも相俟って戦々恐々していると「いや……いいんだ、そちらの方が先約だったのだろう?きみも久し振りだったのだから、楽しかったみたいでなによりだよ……」徐庶殿はそう言ってくれたけど、ちょっと、やっぱり、なんだかとても喋り方が流暢になっているのが気になるのは……わたしの気にしすぎですかね!うん!!きっとそうですよねっ!!
そうは言っても嫌な予感がどうしてもなぜか拭いきれないでいると「……それで」徐庶殿がそっと顔をあげる。ようやくあらわになったおもてに、ひっ……!ってなった(あれ?なんかすごい久し振りな既視感)。
徐庶殿は微笑んでいた。それはもうやわらかでとっても綺麗な微笑みを浮かべているのに、睛だってちゃんと笑っているはずなのに、なんだろうこの背筋をぞわぞわと侵蝕する寒気のようなものは。

「その友人は、男性かな……?」

そうして徐庶殿はその表情のまま言った。

「違います!!女性です!お、女の子です……っ!!蔡文姫ちゃんっていうすっごい綺麗で可愛くて素敵で頭もいいまさに才女さんで、いまは詩作のための旅に出ているわたしにはもったいない(?)くらい可愛い女の子のお友達です……!!!!」

わたしはもう近隣の迷惑とか考えない声でそう間髪いれずに叫んでいた。




- ナノ -