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「結婚するかァ」
「……は?」


実弥ときちんと顔を合わせたのはもう一月も前だと、職場のデスクで開いた手帳を見て気が付いた。
彼が顧問を務める部活動の大会が忙しいのと私の仕事の繁忙期が重なって、2人の間を繋いでいたのはスマートフォンの画面に収まるトークアプリだけ。電話をしようとも思ったけど、終電に飛び乗って帰って次の日も朝早くに出勤する毎日に体力を削られて、正直誰かと会話をする事さえ億劫だった。
でもその多忙な日々も昨日で終わり、今日は仕事終わりにやっと彼と会えた。
会えたのはとっても嬉しい。嬉しいけれど、私は横断歩道に踏み出した一歩目で立ち止まり、後ろの実弥を振り返る。
3日前から続く雨は止むことを知らずに私たちの頭上に降り注ぎ、両脇を通り過ぎる人々の足を急がせる。色とりどりの花開く傘が交差するど真ん中で、私と実弥だけがその場に突っ立ったまま動けなかった。

「だから、俺とおまえ、結婚するかって言ってんだよ」
「え…え?」

嘘でしょ、これってプロポーズ?

バシャバシャ、傘の表面を叩く雫の音に紛れて届く実弥の言葉に動揺する。
確かにね、私も実弥もとっくに世で言う結婚適齢期に入ってて、いつそういう場面が訪れてもおかしくなかった。でも2人とも仕事が楽しくて、今はまだ結婚とかは考えられないかな。そんな風に確認し合って、けれどお互いの左手の薬指だけは他の誰にも渡したくなくて、愛してるって言いながら微妙な距離を測ってた。

「さ、さねみ…」
「とりあえずこっち来い危ねえだろォ」

緑のライトが点滅して歩行者信号が赤に変わる。それに気が付かないで茫然としていた私の手を、皮の厚い実弥の手が掴んで引き寄せた。私も実弥も右利きだったから、傘を持つ手も右手で。偶然重なった2人の左手、空けられたままの薬指が視界に映る。
存外強い力で引っ張られたせいで右手から傘の柄が滑り落ちて、カラカラとオレンジの花が足元に転がった。冷たい雨水を頭のてっぺんから浴びても、仕事終わりで疲労が蓄積し、そこに上乗せされた突然のプロポーズに対応出来ないグズな脳みそは熱っぽくてまともに機能しない。

「濡れンだろ、ったく」

誰のせいよ。全部、実弥のせいでしょ。
ずぶ濡れになる私を自分の傘に引き入れて、乱暴な動作にもつれた体は実弥の胸にダイブする。
相変わらずどんなに気温が寒くても息苦しくて苦手だと愚痴る彼は、今日も今日とて襟を全開にしていて、私の頬がちょうどそのあたりにゴツンと当たった。
どくん、どくん。私の胸の中で暴れる心臓の音が耳元で聞こえるのと一緒に、彼の心臓も同じぐらい早く脈打つのがそこから聞こえる。
この人も緊張しているんだ。見上げた顔はいつも通り、凶悪な三白眼でしれーっとした表情作って、少し不機嫌に唇をへの字にしてるくせに。

「私でいいの?」
「あァ?」
「やっぱり今すぐ専業主婦にはなれない。忙しい実弥のことを家で待つような奥さんには、すぐになれない」

可愛げのない女だから、思ってることを全部口にしてしまう。本当は実弥から結婚を切り出してくれて嬉しいのに。
でも本当の気持ちを隠して籍を入れた後に後悔するような事はもっと嫌だった。実弥が好きだから、彼に後悔や我慢をさせるような結婚をさせたくなかった。

「実弥も濡れちゃう」

私の髪に落ちた雫が、抱き寄せる実弥の服に染みを作る。今更だけど申し訳なくて握られていた手を解き彼の胸を押すと、今度は腰に手が回されもっと強い力で抱き寄せられた。
またまたビックリして近づいた彼の顔を見つめると、怖いぐらい真剣な目で私を見下ろしている。

「おまえに一回でも仕事辞めろって言ったか?」
「言ってない、けど」
「けどもクソもねェ。俺はおまえに面倒見て貰わなきゃならねえほど自立出来ない男に見えんのかァ?」
「思ってないよ」
「…俺はなァ、おまえのココをさっさと自分のモンにしてェんだよ」

腰に当てられていた手が滑り、私の左手をすくい取った。
まだ誰のものでもない薬指の付け根に指が這わされ、くるりと輪を描いて一周する。

「結婚してくれ」
「…それ、ずるい」

いつも仏頂面で、悪い顔してにやにや笑うのに。このタイミングでそんな風に優しく微笑むのはずるい。
この笑顔に弱くて、この笑顔が一番大切で、私だって実弥を他の誰にも渡したくない。

「幸せにしてね」

背後の信号が青に変わる気配がする、それに合わせて、人の波が私たちを左右にかき分けて流れていく気配も。
実弥の傘と雨音のヴェールに遮断された世界で、私は答えの代わりに彼の唇にキスを贈る。

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