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「おまえといると死ぬのがつらくなる」

 かなかなかな。遠くでひぐらしが鳴いていた。

 日中の勢いを失った太陽が山の背に落ちて、つかの間世界の全てを橙色に塗りかえる。
右半身を歪に欠いた男の影は日没に伴って対面する女をまるごと飲み込んでいった。

「ふしぎなことを仰るのですね」

 萎れた佇まいの男と違って女は男の影の中でほほ笑む。慈しみをやわくほぐして作った真綿のように柔和な微笑みだった。
 しかし女の優しい仕草も、男の胸を千々に裂く尖鋭さをはらんでいた。

 そんなに美しく俺に微笑まないでくれ。まだこの世界に生きていたいと思わせるような素振りを見せてくれるな。後悔なんてものを俺の心に新たに植え付けるな。
 男の眉頭にいっそう深い皺が刻まれる。苦悩と憔悴と目の前の女に縋りたい脆さを一緒くたにした表情を、女はほどけない笑みで受け入れた。


「冨岡様、誰しも死ぬのはつらいのですよ」


 あなたも、私も。みんな、つらいのです。




 駅舎に立ち尽くす女が風にあおられ、若竹模様の着物の裾を揺らす。
 乗車券を手にしながらも列車を一つ見送ったその女は、ぼんやりと線路向こうを見ていた。汽車を降りた人々の背中が改札に吸い込まれる中、右半身を引きずって歩く人影に目を引かれても、垣間見えた横顔が彼ではないと分かり切った落胆をしてしまう。
もうどこを探してもあの人の姿は見えないのに。
 面影を探し求めてしまう両目は閉じてしまおうと近くの椅子に腰かけたのに、瞼の裏にも寂し気な顔が見え隠れした。恋ではなく愛だと思っていたはずの自分の心は、彼を失っていやがうえに彼を恋しく思っていた。

 いやだわ、望んで行き遅れた女が今さら恋なんて恥ずかしい。

 自嘲気味な笑いが女の喉からこぼれる。観念して瞼を開いた女は巾着袋の中で擦れた音をたてる写真を一枚取り出して眼前にかざした。小さく笑った女と男が縁側に並んで座っている。瞬きの幸福は写真機によって掌に収まる大きさに永遠に切り取られた。
かなかなかな。遠くでひぐらしが鳴いている。


 元水柱、冨岡義勇がこの世を去った秋のはじめもひぐらしが鳴いていた。