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「怪我をしたと聞いたが大丈夫か?」
「ま、これぐらい音柱様からすればかすり傷よ」

 鬼殺隊本部で見かけた長身の男に声を掛け、煉獄は音柱―宇髄天元の右上腕部に巻かれた包帯に目を向ける。下弦の月と音柱が遭遇したと鴉から報告を受けた煉獄は任務の隙間を縫って本部に顔を出していた。
 上位に属する鬼の情報を少しでも共有できればと思っていたが、柱である宇髄に一矢報いるとは鬼の強さも上がっているのかと煉獄は尚気を引き締める。

「それでも任務から戻れば嫁達にド派手に泣きつかれて困ったぜ」
「仲睦まじいようで何よりだが、あまり無理をして奥方達に心労を掛けるのはよくないぞ!」
「それはお互い様だろうが」

 現柱の中で所帯を持つのは宇髄と煉獄の二名のみであり、何かと家庭のあれやそれを話す仲となってからはこうして肩を貸し合う機会も増えたように思い、煉獄も宇髄も悪い気はしなかった。

「前におまえが足やられて戻って来た時、蝶屋敷に嫁さんが来てたろ。同じ時期にあそこで伏せてた隊士達が盛り上がってたぜ。べっぴんさんが一目散に炎柱に詰め寄って、わんわん声上げて泣いてたってな」
「よもや、俺の知らぬところでそんな話が出回っているとは!」
「わざわざ家飛び出して来るなんて、甲斐甲斐しい嫁さんだって噂だぞ」

 煉獄の妻は両親を鬼に殺されている。
 そういった境遇の者は鬼殺隊や隠、それらに関わる人間としては無情ながら、そう珍しい生い立ちではない。彼女は幸いにも両親を喪って後父親の妹夫婦に引き取られ新たな家族と共に円満に暮らしていたのだが、そこも数年と経たずに荷物を纏めて出て行く事となる。


 月に叢雲のかかる夜明け前の深い時刻に、煉獄は初めて妻と出会った。
 ある集落が襲撃され元凶たる鬼を討てと煉獄を含めた数名の隊士が命を受け現場に向かった。そこでは生き延びた人間が散り散りに逃げ惑い、一匹の鬼がばりばりと人の骨を食らっている最中であった。煉獄は早急に鬼の頭と胴体を切り離し他に鬼はいないかと家々を見て回ると、闇夜に劈く少女の悲鳴が聞こえ、音の出所へと走る。煉獄が件の家の戸を叩き壊し目撃したものに、然しもの煉獄も息を止めた。
 煉獄より僅かに幼い少女が鬼に組み敷かれ、夜着を開かれて晒されたまだ未熟な胸の中心に木片を突き立てようという壮絶な場面を煉獄は右手の日輪刀で切り裂き、左腕で少女を拾い上げた。
 灰のように霞んで消えていく鬼の前で少女はまだ錯乱した様子で木片の先端で自害しようとする。煉獄はささくれ立つ木の皮で自分の手のひらが傷つくのも厭わずにその先を握り込み、ゆっくりと少女の腕を下ろした。

「もう大丈夫だ。此処にはもう、君を傷つける者はいない」
「………」
「何故このような事を」
「……お父様が命をかけて守ってくれたこの体を化け物に汚されるぐらいなら」

 自死を選ぶ。
 そう言われているようで煉獄は面食らう。

「そうか。ならば君の父上が守ったその命だけでも、救えて良かった」

 肩からずれ落ちる着物をそっと整えて煉獄が合わせを直してやると、そこでやっと、少女の目から熱い涙がぼろぼろ落ちる。煉獄は彼女の目じりを親指の腹でぬぐい、到着した隠へと預けたのだった。
 まさかその後、引き取られた叔母の家に煉獄が現れ嫁に来てくれと頭を下げるとは、彼女は露にも思わなかった。




 彼からの一方的な別れの真実を知った翌日、目を腫らして登校した友人をアオイやカナヲは何も言わずに気遣った。全てを消化できなくても一晩泣いて幾分気が晴れた彼女は、それから徐々に明るさを取り戻したのだが、一難去ってまた一難。

「つまりこの頃の日本は鎖国状態であり」

 お昼を食べた後の授業は、さっきのご飯に睡眠薬でも盛られていた?と思うぐらい眠気に襲われる。例えそれが生徒の人望に厚く、授業が面白いと人気の煉獄先生の授業でもだ。
 せいぜい三十近い机が収まるスペースの教室で腹式呼吸を使う必要があるのか、甚だ疑問だが確実に他の教師より響く煉獄の声を以てしても、睡魔にオールを任せて午睡の舟に乗る生徒の耳には届かない。
 彼女も例に漏れず重い瞼を必死にこすり暗緑色に浮かぶ白墨の羅列に目を凝らすが、右手で掴んだシャープペンシルの動きはカタツムリより遅かった。
 手の甲の皮をつねってみたり、床に着けた踵を上げ下げしたり、無駄な抵抗を続ける。昼食後の満腹感に加えて、今朝は二度寝をしたり良い睡眠に恵まれずにいた彼女の瞼がうとうと、スローシャッターを繰り返した。
 もう我慢できないと最後のシャッターを切った時、黒板に文字を書き連ねていた煉獄が白墨を持ったまま振り返る。カーテンでも緩和しきれない西日に濃く照らされて、鼻梁や頬骨の陰影を際立たせた美しい面影が彼女の網膜に焼き付いた。

 煉獄先生って、本当に綺麗な顔をしている。どちらかと言えば冨岡先生の顔の方がタイプだけど、この人の横顔は、今まで見たどんな人より綺麗。

「集中!!」

 居眠りの導入にはもったいないな、と彼女が暢気に眠気への抵抗を止めた途端、煉獄のよく通る声が教室全体を揺らした。怒鳴るよりも険しさが無く、しかし普通の大声より直に頭に届くその声に生徒達は慌てて睡魔からオールを奪い取り自分の手で意識を引き戻した。
 彼女も周りの学友達と同じく弾かれた様に落ちていた首を伸ばして目を開き、教卓に視線を戻した。

「よし、全員その場に起立!」

 何が起きるんだろう、まさかこのまま居眠りを罰せられるんだろうか。
 彼女は煉獄の行動の意図が読めずに恐る恐るイスから立ち上がる。他の生徒達にとっては珍しい事ではないようで、居眠りしていた者もそうでない者も、大人しく歴史教師の言葉に従い立ち上がった。

「大きく息を吸って、吐いて。深呼吸!」

 煉獄の呼び声に、教室内の生徒が一斉に深呼吸をする。中には天井に大きく腕を突き出して伸びをする者、体側に体を折り曲げる者もいた。訳が分からないなりに彼女は前の席に座る神崎アオイを真似て自分も肩の力を抜き、大きく深呼吸をする。
 換気の為に少し開いた窓から入る新鮮な空気を肺に送り、代わりに古くなった空気を吐き出すと確かに思考がクリアになった気がして、すっきりとした面持ちで再び椅子に座る。

「日々意識せず呼吸をしているが、こうして改まって深呼吸をすると気持ちがいいだろう
!午後の授業は確かに眠い。だが、もう少し頑張ってくれ」

 煉獄はそう言ってにかっと笑った。授業中に眠りこける生徒を叱りつけるでもなく、さああともう一息だ!と背を押す度量の広さを感じ、先生はこういう所が生徒に人気なんだろうなと彼女は感じ入った。
 それとは別に、教え子に呼吸を説く煉獄を見ると、彼女の胸は妙にわななくのだった。気を紛らわせたくて黒板上の文字を板書し、視界に飛びこむ煉獄の手を見て彼女の心臓が逸る。

 昨日の放課後、恥も外聞もなく泣く私の手を掴んだ先生の手は大きかった。
 少し乾燥した手のひらに自分の手が覆われた時、他人の体温を感じてこんなに自分の心を乱されたのは初めてだった。彼氏……元カレと初めて手を繋いだ時はもちろん緊張したけど、あのドキドキとは全然違う。触れ合った皮膚から煉獄先生の熱が細胞を伝って、心臓までぐるっと巡って、心の中まで掴まれたみたい。
 ドキドキとかときめきとかそういう少女漫画みたいな、花が咲いたりキラキラした空気感とは似ても似つかない、生きている人間が持つ生身の感情。
 あの感覚を思い出すと私のこめかみのあたりに血液が集まって、深呼吸で整えられたばかりの頭がクラクラした。
 こんなんじゃ浮気をした元カレを責められない、そんな気持ちに足をすくわれそうになる。それに……そう、煉獄先生には、前世から惹かれ合う女性がいるんだから。何を勝手におこがましく、ドラマチックな気持ちに浸っているのか。
 どうか煉獄先生の思い人が早く見つかって、先生に幸せが訪れますように。私の気持ちが変な方角に走り出してしまう前に。


 自身を見つめる彼女の視線に気が付いた煉獄は、背中で熱を受け止め素知らぬふりをして授業を進めながら昨晩の夢を思い出した。
 妻の死に目に都合よく間に合った夢。
 病室の薬品の香りに囲われて留めおけない生命の剥落を見せつける妻が、煉獄の死に際に背を眺めていたと告白する、願望を表す夢。
 ちりちりと背を焦がす視線に夢の中の妻を重ねようとして、詮無い事だと煉獄はそれ以上の追及をやめた。
 窓越しに感じる太陽の暑さに夏の到来を感じ、光さす明るさとは裏腹に煉獄の気持ちは濁っていく。
 炎柱、煉獄杏寿郎の妻を連れ去った季節もまたこんな夏のさなかだった。