混乱 / 平穏

小学校、放課後のドッジボールの最中に小さな事件は起こった。

「ぶッ!」
「こら!顔を狙うのは禁止でしょ!」

剣司が投げたボールが見事に名前の顔にヒットして、私は剣司に注意した。その場にしゃがんで鼻を抑える名前の指の隙間から、赤い鼻血が滲んだのが見えて、急いで駆け寄る。一番近くにいた真矢がオロオロと名前の様子を窺っていた。

「名前、鼻血…!」
「分かってるよ真矢…いてて、いつものことだから」
「もう。ほら、保健室行くわよ」

名前の手を引いて保健室に向かう。この子は少し抜けてるところがあって危なっかしい、私がちゃんとしてないと。運動だって不得意じゃないのに、今だってぼーっと上を見ていたら剣司のボールが顔に当たった。こういう時はだいたい私か委員長の蔵前果林が名前を保健室に連れて行くのが定番になっている。はじめは遠見医院の子って事で真矢も任されてたんだけど、あの子は意外とぶきっちょで。教室に戻って来た名前の膝、擦りむいただけなのに包帯がぐるぐる巻かれてて歩きづらそうでまた転んだ。それを見て一騎が笑って、真矢は慌てて、それからはもっぱら私が名前の手当て役。

「いつもありがと咲良」
「なにが?」
「一緒に来てくれたりとか」
「そんなの当たり前だってーの!友だちなんだから」
「うん、ありがと」


***


「今日の翔子のとこのお見舞い」
「もちろんいいよ」
「さすが真矢、お見通し」
「なんとなく今日は一緒に行くのかなって感じてた」

なんとなくね、と念を押すと名前は目を細くして笑った。名前はいつも翔子に勉強を教えてもらってる。名前の成績はそこそこで、学年で一番頭の良い翔子にぜひ教わりたいと、時々一緒に翔子の家に遊びに着いてきた。本当は勉強を教えてもらうのは方便で、翔子に学校との接点を少しでも多く持ってもらおうとしているのに気がついたのはいつだったか。数学の授業でふと名前の席を見たら彼女は真面目にノートをとってて、ああ、なるほどってなんとなく分かった。

「翔子ってなにか好きな食べ物とかあるかな、食べられるお菓子」
「体に良いお菓子とかなら大丈夫じゃない?」
「体に良いお菓子かあ…芋けんぴとか?消化が難しいかも」

中学校からの帰りに翔子の家への道を並んで歩く。
名前は西尾商店に通いつめていてお菓子を買い足すのが日課。今日もお菓子をもらった、渋いチョイスで酢昆布。その前は金平糖。西尾のおばあちゃんのオススメだったのかも。子ども舌でお菓子が大好きだと、西尾さんの双子の孫から、からかわれながらも慕われていた。


***


「な、何をする!」
「邪魔するんじゃないっ」
「あら、結構胸あるのね。咲良ちゃんと同じぐらいあるんじゃない?」
「ほんとだあ!触らせて触らせて」
「えええ、やめろー!」
「じゃあ私は咲良ちゃんのさーわろ」
「なんであたしまで?!んのセクハラ姉妹!」
「「やわらかーい!」」

「あれ?そういえば名前ちゃんは?」
「お姉ちゃん仮にも引率なんだからしっかりしてよ」
「ま、待て…そこに沈んでいるのはまさか…」
「いやーっ!!ちょっと名前アンタ、風呂で寝るんじゃないっての!!」

「大丈夫か名前」
「なんとか…カノンこそ胸触られたりで大変だったね」

風呂場でうたた寝をしてあわや水没しかけた名前に声をかけるとのぼせた顔で笑われた。彼女は戦闘の時は口数が少なく鋭い雰囲気を感じていたが、普段はこうしてどこか間の抜けた印象を与える。これが変性意識なのだろう。他の皆と同様に、私にも気さくに接してくれる。

「見ていたのなら助けろ!」
「いやあ、真矢たちが近づいてくとこまでは覚えてるんだけどそこから先はお湯の中で」
「はあ…大丈夫なのか、この島は。パイロットがこんな調子で」
「本当だよねー私みたいなのがパイロットってちょっとねえ」
「おい…」

不意に彼女の視線が和らいで、少しドキリとする。名前は島の平和を煮詰めたみたいな、優しい目をしていた。

「カノンも私を見習って、もっともっと気を楽にして良いんだよ」
「…善処はしよう」





学校の屋上、扉を開けると目的の人物はフェンスに肘を乗せて立っていた。話に聞いた通りにぼんやりと空を見上げている苗字に声をかけると、僕の顔を見てひどく驚いていた。

「総士がここに来るなんてどうしたの?」
「おまえに用がある」
「私に?」
「一騎が島を出る前、遠見と話した後ここに来ているのは分かっている。いったい一騎と何を話した」
「いやそんな問い詰められても…特になにか話したわけじゃ」
「なんでもいい、会話の内容を教えろ」
「えーっと、あの日は確か一騎がいつもの3倍は暗かったから持ってたお煎餅全部あげた」
「……後は」
「後は?お煎餅をポケットに入れて帰ってったよ」
「本当にそれだけか?」
「それだけだって。なんか総士ってその制服着てると高圧的だなって思ってたけど、そこに一騎の話が加わるともっとこう…威圧増すね」

その言葉に閉口せざるを得ない。苗字は普段は茫洋とした人物だが極稀にこのように的を射た発言をする。今はまだサヴァン症候群の発露が不安定だが、彼女の持つ異常なまでの聴力は空間認識能力の助けとなるだろう。もしパイロットになれば、心強い戦力になる。この不意に見せる洞察力も、おそらく、僕の心拍数や呼吸音を聞き取ったんだろう。実は、彼女は隙の無い人間だった。
一騎の不在に焦り、なにか明確な理由を探し求める僕の心を見抜く苗字の目はもう空に戻っていた。

「気を悪くしたらごめん。でも本当に一騎が島を出るようなことはなんも話してない」
「僕の方こそ、悪かった」
「総士は悪くないよ」
「…そうか」
「お煎餅食べる?一騎が持ってったのと同じやつ」
「………貰おう」
「西尾のばっちゃがすすめてくれた味噌煎餅、美味しいよー」

投げ渡された袋をキャッチすると真上に光る太陽のように丸い茶色の米菓子。一騎に倣うわけではないが俺もそれをポケットに収める。

「一騎は島に帰って来ると思うよ、一番空が綺麗なのはこの島だから」


***


「大丈夫苗字、なんだか顔色が悪いよ?」
「あ、うん、大丈夫だよ」

衛とアルヴィスを歩いていると、前を歩いている苗字が見えた。壁に手をついて歩く様子は誰が見ても大丈夫じゃないし、振り返った顔色は真っ青だ。苗字は一騎が島から出てった後にパイロットに選ばれたから、ファフナーに乗っている期間はまだ浅い。それなのにこいつの消耗は俺が見て分かる程に顕著だった。前よりも痩せたし咲良はいつも体調を気遣っていたが本人は平気の一点張り。

「大丈夫なわけねえだろ、そんなフラフラしてんのに」
「ああ、うん、大丈夫」
「って、おい!」

大丈夫と言ったそばから苗字の体が壁を伝って崩れ落ちた。衛と一緒に急いで苗字を助け起こして更に驚く。抱え起こした腕の細さは同い年の少女とは思えないぐらい肉が無く骨を掴んでいるようで、同化現象により白くなる肌と相まって、本当に骨みたいだ。

「ちゃんとご飯食べてるの?ダメだよ、これじゃあファフナーに乗るのなんて…」
「大丈夫だから!!私、乗れるから!!こんなの平気だよ!!」

心配する衛に対して激昂した苗字の姿はともすれば異様だった。平気なわけない、こんな痩せ細った体で同化耐性の低い苗字がファフナーに乗るなんて自殺行為だ。

「私が……私が乗らないと、ツヴァイには私が…私が!」
「苗字……」

鬼気迫る勢いにそれ以上なにも言うことは出来なかった。ファフナーに乗ることに取り付かれた苗字は、まるで幽霊みたいだった。


***


「はい、明太子スパゲッティ」
「ありがとう甲洋」

苗字のお父さんが亡くなってから、苗字はうちの店に来ることが増えた。お母さんの仕事が忙しいから、夕飯を外で食べるようにしているらしい。それなら自分でご飯を作れば良いと言った翌日、指に絆創膏をたくさん貼って店に現れた苗字を見て俺は全てを察した。

「今日もお母さんは残業?」
「うん、共働きの時よりも仕事増えて大変そう」
「無理してないと良いな」
「甲洋のお父さんとお母さんは?」
「奥に戻った。今日はもう苗字が最後の客だから」
「じゃあどうせなら甲洋も座りなよ」

俺は少し悩んで、言われるままに苗字の向かいの椅子に腰かけた。父親が亡くなってからの苗字は元気が無い。幼馴染の1人として心配で俺は苗字に何て言葉をかけるべきか考える。

「甲洋のお父さんとお母さんが作る明太子スパゲッティ美味しいよね」
「…ありがとう」
「お父さんも楽園のスパゲッティ好きだって言ってた」
「そっか、嬉しいよ」
「今日はなんかしょっぱいけどね」

苗字は食べながら泣いていた。俺はなにも言わないで持っていたハンカチを皿の隣に置いた。

「甲洋ってこういうところがモテるんだよね、告白する子たちの気持ち分かる」
「じゃあ告白する?」
「あはは、しない」

久しぶりに苗字の笑った顔を見た。まだ翳りのある笑顔だたけど、泣いて食べるより笑って食べたほうがずっと良い。
 苗字はまるで妹みたいで、ほっておけない奴だった。そのクセ、俺の翔子への気持ちに気づいている素振りを見せるから、侮れない。





「マークツヴァイ、ポイントを離脱!」

コックピットの隣にゆらゆら浮かぶ総士の赤い影。総士はクロッシングをしているのだから私の心の中が読めるだろうに、どうして分からないのだろう。機体の構造上こちらから一方的にシステムのクロッシングを遮断する事が出来ない。総士の険のある声を無視して、目の前のスフィンクス型のコア目がけてマインブレードを振り下ろした。一枚目の刃が砕ける、二枚目の刃はヒビの入った部分目がけてまた振り下ろす。今度こそコアに刃が突き刺さり、私は、マークツヴァイは敵のコアを爆破した。すぐさまワームスフィアから逃れる度に後退し、上空に浮かぶ次なる敵に向かって飛び上がる。

「下がれマークツヴァイ、命令だ!」
「ドライ、フュンフ、アハトは島の反対側に居る。今ここで下がれば島の防衛ラインが下がる」
「ノルンを向かわせた、このまま戦えばおまえは機体に同化され貴重なファフナーを失うことになる!」
「同化しない、信じろ総士。私はまだ、戦う」

私はいつか、想像するのも恐ろしいがこの機体に同化されるだろう。再検査の結果シナジェティック・コードの形成値が上がっても同化耐性は依然低いままだった。元からこの2つは反比例する数値である、むしろ低下しなかった事が僥倖だったのだ。
ルガーランスで敵を薙ぎ払い地面に叩き落として頭部を潰すと、金色の腕が伸びてくる。

『あなたは そこに いますか?』

背筋がぞくりと泡立った。なんと耳に心地よく戦意を喪失させる美しい声だろう。一瞬だけ指輪を嵌めた手の力が緩んで、その隙に敵に頭部を掴まれる。メキメキと音を立てて脳幹を揺らし圧迫される痛みに吐き気がした。まるで考えることを止めさせるように、脳からじわりと甘美な毒を流し込むように。心が同化される、フェストゥムに。総士が何かを叫んでいても心に届かない。

…同化なんて、されてやるものか。おまえらみたいな、私のことをなにも知らない、どこから生まれたかも分からない存在に、私を同化させるものか!私はおまえらのものじゃない、私は選ばれたあの日から島を守るファフナーのものだ、ツヴァイのものだ!
 変性意識のせいで鈍化していた感情が喉からせり上がり、口から勢いよくぶちまけられた。

「私はここにいる。ここに、マークツヴァイに!ティターンモデルを、彼らの意思を受け継ぐ者として、ここにいる!!」

マークツヴァイに乗ると決まった日、総士からある音声記録を聞かされた。それはL計画でティターン・モデルに搭乗し戦った将陵先輩が命尽きる間際に残した日々の記録が、肉声で録音されたものだった。
ティターン・モデル、西尾のばっちゃの理論を父が再構築し、日野洋次とミツヒロ・バートランドが実用化に成功させたファフナー。私のマークツヴァイのコアにはこのティターン・モデルのものが使われている。万が一に備え、L計画時に島に唯一保存された5機目のティターン・モデルの機体が使われた、マークツヴァイ。そして蔵前果林が乗るはずだった機体でもある。彼らの思いを聞いてほしいと、総士はそう言いたかったに違いない。実際は言葉無く手渡されたが総士の目には初めて見る揺らぎがあった。

「これが、おまえたちが私たちから奪った力だ」

再びルガーランスを持つ手に力を込めて頭を掴む腕を根元から切り落としてやった。痛みを感じているのか、言葉とは全く違う音を上げて地をのたうち回っている。彼らは…父は、将陵先輩は、生駒先輩は、果林は、もっと苦しかった、怖かった、悲しかった、痛かった、もっと島に居たかった…生きたかった!!それを!!

「これが、おまえたちが奪ったものだ!」

胸部にルガーランスの先端を突き刺し刃先を展開させコアを剥き出しにする。緑色に輝くコアを撃ち抜けば、敵は急速に輝きを失い始める。ワームスフィアに巻き込まれないよう跳躍して離脱し、消滅し半球型に抉り取られた地面を見つめた。

私の最期は敵による同化ではなく、ツヴァイによる同化なのだと乗った時からずっと思っていた。だから私は敵との戦闘で死んだりしない。

「敵消滅を確認。全ファフナー、帰還しろ」
「了解」
「…苗字」

珍しく総士からの個人通信が入る。命令違反に着いての厳重注意だろうか。変性意識が薄らいだ今、少しばつの悪い気持ちで彼の言葉を待った。

「どうしたの、総士」
「おまえがマークツヴァイに乗ることは、命を無為にしろという意味じゃない」
「大丈夫だよ総士、私はまだ戦える。同化耐性が低い分乗れる時間が限られているなら、その全部の時間を使って島を守るよ」
「……戻り次第すぐにメディカルルームに行け、これは」
「これは命令だ?って言うでしょ」
「…分かっているのなら早く戻れ」
「了解」

 私の変性意識は、感情の鈍化だった。感情の起伏を鈍らせ、感情と思考を分離して行動する為の意識。恐怖まで薄らぐことで結果として今日のような独断行動に走りがちになってしまうのは、総士には悪いと思っている。







北極ミールが砕け散り、流星雨のように降り注ぐ。蒼穹作戦は半分成功し、半分失敗した。私たちの中である皆城総士は、一騎の操縦するマークザインの手の中で、その存在をロストした。そして真壁一騎も、マークザインの搭乗による負荷から意識を失い、昏睡状態にある。


「視力の方はどう?」
「遠見先生に診てもらったら、少し落ちてるって」
「そう…」
「大丈夫だよお母さん、完全に見えないわけじゃないから」

蒼穹作戦から帰還すると、私の両目は真っ赤に変色していた。抗えない機体との同化が、ついに私のパイロットとしての寿命を削り取った証明に、母はどこか安堵しているようにも見えた。これで少なくとも、機体に乗って命を落とすことは無いのだから。

「それじゃあ行ってくるね」
「今日は真矢ちゃんと?」
「うん、それにカノンと剣司!咲良と一騎のお見舞い」
「気を付けていってらっしゃい」
「はーい」

背負ったリュックにたくさんのお菓子を詰め込んで、私は日の光の中に走り出す。
私たちの初めての戦いは治らない傷を深く残したまま、ひとときの平穏へと塗り替えられていった。