そんな恐怖の夜も尚香ちゃんに話してしまえば「もう、名前ったら馬鹿ねえ。全然男心が分かってないんだからっ」という一言で片付けられて呆れられてしまうのだからすごい。

とはいえ、わたしも反省していた。こんな風な仲になるのは徐庶殿がはじめてなので、世間一般とはずれてしまっている気がすることももうすこし気をつけないといけない。わたしだって徐庶殿が無事に帰ってきてくれて嬉しい。のだけど、いまひとつどう接すればいいのか分からないのだ。分からないまま、徐庶殿のいる日常に戻った日々は、なんというか、なんか、やたら近かった。距離が。物理的な。

「……徐庶殿、ほんと重くないんですか?」

いまだってそうだ。なぜか自室で報告書に睛を通すわたしは徐庶殿の腕のなかにいて、むしろ椅子に坐った徐庶殿のうえに坐っている状態だ。どうしてこうなった。いやあ、なんかいつの間にかこうなっていたんですとしか言いようのないくらいに自然すぎて、もう考えるのを放棄する域だった。
最近やたらちょっとふたりで並んで歩く時だって手が繋がれたり、徐庶殿は忙しいだろうに細かな暇を見つけてはわたしを訪ねてきてくれたりしていて、きっと会えない間のぶんを埋めるようなのかなあ……と、わたし自身嫌じゃないしむしろ嬉しかったので甘えていた。自分からあまり上手くふれられないので、徐庶殿ばかりにとちょっと申し訳なくも思いつつ。これも、頑張らないといけない。

「重くなんて……っ、えっと、俺がこうしていたいだけだから……名前が気にすることじゃないよ」

そう眉を下げて言ったあと「あ、でもきみが嫌だったやめるからっ」慌てて付け足すものだから、思わず嫌じゃないですと勢いよく首を振ってしまって、現状維持。もたれるのはさすがにと憚られていた最後の抵抗も、そっと徐庶殿の方に身を寄せられてしまい無駄に終わった。いや、ほんとう絶対重いって!内心だけでしか叫べないのがなんとも。とはいえ今日は外で鍛錬をしている時には暑いくらいの日和だったけれど、こうして室内でじっとしているとひやりとするので、正直とうに熱の冷めた身としてはありがたかった。徐庶殿ぬくい。
とりあえず、はやく終わらせてしまおうと文字に睛を通していると、不意に腕にふれる感覚があって集中していた意識が途切れる。暑くて袖をまくっていたままだったので、手甲もなにもない素肌に直接徐庶殿の指がふれて、なぞられる。おなじ箇所ばかりを往復するので、なにかと思ってよくよく見るとそれはもう薄くなっているもののそこだけ白く線が浮き出ている、傷痕だった。

「あー……あんまり綺麗じゃないんで……」

明るい時分に見ると、他にも細かなものからすこし大振りの蚯蚓腫れみたいになっているものまで様々なのがあらわになって、恥ずかしくなる。戦に出る将としては当然のもので、だけどこうやって気にしてしまうのは、やっぱりすこしでも女性らしく見られたいという願望がわたしにもあるからなのだろう。でも、たぶん徐庶殿以外に見られてもこんな気分にはならないだろうなと思った。

「そんなことはっ……って、あ、すまない……邪魔をしてしまったかな」
「いえ、もう殆ど終わったので大丈夫です」

事実、もう内容は理解できていたので、他の瑣末な事柄はあとでもいいだろう。思って竹簡を置いてそっと一息。徐庶殿は相変わらずわたしの腕をとって、まるで検分するみたいに傷痕をひとつずつ視線と指でなぞっている。ので、もうなされるがまま身を委ねつつも首を傾けて徐庶殿を見上げれば、そこにはなぜか難しい顔というかなにやら思案顔があって「……どうしたんですか?」訊けば、「あ、いや……」となんとも歯切れの悪い答えになんだろうと思っていると。

「つい、頭の中でこの傷をつけた相手を切り刻んでしまっていたよ」

なんて苦笑しながら言うものだから、かたまってしまった。のが、徐庶殿にも伝わったのだろう「冗談だよ」微笑みの形に種類を変えてあっさり告げるとまた視線が腕に戻される。

「…………」

……冗談ですか、そうですか!よかった!!びっくりした。こっそり胸を撫で下ろしながらも、ふと、思い出す。

「そういえば、徐庶殿につけられたのも確か残ってた気がしますよ」
「え……?」

思い出したまま、衿の合わせ目をすこしずらせばうしろから「え、あ、名前っ……!?」慌てたような声が漏れたけど気にしない。ちょっとした意趣返しだ。それに、ほんとうにすこしだけ首筋から肩にかけての線があらわになっただけなので、徐庶殿が慌てるようなことはなにもないはずなのだ。おかしくて、笑いながら「ほら、ここの」首を横にそらす。

「あ……」

徐庶殿が声をこぼした先には、くっきりと剣で斬りつけられたと分かる痕が残っているはずだった。そこに込められたものが、馘首を切り落とそうという確かな意思と意図によるものだと分かる痕だった。

「いやあ、この時の徐庶殿すごい怖かったんですよー」

避けられたのは結構ぎりぎりだったと、ぼんやり覚えている。すこしでも回避が間に合わなければ、今頃この頭は胴体と繋がっていないのだ。そう考えるとなんだかとても奇縁だ。

「あ……す、すまない……っ、ああもう、忘れてくれっ……あ、いやほんとうにすまない、これじゃあ自分勝手すぎるな」

軽口でなんてことないみたいに言ったのに、徐庶殿はこちらが申し訳なくなるくらい盛大に狼狽していた。

「謝らなくていいですって。あの時は敵同士だったんですし、当たり前っていうか仕方のないことなんですから」

過去のことだし、あの時にとっては当然のことなので、そう考えるといまの現状がほんとうにおかしなものに思えてしまった。そうなんだよなあ、最初わたしってば徐庶殿に殺されたり、逆に殺したりして当然な立場だったんだよなあ……うーん、なのにそんな相手にいまこうして無防備に急所を晒しているんだから、人生なにが起こるかほんとうに分からない。
そう、しみじみしていると「ああ……こんなに痕になって……」沈痛な声に我に返る。やばい。じめじめっとしている。こうなると徐庶殿の日が照るまでちょっとめんどうくさいので、間違いだった。そう、どうやって話題を明るい方に転換したものかと、頭を捻らせるわたしを尻目に、「名前……」徐庶殿はひとり呟く。

「ほんとうに、すまない」

幾度目かも分からない謝罪の言葉に、だけど、なんだか違和感を感じた。
なんだろう、すごく申し訳なさそうな陰鬱とした声音はどこか心悲しげというか、ちょっと、些細すぎて分かりづらいけれど、なんだろう、徐庶殿、なんだか、嬉しそう?
浮かんだ事柄をそんな馬鹿なと一笑しようとした思考は「ひうっ……!?」首筋にあたたかいものがふれて、どこかへ吹っ飛んだ。え?あ、ちょ、傷痕に、く、口付けられている……!?ひっ、くすぐった、徐庶殿やめてください……!!内心絶叫する心地も、あまりの驚愕に声にならなかった。




駄目だ。あれ以来余計に甘えられているというか甘やかされているというか、接触の多さと静かにゆっくりとだけど確実に濃くなった密度に、むずがゆさを抱きつつ。でも先日は自分から徐庶殿にふれたらとっても喜ばれたので、よかった。距離感がうまく測れないでいたけれど、もっとふれたりしてもいいんだなあ……と。わたしが徐庶殿にふれられても嫌じゃないように、徐庶殿もそうなんだとようやく思えるようになっていた。
駄目だ。これじゃあもう尚香ちゃんのことを言えない。周囲からもいつ婚礼をあげるのかと日常的に野次を飛ばされてしまうくらいなので、気恥ずかしくてしかたなかった。いやあ、みんな他人事だと思って乗りが軽いですね!

そんな日々のなか、次の戦では同盟国と共に策をしかけることになったので、また徐庶殿が使者として発つことになった。今度はしっかりお出迎えをしようと意気込むわたしは、まずはとお見送りのために徐庶殿を訪ねたけど、徐庶殿は前みたいな抱擁とかもなくわりとあっさり旅立っていったので、ちょっとだけ拍子抜けをしてしまった。さらりと柔和な微笑みで「行ってくるよ」と告げた徐庶殿も、いや、格好よかったけれども。
ただ、それから数日経って、わたしは、地味に、すごく、頭を抱えてしまった。相変わらずの忙しい日常はけれども、違うのだ。違ったのだ。

「…………やばい、どうしよう、水墨」

厩でゆったりと飼葉を食む水墨のすべらかな灰白の首筋を撫でながら、呟いてしまう。いつも以上にふれる時間の長いわたしの手を煩わしいと嫌がることなく、心地よさげに受け入れてくれる水墨ってばほんと優しい。思わず抱きつきたいのをぐっと堪えて、そっと息を吐いたらそれは溜息になっていた。ああ、しあわせを逃がしちゃった。もう何回目だろうと思って考えるのをやめて、もう一撫で。
やっぱりもう一度溜息を吐いてしまった。


そうして時間だけが経って、毎日諸葛亮殿と顔を合わせる度にそわそわしてしまっていたある日、ようやくその口から呆れたような嘆息とともに「日取り、決まったみたいですよ」を聞けた時には、安堵と歓喜がいっしょくたになってちょっと身体から力が抜けた。それからの数日間が、また長かったんだけれど。
なので、しっかりお出迎えの準備も整えたところに徐庶殿が帰ってきた時には、睛が合った瞬間にゆるく咲いた微笑みに、ああもう、と内心複雑な心境だったけれど、腕が広げられる前にそのなかに自分から飛び込んでいた。

「徐庶殿、おかえりなさい」
「ただいま、名前」

頭上からふってくるやさしい声も、においも、ぬくもりも全部徐庶殿のもので。つい、ぎゅうっと抱き締める手に力がこもってしまったけど、顔を見なくても伝わってくる徐庶殿の嬉しそうな雰囲気に、ああやっぱりと思った。

「…………徐庶殿、謀りましたね」

顔をあげて、仰ぎ見れば、案の定徐庶殿はとても嬉しそうで楽しそうで、しあわせそうだった。そうして、その微笑みは、わたしのちょっと恨みがましい声音にも翳るどころかよりいっそうの喜色を増すだけなので、正解だったのだと理解する。

「ええっと……困ったな。謀ったと言われると、ちょっと聞こえが悪い気がするけど……間違ってはいない、かな」

眉を下げて言う徐庶殿はだけど、全然困ったと思っていないのが分かるくらいで。おなじように、いや、わたしよりもきつくなった抱き締める腕の強さに、徐庶殿の抱いているものを考えようとして、やめた。

「きみが、俺とおなじになってくれて嬉しいよ」

とっても無垢で綺麗に笑って言われて、その笑顔はやっぱり可愛かったけど、徐庶殿は軍師なんだなあと思った。
そうして、悪い気分ではないもののちょっと悔しかったので、寂しかったです、とは言ってあげないことにした。

20140228

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