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 昼休み、神崎アオイはお弁当のだし巻き卵を口に運びながら四月に転校してきた新たな友人の憂い顔を見つめた。
 最近、名前はどこか吹っ切れた表情でいたのだが、今度は休み時間の度にスマートフォンの画面を気にするようになった。それ自体は悪い事ではないが、なにせ思いつめた顔で画面を見ては落胆し深いため息をつくのを眺めるのは、学年の母と揶揄されるほどの世話焼きであるアオイの心を引っ掻いた。

「浮かない顔だけどなにかあったの」
「ごめん、そんなに顔に出てた?」
「ええ、かなりね」
「大したことじゃないんだけど」

 表情を曇らせてポケットからスマホを取り出し、ホームボタンを押して更に顔を暗くする名前は、誰がどう見ても「大した事ありあり」である。

「テストが明けてから彼から返事が返ってこなくなって」
「前の学校にいる彼氏さん?」
「うん」

 栗花落カナヲの問いに頷いて名前が開いたトークアプリ。彼へ送ったメッセージの隣に空しく表示された既読の文字により一層のため息が出る。
 お互いにテスト期間は勉強に集中する為に連絡を取り合うのは控えようと決めて、名前はテスト勉強に身を入れて取り組んだ。その甲斐あって全科目平均以上の点数をとり、晴れ晴れした気持ちで「夏休みにはそっちに戻るよ」と送信したメッセージは既読がついたまま、なんの音沙汰も無い。
 彼と同じ学校の友人からは「テスト終わったよー疲れた!」等の反応が返ってくるのに。名前は抑えきれない不安を抱え、何度もアプリを開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返す。

「部活で忙しいのかも。それかテストで赤点取って補修になったとか」

 なんとか取り繕った理由で自分を納得させようとする友人に、アオイとカナヲはそれ以上の追及を止める。ここから先は当人同士が話し合う事だ。カナヲはせめて慰めになればと、お弁当に入っていた飾り切りのニンジンを名前のご飯の上に乗せる。

「くれるの?」
「カナエ姉さんの得意料理なの。バターで炒めた甘いニンジン」
「ありがとう。……本当だ、美味しい」

 三月、お別れの時にはあんなに必死に手を振ってくれていた彼の姿も、今はぼんやり霞んでしまった。遠くに行っても大丈夫だよ、と二人を繋いでいた電子機器の細い電波なんて、たいして役に立たないじゃないか。
 お揃いで買ったスマホのカバーも、二人の関係を暗示するように四隅が剥げて色褪せていくのが、とても怖かった。友人に彼の様子をこっそり尋ねようとも思ったけれど、友人や彼に、そういう詮索をする人間だと思われるのが嫌で出来なかった。

 彼と恋人同士になったのは、高校一年の春に彼から告白してくれたのが切っ掛けだった。中学の頃から顔は知っていたけれど、顔見知り程度の私に勇気を出して声をかけてくれた彼が遊びに連れ出し、私が彼の告白に頷いたのが懐かしい。
 最後にまたスマホの着信を確認して、五分前と何も変わらない画面に諦めてポケットの深くまで押し込む。



「最終下校時刻だぞ」
「はーい。先生さよならー」
「さようなら!気を付けて帰るように」

 昼間とは打って変わって静かな教室前の廊下に見回り中の煉獄の大きな声が響いた。おおよその生徒は下校時間になれば部活動に行くか、友人と外に出て遊ぶか、真っすぐ帰宅するかのどれかだ。たまに教室に残って会話に花を咲かせる学生もいるが、その大半の生徒達も最終下校時間の前には姿を消す。つい先ほど煉獄が声を掛けた生徒達も、帰り支度を済ませて今まさに帰宅しようとするところだった。
 煉獄の足が一番端にある最後の教室の前で立ち止まり、中を覗いて学生の有無を確認する。だいぶ日も伸びて日照時間が長くなったが、それでもこの時間の電気の消えた教室は暗い。
 消灯された室内には人の姿が見えないが、念のためにドアを引いて室内に踏み込んだ。三歩ほど進んで、ちょうど廊下側の死角になる位置の机に、一人の女子生徒がうつぶせに眠っている事に気が付く。机の上に両腕を置いて、そこに頭を突っ伏した少女は眠っているのか微動だにしない。

「そこの君、もう下校時間だぞ!」
「……」

 煉獄は少女の背中を数回叩くがなんの反応も返ってこない。まさか具合が悪いのかと少女の肩を強く揺すった。

「君、具合でも悪いのか?」
「……すぐ帰りますから、ほっといてください」

 くぐもって聞こえてくる声で肩を掴んだ少女が名前だと分かり、煉獄の顔が強張った。あの生徒指導室での一件以来、煉獄は己の辻褄の合わない感情に翻弄され、意識的に彼女を避けていた。
 とはいえ、元から教師と生徒という関係上に差支えは無く、一般的なごく普通の間柄に戻っただけではある。
 大正時代の妻と目の前の一女子高生である彼女との線引きが曖昧なまま、どう接していいのか分からずに煉獄は反射的に肩から手を離す。しかし、顔を隠した髪の隙間から聞こえたのは涙声だった。耳をすませば断続的に鼻をすする音も混ざり、煉獄の胸が焦燥で締め付けられる。

 放課後の教室で一人、名前が泣いている。

「夏も近いとはいえもう夕暮れだ、このままここにいたら体が冷える」
「……煉獄先生がどっか行ったら、私もすぐ帰る」

 大正時代は今よりも男尊女卑の思想が深く根付いており、妻は夫である煉獄に決して敬語を崩さなかった。名前のこの言い草は煉獄にとって新鮮なものであり、一つ、彼女が今ここに生きる少女である事を実感させられる。

「それでも、俺が見回りで君を見つけた事を職員室に報告すれば担任の冨岡先生が飛んでくるだけだ」
「じゃあ、黙っててください」
「それは無理だな」
「なんで」
「教師として、君を放っておけない」

 その言葉は案外するりと煉獄の口から出てきた。
 この場で泣いているのが名前でなくとも、煉獄は困っている生徒を放っておけない。冨岡や宇髄であれば他の方法で生徒に寄り添うのかもしれないが、煉獄は只律義に生徒と向き合う術しか持たない、廉直な教師だった。
 不思議と素直に、煉獄の目には名前は自分の教え子だという事実だけが映る。前世のしがらみも自分の未熟な葛藤にも鍵を掛け、煉獄は教師として生徒の悩みと対面した。

「無理に話さなくてもいい。だが俺も見回りで少し疲れたから、ここで休ませてくれ」
「なにそれ」

 煉獄は隣の机の席を引っ張り出し、名前の横に置いて背を預ける。近くなった彼女の丸い後頭部に手を置いて、弟の千寿郎にするようにゆっくりと手のひらで髪を撫でる。大きな煉獄の手のひらにすっぽりと収まった彼女の頭が動いて、短く泣きじゃくる声が空っぽの教室に響いた。
 自身の二の腕をきつく掴んで感情のうねりに耐える名前から、ぽつぽつと言葉が漏れ出る。

「先生は……前世の奥さんに会えましたか?」
「……いいや、そう簡単にはいかないらしい」
「そうですか、私もです」
「君も?」
「知らないうちに振られていました」
「それは……」
「転校前の学校の彼、とっくに新しい彼女がいたの」

 名前は生きていてこれ以上惨めな気持ちになるのなら、もういっそここで死んでしまいたいとさえ思った。