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「今度の日曜日空いてるか?」
「今のところ特に予定はないけれど」
「じゃあ指輪見に行くぞ」

 指輪。
 夕食後に二人一緒に座ったソファの上で緊張する私を他所に、実弥は満足する番組が見つからないのかリモコンのボタンを気怠そうに押してはチャンネルを変え続ける。秒で切り替わる画面越しの出演者の顔を眺めていたら、カタン、と木製のテーブルから硬い音がしてテレビの電源が落とされた。
 お気に召す番組が無いのなら録画していた映画でも見ようか?と提案しかけた私だが、わざわざ雑音を消してこちらに向いた真剣な実弥の顔を見て唇を閉じる。一方彼は後ろ髪を無造作にかき乱し、またすぐに自分で直す落ち着かない行動を見せるので、私のドキドキもピークに達し心臓がはち切れる寸前である。

「悪かったなァ」
「なにが?」
「指輪もなにも用意しないで発作的にプロポーズしちまって」
「いいよ、形式なんて気にならないぐらい嬉しかった。まあ、もちろん驚きはしたけどね」
「女にとっちゃ大事だろォ、こういう事は」

 そんな事を気にしていたなんて、やっぱり実弥は見た目に反して几帳面で繊細な人だ。彼の中でどんなプロポーズの段取りをしていたのは分からないけれど、少なくとも私はそういうシチュエーションに夢を見るような年齢は通り過ぎた。サプライズとかドラマチックな演出とか、映画やドラマで見るだけでお腹いっぱい。それに私にとっては雨の中の突然のプロポーズだって、十分にドラマチックだった。
 指輪だって、率直に言えば実弥から貰えるだけで価値がある。

「じゃあ私の質問に答えてくれたら許してあげる」
「…妙なモン聞くんじゃねェぞ」
「変なことなんて聞かないよ、質問は簡単。どうしてあの日、私に突然プロポーズしてくれたの?」

 何事もきちんと計画を整えてから行動に移す実弥がいったいどんな衝動に駆られて「プロポーズの発作」を起こしたのか、ずっと心に引っかかっていた。彼のことだから、それこど指輪や食事や、いろいろなシチュエーションを考えていたに違いない(彼女としての良く目込みで)。そんな計画を踏み倒してまで、あの日にプロポーズしてくれたのはどうして?
 彼の真っ黒い目を覗き込んで返答を促すと、またさっきみたいに後頭部をガシガシ掻いてばつの悪そうな表情を作る。実弥は照れたり自分のペースが乱されるとよくこうする、付き合ってから気が付いた彼の癖の一つ。

「長くなってもいいかァ」
「もうお風呂も済ませたし、存分にお答えくださいな」

 家具を揃える時に一緒に買った色違いのスウェットをつまんでちょっとおふざけ。明日はお互い仕事だけど、早めにお風呂に入ったから就寝までは時間がたっぷりあった。私はどんな話を聞かせてもらえるのかワクワクして、脇に置いていたクッションを胸に抱えてスタンバイする。
実弥も逆側に置いていたクッションを私と同じように膝の上に置いて、そこに両手を組んで額を預けた。教師らしくどんな時も人の目を見て話す実弥が私と視線を合わそうとしない姿勢をとったのを見て、彼が口を開く内容の重さを慮る。

「あの日傘さして一人で歩いて行くおまえの背中見てたらよォ、このままおまえが何処か遠くに離れていったとして、俺にはなんも出来ねェんだって気づいちまった。いや、薄々気づいてても、知らねェふりしてたんだよ。恋人だろうが俺もおまえも一人の人間で、本当はお互いにどンだけ自由か…知ってて無責任におまえの未来に居座ろうとしてた」

 実弥はとても背が高いし、鍛えているのか筋肉も人よりついている。そんな成人男性の中でも大きな部類に入る彼の丸めた背中が、今初めて、寄る辺を無くした不安定で小さな子どもの背に見えて、たまらず手のひらを伸ばした。ゴツゴツした背中をゆっくり左右にさすって、時おりとんとんと優しく叩いてあやす。

「私は実弥を置いてどこかに行ったりしないよ。それに責任で言えば、私だって実弥の未来の中に自分がいたらなぁって勝手に思ってたし、お互い様だから」
「…俺はおまえがそう言うと思って、その優しさに胡坐かいてる自分が許せねェんだ」
「胡坐でも寝転んでもなんでもどうぞ、いつでも実弥の為に空けてるからね」

 ハハ、と覇気の無い笑い声を微かに漏らした実弥、あなたの方が私よりも百倍優しいよ。お付き合いを始めて一緒に暮らして、二人の生活が近くなればなるほど、私は実弥の優しさや誠実さを身をもって知って、好きになったのだから。
 愛情や惰性に流されないで、お互いの人生の責任の所在を結婚前から気に掛けてくれるなんて、頼もしいし、そういうしっかりとした人生観を持っていると分かれば、私は尚更彼との結婚への幸せが膨らむばかりだ。

「なァ、もう少し話しても良いか」
「もちろん。そうだ、ホットミルクでも飲む?」
「今はいい」
「分かった」

 浮かしかけた腰を元の位置より少し実弥側に戻したら、彼が突然着ていたスウェットを豪快に脱いだ。
 え、なに?今そういう雰囲気だった?お話しするんじゃなかった?!
 プチパニックに陥る私に構わず実弥は脱いだ服をわざわざ綺麗に畳んでソファの背に置いた。こういう細かいところが結構好きだったりしちゃう、等と散乱する思考の駄々洩れな私の顔。実弥の裸は何度も見てきたけど、人工の光にさらけ出された今の状況が恥ずかしくて思わず首を逸らそうとしたら、逃げるなと頬に手があてられそっと向きを修正されてしまう。

「傷跡ばっかで見てて気分悪ィだろうが、逸らさないでくれ」
「気分悪いなんて思わないけど…」

 改めて直視するには、実弥の鍛えられて凹凸の浮かび上がる筋肉質な胸板やお腹は、眩暈がする。ぐっと堪えてその胸板やあばら骨のあたりを横断する痛々しい傷跡を目で辿り、初めて一緒にベッドに入った日を思い出した。「ろくな父親じゃなかった」、そう短く告げて後は激しい行為で有耶無耶になり、私はその事について触れられず、彼も触れさせなかった。学生時代は喧嘩に手を出したとも聞いていたので、全部が全部父親からのものではないにしても、何不自由なく両親に愛されてきた私には想像もつかない傷だった。
 弟の玄弥くんにも、実弥と同じように顔に大きな傷がある。否応なく人目をひくその傷が気になりながら聞けずにいた過去を、ついに知る日が来たのだ。