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 彼に裏切られた悲しみとそれでも嫌いになりきれない淡い青春の残滓、それをよりによって男性教員……自分を前世の妻だと勘違いしていた人に打ち明ける打算的な行動。惨めでバカみたいで、人からの得体のしれない好意にすら縋ってしまう甘ったれた自分が気持ち悪い。
 一度自分から否定した先生の気持ちに、助けてくれと都合よく手を伸ばしたくなる。

 メッセージに既読を付けていた彼は、早々に自分との遠距離恋愛にも見切りを付けていたのだ。
 華道部の部活動を終えスマホを取り出すと、前の学校の友人から着信が入っていた。アオイとカナヲと別れてとりあえず教室に戻り、再度友人に電話をかけ直して聞かされたのは「彼の浮気現場」の目撃証言だった。
 新入生の女の子と手を繋ぎ、二人きりでカラオケボックスから出てきたのを友人が見つけ、さり気なく声を掛けたらしい。すると彼は悪びれるでもなく「前の彼女とは自然消滅した」と答え、可愛らしい後輩と何処かに行ったそうだ。
 笑ってしまう、彼の中で私はとっくに「前の彼女」と切り捨てられていたなんて。私が一喜一憂してお揃いのスマホケースを握りしめている頃、彼はそんな私ごとケースをゴミ箱に捨てて、新しい年下の恋人と笑い合っていた。

「先生も早く奥さんを見つけないと、誰かにとられちゃいますよ」

 私みたいに、と自虐を加えて煉獄の手を払った名前が顔を上げる。
 部活動が終わってからずっと泣き通した目は赤く腫れ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった頬を制服の袖で拭った。

「すみません先生、余計なお世話ですよね」

 痙攣する喉の揺れが呼吸を乱すのを、ぎりりと奥歯を噛みしめて乱暴に隠そうとする。

「先生はほんとに、良い先生だから大丈夫」

 彼と違って、とは言えない自分の未練がましさに辟易する名前の目が何度も涙で滲む。
 
 だって、彼も本当に良い人だったんだもの。
 優しかったし、私のどんな話にも笑ってくれた。デートの時はどんな些細な事も一緒に話して決めて、お別れの時にはまたすぐ次の約束をしてから手を離した。
 私の大好きな恋人……だった。もう何もかもが過去に置いてきぼりになって、私だけが行き場を失くしてしまっている。
 ……先生がもっと悪い先生なら良かったのに。そうすれば、あの奇妙な前世のお話も適当に聞き流して、今だって言い訳してさっさとこの教室から走って帰れたのに。
 先生が優しくて、皆から好かれる良い人だって知ってしまったから。教師とか生徒とか、前世の夫婦だとか全部ごっちゃにして、助けてって言いたくなる。
 ……ああ、いやだ。こうやって人のせいにして、楽になろうとする自分。
 なんて惨めでバカバカしいの。


 名前は、もう舌の先から飛び降りてしまいそうな残酷な言葉を最後の意地で嚥下して、どくどくといつもより早く血液を送り出す心臓を押さえつける。

「悩みを聞いていただいてありがとうございました」

 だんだんと、これ以上この場に居ると自分が自分でなくなる予感めいた恐怖を感じ、名前は煉獄の顔も見ないまま机に引っ掛けていたカバンを掴んだ。

「さようなら」

 最後まで振り返らずに煉獄に背を向ける。
 椅子を引き倒す勢いで立ち上がり帰ろうとする名前のやわい手を、骨張った硬い男の手が引き留めた。手首でも肩でもない、まぎれもなく少女の手のひらを意思持つ蛇のように、煉獄の手のひらが滑らかに覆う。

「先生……?」

 取り返しのつかない下り坂を壊れたブレーキを踏んで転げ落ちている。名前はそう思った。
 しかし予感とは裏腹に煉獄の手は強く名前の手を握った後に放され、代わりにまた、優しい体温が頭上に乗せられる。

「君は悪くない」
「っ!」
「君はなにも悪くない。それは先生がこの学園を代表して保証しよう」

 名前はたまらず煉獄の手をすり抜け教室から走り去った。
 一方、取り残される形となった煉獄は宙をかいた手を下ろす。煉獄は奇妙に凪いだ心持で、走り去る彼女の背を見送った。

 俺は今、宇髄達と飲んだ夜の冨岡の言葉の意味をはっきりと理解した。
「おまえは彼女がどういう生徒なのか知っているのか?」
 ああ、ようやく彼女のことが見えた。
 名前は確かに俺の乞い求める前世の妻だ。そしてそれ以上に、彼女はこの世界でまだ十六年しか生きていない子どもであり、教師である俺が守るべき生徒に他ならなかった。
 前世の俺と名前の年の差はせいぜいにつ、ついその感覚を引きずっていた自分が愚かだった。この世界に生まれ落ち二十余年生きてきた俺は大人で、まだ二十歳にも満たない彼女は子どもなのだ。
 年齢や感覚や物の捉え方、喜びや悲しみを経験してきた数も圧倒的に違う。大人ぶり上から物を教えるつもりは無い。しかし、隔たれた年齢差は決定的に俺と彼女の環境に作用し、それぞれの世界を変える。
 等身大の十六歳の少女の悲しみを目の当たりにして俺の心を強く打ち鳴らしたのは、顔も知らない少年への嫉妬ではなく、教師として大人として弱っている生徒を守らねばという責任感だった。

 未だ名前への愛情を昇華しきれてはいない。教師が生徒に抱いてはいけない気持ちを燻ぶらせ、それでもなお、彼女は俺の大切な生徒だった。




「杏寿郎様」

 真白いシーツに溶けて消えそうな程、血の気の薄い彼女の顔を見下ろす男が一人。
 男はこれが夢だと分かっていた。
 男は―煉獄は妻の死に目に立ち会えなかった。煉獄が妻に再会したのは煉獄家の床の上であり、病室には一度も足を踏み入れていない。

 細い体のそこかしこに包帯を巻かれた痛々しい姿の妻が、煉獄を見上げている。笑いもせず、泣きもせず、澄んだ空のように伽藍堂の両目が、煉獄の意識を縛り上げた。煉獄はそれを甘んじて受け入れ、百年前の瑕疵の焼き印を胸に刻む。

「新しい奥様とは、仲良くされていますか?」
「いいや。結局俺も、君が亡くなって数年でそちらに逝った」
「まあ……」
「だが、鬼殺隊の未来を担う少年達に見送られた」
「それならば、安心しました」
「甘露寺に後妻をとれと言ったそうじゃないか、ひどい細君だ。俺が君以外の女性を愛せるほど器用ではないと知っているだろう」
「だって、杏寿郎様がおひとりになってしまうのは、寂しいでしょう?」
「……ああ、寂しかった。君のいない毎日はさつまいもの入っていないさつまいもの味噌汁のようだった!」
「それではただのお味噌汁ではありませんか」
「そうだ、この世で一番愛した女を失った男など、なにを食べても砂を噛むようなもの」
「申し訳ありません……杏寿郎様はさつまいもがお好きでしたのに」
「気にするな、冗談だ!君が俺を忘れていやしないか試した、すまない」
「試すもなにも、わたくしが杏寿郎様を忘れるなんて、あり得ません」

 煉獄の右目が切なげに細められ、伸ばした指の背でそっと白い首をなぞった。温もりも冷たさも無い、脈拍すら感じない。妻の両目に映った煉獄は、紅蓮を染めた白の羽織に黒の詰襟を着用し、左の眼球の潰された炎柱の姿をしていた。
 くすぐったくなる懐かしさと、志半ばで膝をついた夜明けの光が右目に蘇る。

「だが君は俺の死に目に姿を見せなかったぞ。母上は来てくれたというのに」
「本当に?」
「本当だ」

 上弦の鬼との戦いの末息を引き取る間際、道の先に見えたのは母である煉獄瑠火の姿だった。

「でもわたくし、ちゃんと杏寿郎様のお姿を見ていましたよ」
「何処かにいたのか?」
「ええ、杏寿郎様の広い背中をちゃんと見送っておりました」
「どうしてまた背後に立っているんだ、君は」
「杏寿郎様の行き先を照らすのが瑠火様ならば、わたくしはいつでもその背を支えられるよう、妻として背を見送ったのです」

 煉獄は、今際ぐらいどうして自分の眼前に現れてくれなかったのかという拗ねた気持ちと、最期まで自分を見届けようとしてくれていた妻らしい律義な気持ちに板挟みになり、結局笑って名前を許した。

「杏寿郎様」
「なんだ」
「いつかどこかで、また逢いましょうね」
「……ああ。何度でも、君を探そう」



「……まだ五時」

 珍しくスマホのアラームが鳴る前に自然と目を覚ました名前は、時間を確認してがっかりした。昨日は帰宅してすぐにお風呂を済ませ、早くにふて寝してしまったのが良くなかった。
 なにか夢を見た気もするし、眠りの質が良くなかったのかもしれない。二度寝をしようと決め込んでもう一度布団を頭まで被り、瞼を閉じる。

「杏寿郎様……」

 寝ぼけて呼んだ名前は呟いた本人にすら気づかれず、くるまったタオルケットの中に沈んでいった。