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 むせかえる空の青が肌に近い、煉獄杏寿郎が十九の頃の夏。

 よもや十二鬼月かと錯覚する程人を食い貯め力を増幅させた鬼の討伐を杏寿郎が命じられたのは、既に続けて三匹目の鬼を倒した直後、夏の呼び声が聞こえる日だった。先行した隊士達から情報を得て鬼の根城を突き止めるのに二日、周到に気配を隠しながら人を貪る鬼を発見するのに三日、七尺強の体躯を弾丸のように撃ち出す件の鬼の頸を斬り落とすのに一夜を費やした。
 四十七名の一般市民、五名の隠、六名の隊士の計五十八名の命が失われた。炎柱、煉獄杏寿郎は幸いにも五体満足を維持したが、連日の戦闘による激しい体力の消耗に傑物である彼も世話になる藤の家紋の屋敷で日なか泥のように眠りに落ちたという。

 夕食も摂らず、夢ひとつ見ず、昏々と眠っていた杏寿郎が目を覚ます。それは自然な起床ではなく、部屋の外を通る廊下に気配を察知した為だった。まだ日も昇りきらない薄闇の中、息を潜めた独特の気配は彼もよく知る隠の者だった。

「煉獄様」
「入ってくれ」

 音もたてずに襖を開き室内に滑り込んだ隠に、杏寿郎の肩に力が入る。明け方前にわざわざ隠が柱の元を訪れるという事は、近い場所での新たな強大な鬼の出現か、火急の報せに他ならない。無辜の民が危険に晒されているとあれば、いつ何時、どこへなりとも馳せ参じよう。そう誓いを立てる彼ではあるが早く家に帰り、籍を入れたばかりの嫁が作った温かな飯を食べたい、と惚気た我儘を頭の隅に浮かべてしまうのも致し方なかった。

 肉体も精神も柱として申し分無い男の、たったひとつの拠り所が妻の名前であった。
 彼が己の存在する理由を「弱き者を守る」ことに定めたのであれば、彼女は自身の存在する理由のすべてを「煉獄家」に捧げて生きている。脈々と続く血筋に嫁ぐとはどういう事か、彼女は十分に理解し煉獄家の敷居をまたいだ。
 時に、杏寿郎は自身の妻を家に縛り付けていると自覚し、胸を刺す罪の意識を感じる事もあった。鬼を滅しに夜を彷徨う己は、いつ来るとも知れない夫婦の別離の予感ばかりを妻に残してしまう。まして彼女が嫁いだのは歴代の炎柱を輩出してきた煉獄家だ。その名に恥じぬ振る舞いを、家名を負う責任を、妻である役目を、と重責の枚挙に遑がない。しかしぐずぐずと澱を抱えていようと、それは何分無駄な足掻きだった。
 数々の命を見送り血の通う体で朝日に照らされ、薄氷の上を歩く心地で家路を辿る。門扉をくぐり玄関の戸を引いて嗅ぎ慣れた空気を肺に流す。軽い足音と共に彼女が姿を現す。
「おかえりなさいませ」
 そう言われてしまうだけで、杏寿郎の中の澱はどこか遠い場所に消えてしまう。家に帰れば誰よりも愛したい人が自分の帰りを待っていてくれる、安息、福音、情愛、惜しみのない善の感情が燃え盛るのを止める術を彼は知らず、また、知りたくもなかった。


「さて、いったい次はどこに赴こうか」

 太刀筋の良い杏寿郎の日輪刀は数多の鬼の血を啜ってなお切れ味が衰えない。まだしばらくは刀鍛冶の里に寄らずとも、鬼の殺傷が可能であった。枕元に置いた刀を左手に握り杏寿郎は隠が次の目的地を告げるのを待った。
 面の半分を隠す者の目が翳り、息を吸い、はっきりと告げる。

「炎柱、煉獄杏寿郎様。二日前の昼、奥様が身罷られました」

 カチリ、炎を象った鍔が鳴る。




 重い瞼を引きずるように持ち上げると、白い天井が見える。息を吸おうとして肺に激痛が走り、逆に咳き込んで空気と血を吐き出してしまう。咄嗟に手で口元を抑えようとしても、次は肩が焼けるようにじくじくと痛んだ。
 ここは何処で、わたくしの体はどうして虫の息なのか。思い出そうと割れる痛みが響く頭で考える。

 今朝はよく晴れているからと日が昇りきる前に早く家を出て、足りなくなっていたお米や何やらを頼みに市へと向かった。照り付ける日光の暑さに長く家を空けている杏寿郎様を思い出す。ちゃんとご飯を食べていらっしゃるだろうか。
 こうも暑い日が続いては、疲労もとんと溜まるだろう。夜は鬼の時間だから、せめて日中の間でもお休みが出来ると良いのだけれど。難しいかしら。お帰りになったら食べやすい冷たいうどんをお出ししようか、それともお茶碗にこぼれる程のご飯がいいかしら。
 杏寿郎様が家にいてもいなくても、わたくしの頭の中は彼でいっぱいだった。

「馬が逃げたぞ!」

 不意に、通りの向こうから叫ぶ男の人の声がわたくしを現実に引き戻す。すぐに歩行者が道の端へと走り出し、開けた道の先にわたくしの目にも逃げた馬の姿がくっきり見えた。市に荷を運ぶ途中、何があったのかは分からないが馬が暴れ出したようだった。
 土ぼこりを立てて荒々しく地面を蹴る馬の蹄に当てられればひとたまりもない。急いで馬の進む先から走り出しあわやのところで難を逃れるが、道の真ん中に子どもが蹲るのが見えた。突然の出来事に腰が抜けたのか、人ごみに流されて足を取られたのか。小刻みに震えながら膝を折って地面に伏す子どもの姿に、父が死んだ日の自分の姿が重なる。
 わたくしを鬼から守って死んでいったお父様。

 わたくしは咄嗟に走り出し、子どもの真上に覆いかぶさった。
 瞬間、全身を砕く衝撃に襲われ、青い空が黒く染まった。


 事態の成り行きを思い出すと、背骨から肋骨、足の指の爪に至るまで折れてしまったすべてが軋み、痛んだ。強烈な痛みで肌に触れる布でさえ厭わしい。触覚が痛覚へと挿げ替えられ、どこまでが自分の体なのか境界線も分からない。
 幸運にも意識を取り戻したが、もう自分の命はすぐにでも吹き消えてしまうのが如実に理解出来てしまう。
 わたくしは、もうすぐ死んでしまう。
 
 すると、足元から大きな音がして、点滅する視界に甘露寺様が現れた。

「甘露寺さま……」
「ねえ、うそ……そんな…」

 ここはおそらく病院だろう。けれど、どうして甘露寺様が来てくださったのか。
 甘露寺様はわたくしの夫である杏寿郎様の元継子で、忙しい身でありながらも時間を作っては仲を深めてくださった、友人と呼べる人だった。
 わたくしの横に歩み寄り、大きな目から涙がぽろぽろ落ちて、わたくしの頬や首筋を濡らす。奇しくも、甘露寺様のその涙と表情が、わたくしがもう助からない事をはっきりと示していた。

「子どもは…」
「助けた子どもは、怪我はしてるけど無事よ」
「そう……よかった…」
「よくない、なんにもよくないよお…」

 優しい甘露寺様。鬼を退けてしまうほど力持ちなのに、わたくしの肩にそっと乗せられた手の力は弱弱しい。こんなに可憐で勇敢な方が自分の為に涙を流してくださる事が、場違いな気持ちだけれど、嬉しかった。
 嬉しい、でも、とにかく痛みが体を苛んでどうしようもない。
 次に意識を失った時が、わたくしの生命の灯りが消える時だ。
 自分の死をこんなにはっきりと自覚出来てしまうのはきっと恐怖を感じるものなのに、不思議に心は穏やかだった。…いや、穏やかでいようと理性が恐怖を手懐けたのか。

 怖い、死にたくない、死んだら人はどこへ行ってしまうの?死んだらお父様やお母様に会えるの?
 死んでしまったらもう二度と杏寿郎様に、甘露寺様に、千寿郎くんに、槇寿郎様には会えないの?

 考えれば考えるほど不可逆の死に対する恐れと疑問は尽きないから、学校でも答えを教えてくれなかったものの正解を求めるのはやめた。もう直、この魂はその答えにたどり着く。ならば急ぐことも無い。死への歩みは決して止められないのだから。

「甘露寺さま…お言伝を…お願いしても……」
「私に出来る事はなんでもするわ、なんでもよ」
「息が……つらいから…杏寿郎さまにだけ…」

 本当は目の前の甘露寺様や千寿郎くん、わたくしを家に迎えてくれた槇寿郎様、鬼の傷を癒してくれた胡蝶様にも伝えたい事がたくさんあったが、わたくしの体力は彼らへの時間を残してくれなかった。

「どうか、また新しい奥方を…おとりください……。杏寿郎さまのような方のとなりが…あいてしまうのは、もったいないですから…」

 ふふ、と細い吐息が漏れる。
 杏寿郎様はよくわたくしの料理を褒めてくださった、心配りが嬉しいと喜んでくださった、楽しそうに笑う声が好きだと言ってくださった。どこにでもいるようなわたくしを、どこにでもいるわたくしのまま、一番に愛してくださった。そんな杏寿郎様がこの先の人生、誰も娶らないのはもったいない。人を愛する喜びを知る杏寿郎様だから。

「だけど……わがままも…ゆるしてくださいね」

 痛い、痛い痛い、死んでしまう痛みだ。命を削る痛みだ。徐々に光を失い焦点の定まらない目から押し出される涙が、擦り傷に染みるのも痛い。

「……わたくしがいちばんに、愛したことを…忘れないで…」

 杏寿郎様の夜は鬼狩りの刻。
 その夜を瞬きの間でもわたくしのものにして頂けたこと、いっとうの、さいわいでした。

「杏寿郎さまは…見送るばかりの……人だから。せめてわたくしは、彼を見送ってさしあげようと、思っていたのに」

 はらはらと、甘露寺様の涙は花びらで、わたくしの途切れる視界に降り注いだ。
 ごめんなさい、杏寿郎さま。
 痛い、痛い。愛しています、ありがとう。
 ああ、痛みもだんだん遠くなる。

「……いつか…どこかで…」

 思考が散り散りになって、まぶたが、もう、ひらけない。