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 こうして私は実弥からのプロポーズに頷き、2人で部屋を借りて暮らす事になった。

「……うそ」
「ぼーっと突っ立ってないで早く座れ、飯冷めンぞ」

 テーブルに並んだ焼き立てのトースト、サラダ、ソーセージ、ヨーグルト。そしてとどめに実弥がキッチンから持ってきたのは香ばしいコーヒーがなみなみ注がれた2つのマグ。顎でしゃくられておずおずと椅子に座り、寝癖1つない彼の向かいで食欲をそそる彩り豊かな食卓を見下ろした。

「これ全部実弥が?」
「あァ。なんだ、ソーセージよりベーコンのが良かったか」
「そうじゃなくて…朝からこんな贅沢な食事…」
「別に普通だろこれぐらい」

 バランスのとれた食事を前にたじろぐ私の常の朝食は、せいぜい小ぶりなパンをつまみ、一応気を使って野菜ジュースを飲む程度だ。余裕が無い時は眠気覚ましにインスタントコーヒーを一杯飲んで玄関から飛び出して行く。
 そんな慌ただしい朝を社会人になってからズルズルと続けていた私にとって、こんな朝食はまさにご馳走だ。

「自分1人だといくらでも手を抜いちゃうから、こんな朝食久しぶりでちょっと感動」
「感動するほどのもんかねェ」
「感動するよ!ご実家でも実弥が朝ごはん作ってたの?」
「おふくろと弟と交代にな。下の奴らがデカくなったら自分達でやり始めたし、んな大層な事じゃねェよ」

 毎朝どうにかして1分1秒でも長く布団に籠城したいと思う私には耳が痛い。何度か顔を合わせた実弥の弟くん妹ちゃんたち、なんて良くできた子だろう。
 ちょっと形見を狭くしながら両手を合わせ、いただきますと声を揃えてマグに口をつける。ちゃんと豆から挽いたコーヒーは香りがよくて、いつものインスタントとは全然違う。トーストもこんがり焼き目がついてサクサクで美味しいし、サラダも温野菜で体を冷やさないし、至れり尽くせりで頬が緩みっぱなしになる。

「なにもかも美味しい…幸せ…」
「そりゃどーも」
「ありがとう」
「ん」

 実弥の口が開いて、ジャムがたっぷり塗られたトーストの半分が一気にその中に消えていった。彼は一口が大きくて食いっぷりが良いのに、口元も手元も汚さずに綺麗に食事をする。見ていて気持ちが良い。

「俺ばっか見てないでさっさと食わないと遅れるぞ」
「そうだね」

 あんまり熱心に見ていたのか、実弥にバレてしまっていた。面映ゆくなって私も彼を見習ってトーストを頬張り、ソーセージとサラダを交互に口に運ぶ。

「今日は一日晴れだって、帰りに買い物しておこうかな。夕飯なに食べたい?」
「鶏肉」
「アバウト…」

 気象予報士の声に耳を傾けながら、今日の天気の確認や夕飯の相談をして、コーヒーを飲む。

 食事の時にテレビをつけても平気?と質問したのは何年前だったかな。
 付き合いだして少し経って、初めて実弥がうちに泊まりに来た翌朝だったかもしれない。何の気なしにご飯を食べながらリモコンを手に取り電源を入れ、ニュースキャスターの顔を2分眺めてからハッとしたのを思い出す。
 いつも襟を寛げているせいでルーズな人に見えるけれど、実弥は結構生活も性格もキッチリしていないと気になるタイプの人間だ。
 あの時は油を注し忘れたブリキのようにぎりぎりと音をたてて首を捻り、おっかなびっくり実弥の表情を覗き込んだ。食事のマナーがなってないと嫌われたのではないか、そう怯えてか細い声で先の質問をした。実弥は特に気にした様子も見せずに「別に気にしねェ」と返事をして、今みたいに大きな口でバターロールを食べていた。


 まさかその彼とこんなに穏やかな朝食を過ごすような仲にまでなるとは思っていなかったし、実弥がこんなスーパーダーリンなポテンシャルを持っているとも知らなかった。


「うわー!ストップ、ストップ!」
「んだよ、水とぶぞ」
「せめてお皿は洗うからって言ったよね?!」
「手ェ空いてる奴がやりゃいいだけの話じゃねえか」
「でも、ご飯まで作ってもらったのに洗い物まで悪いよ…」

 食器は洗うからそのまま流しに置いててね、そう言っていたのに。
 私が洗面所で着替えやメイクを整えている間に実弥はちゃちゃっと洗い物を済ませてしまっていた。
 すべておんぶに抱っこになってしまい、申し訳ない気持ちで肩をすぼめる。そんな私を見て実弥は濡れた手をタオルで拭き、その指で私の毛先に触れた。

「毎朝こうやってくるくるさせてんだろ」
「え?まあ、一応」

 アイロンで巻いた髪を「くるくる」と表現する実弥に不覚にも胸がきゅっとなる。
 人差し指に私の髪を巻き付けて優しく引っ張られると、つられて私の体も実弥に傾いた。咄嗟に私よりも高い位置にある彼の顔を見上げると、雨の日と同じぐらい優しい表情が目に入って頬が熱くなった。今までの自分が鈍感で気が付けなかっただけなのか、実弥が私を見る瞳は存外にやわらかい。

「おふくろ見てたからよォ、女の方が身支度大変だっつーのは分かってるつもりだ」
「でも」
「今までだってやってた事なんだ、気にすんな」
「だけど」

 すると突然、尚も言い連ねようとする私の腰に実弥の手が添えられて力が込められた。またあの雨の日みたいな恰好になった、と私の耳にこだました聞こえない雨音をかき消すよう、近づいた実弥の唇が耳たぶに触れて吐息が直に鼓膜を揺らす。ゾクゾクした感覚が耳から首裏を伝って背中を震わせ、追い打ちに彼の手が強く腰を寄せるから体が密着してしまい、逃げ道が無い。

「そんなに気にするってンなら夜に返してもらっても良いんだぜ」
「かえす…?」
「おう、唐揚げとかなァ」
「唐揚げ?!」

 そういえばついさっき、夕飯は鶏肉が食べたいと言われた。とても間抜けなひっくり返った声をあげる私を見て、実弥が喉の奥でくつくつ笑う。その喉仏の動きを見てピンときた。これはあれだ、からかわれたんだ。
 そうと分かるといかがわしい夜を想像した自分が恥ずかしくて、身をよじらせて実弥の視線から赤くなった顔を隠そうと必死に身をよじった。

「変な雰囲気作ってまでからかわないでよ!」
「変な雰囲気ってのはこれか?」
「ひゃっ」

 なかなか振りほどけない彼の腕の中での抵抗は徒労に終わり、シャツの上から背骨をなぞられて今度こそあられもない声が漏れる。せり上がってくる指がブラのホックにまで行きつき、意味深に引っ掛けられた。

「俺は別にコッチで返してもらっても良いんだがなァ」
「いいです、唐揚げ作ります!」

 開いた胸元をドンドン押したらやっと満足した実弥の体が離れていく。少し乱れた服を両手で正して、余裕綽々に構える彼を睨んだ。
 優しいけれど実弥はやっぱり実弥に変わりはない、意地悪だしいろいろ急だし、心臓に悪い存在だ。

「同じ家に2人も人間が居るンだからよォ、あんま気負うんじゃねえ」

 そう言って実弥は私の頭を撫でて、横を通り過ぎハンガーに掛けていたジャケットを手に取る。私はもう、照れたりときめいたり嬉しかったり感動したり、キャパシティーオーバーでシンクの縁に手を付いた。

「実弥がこんなスパダリ属性だったなんて知らなかった…」