END

「俺の親父はお袋や俺達に手を上げる救いようの無ェくそったれだった。一番下の兄弟を生んですぐに離婚したが、その後もしつこく家のドア叩いてきたり、最後までろくな野郎じゃなくてなァ。何年か前に死んだって聞いた時も涙どころか「悲しい」って感情すら浮かんじゃこねェ」
「そう…」

 不死川一家に父親が不在なのは知っていた。だからこそ実弥や玄弥くんが代わりに家の大黒柱として頑張っていることも。ただ、こんなにも深い悲しみや父親との確執と死別の過去を聞き、私は言葉に詰まった。実弥は私を優しいと言ってくれるけど、彼の父親が亡くなったことで「不死川のみんなが解放された」と思ってしまった利己的な私は、全然優しくない。
 せめて彼の視線からは逃げずにいようと交差していた眼差しが、ふと翳る。伏せられた睫毛は男の人にしては長くて、濃い影を落とす。

「俺のこの体にはそんなクソ野郎と同じ血が流れてンだ。自分の女房と子どもに平気で暴力振るって怒鳴り散らす男の血が」

 ガリ、と胸の傷跡に実弥が爪を立てた。そのままぎりぎりと傷をなぞれば薄い皮膚が剥けて赤い血がじわじわ滲み出る。自分の体から溢れる赤を睨みつけた実弥の苛烈さに、このままでは駄目だと彼の腕を掴んで離し、指先を私の両手で包んで守る。文字通り自分の身を切る実弥の苦しみに、私は黙って手をとるしか出来ない。

「いつか俺も親父みたいにおまえを傷つけるかもしれねェ…その癖俺は、おまえが俺以外の奴にとられるのは腸が煮えくり返るぐらい気に入らねェ馬鹿なんだ」

 私の手の中で実弥の手が力強く拳を握る。あんまり力を込めたら今度は手のひらが傷ついてしまうから、私は彼の白くなった指を一本一本ゆっくりと開いていった。実弥の赤い血が私の指につくのも厭わずに、絶対に彼だけは傷つかないようにそっと。

「汚れちまうだろォが」
「いいよ、洗えば」
「…おまえを傷つける」
「結婚して夫婦になって、傷つかないままでいるなんて難しいよ」
「そういう問題じゃねェだろ」
「じゃあ結婚やめる?」
「それは…」

 結婚してこれから先ずっと一緒にいて、実弥が私を傷つける姿は全く想像がつかない。けれどそれは私の主観であり、今まで身も心も傷ついてきたのは実弥だ。当事者である彼が今も尚父親から受けた傷で自分自身を信じられない中で、私が言葉を挟むのは、難しい。けれど私は実弥が好きで、実弥も私を好きでいてくれるなら、きちんと言葉にして伝えておきたかった。

「私は実弥がそんな風になるなんて思わない。実弥が信じられない優しさを、私は信じてる。多分実弥のお母さんや弟さん達は私以上に信じてる。それは血とか遺伝子とか目に見えないものよりも、実弥が目に見える優しさと愛情にあふれてるから」

 私よりも深く広い心をあなたの中に感じるの。よく女の方が男より愛情深いとか受け入れる懐が広いとか言われるけど、あんなものは私にとって嘘ばっかだ。いつも私を受け止めてくれるのは実弥、だからその中に少しぐらい赤い血が混ざってったって平気、怖くない。
 微笑みよりも真剣さとひたむきな気持ちを乗せて、実弥の見開かれた両目を捉える。

「まだ一緒に暮らしてちょっとしか経ってないけどね、さり気ない心配りとか優しさとか愛情たっぷりの朝食とかいっぱい感じちゃって、私もう実弥以外好きになれないよ。責任とってくれないと逆に困っちゃう。その分私も責任もって実弥のこと守るからね、危ないなって思ったらビンタでもなんでもしてあげる」

 胸の真ん中が引き絞られて苦しくて切なくて痛いのに、不思議と涙腺はしっかりと気丈に頑固なまま。実弥はずっと、自分の中の未知の凶暴さに怯えながら誠実に私と向き合ってくれてたんだね。結婚はただ一緒になるだけじゃなくて、責任もお互いの家族も巻き込んでいくものだから。悩んで迷って、その素振りすら私には悟らせないで、側にいてくれた。
 それってすごく、大切にしてくれてるって事でしょう。

「不死川実弥さん、大好きです。どうか私と結婚してください」

 握ったままの彼の左手の甲に唇を落とす。
 どんな表情をしているのか知りたくて顔を上げようとしたら、握っていた手を引っ張られて実弥の胸に倒れ込み、そのまま彼はソファに背を預けて二人で雪崩れ込んだ。裸の胸に頬を寄せる形になり顔に血液が集まる中、私と同じかそれよりも勢いのついた鼓動を彼の皮膚の下に感じる。

「少しは手加減して男をたてろよなァ」
「実弥って男はーとか、女はーとか、気にするタイプだよね」
「分かってンなら黙って俺に愛されてろ」

 あと、実弥って結構気障なこと言うよね。という言葉は胸にしまって、代わりに「これ以上愛されたらだめだめになるー」とふざける私の頭を大きな手のひらが行き来する。
 ひとしきりじゃれ合ったら風邪をひく前に服を着て、手を洗うついでにホットミルクでも飲もうね。温まったら一つのベッドで寝て、明日の夜はどんな指輪を買うか相談しようね。

「おい」
「んー?」
「……俺も好きだ」

 腹筋の力だけで跳ねあがった実弥の上半身の上で、照れてふにゃふにゃの私にキスする彼は、やっぱり私の大好きな微笑みを浮かべていた。