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「覚えていないのか?」
「すみません、先生とどこかでお会いしたことありましたっけ?」
「また会おうと約束したのは君じゃないか」
「…えっと、煉獄先生?」
「ようやく君と出会えたのに」

 校舎一階の資料室の前、歴史教師の煉獄杏寿郎に詰め寄られた女子生徒は目を白黒させた。
 転校早々に担任の冨岡義勇から保健の授業で使う教材を取ってきてくれと頼まれ、迷いながらようやくたどり着いた目的地には、学校で大人気と噂の教師煉獄がいた。高校二年の歴史の授業は明日の三限にあり、それまで彼を見かけた事のない名前でも、一目見て噂の教師がその人だと分かった。

「声が大きくて驚くけど、授業は面白いし悩みとか聞いてくれるし、マジで良い先生だよ。休み時間とかたまに一緒にバスケしてくれるし!声が大きくて驚くけど!」と男子生徒に評され「煉獄先生、マジでイケメンだから歴史の時間楽しみにしてて!髪は金色で長めだけど、全然不潔じゃないの!むしろめっちゃ清潔感あるし!声の大きさはちょっとナイけど」と女子生徒に持て囃される、煉獄先生。

 名前は目の前の教師が話に聞いた煉獄先生だとすぐに結びついたが、想像していた雰囲気とは全く異なっていることに驚く。
 まず、煉獄の声は全然大きくない。むしろ背中がうっすら寒くなる凄みを帯びた、低く静かな喋り方をしている。それに一緒にバスケをしてくれるような気さくさは感じられないし、何故か、理由も無く詰るような空気を出している。
 確かに顔はすごく整っているけど、精悍な顔立ちはどちらかと言えば猛々しい印象を与えた。

「先生、二日酔いですか?」

 みんなが言っていた煉獄先生なら、このぐらいの軽い冗談に乗ってくれるだろうと茶化すと、彼の背に茹だった空気が見えるのではないかと思うほどの熱気が放たれ、肌が粟立つ。怖いぐらい真剣な両目が転校生の目をじっと見つめる。もし眼力が物質的な力を持っていたら名前の顔には穴が二つ空いていただろう。

「先生、私と誰か別の人、間違えてるんじゃ」
「俺は自分の妻を間違えたりしない!」

 名前の声を遮った、怒りを含んだ大声。
 大人に叱られたり怒られたりする経験は何度かあった。それは親だったり、先生だったり、いろいろあった。でもこんな風に、大人の男の人から真っすぐに怒りをぶつけられたのは初めてで、名前の顔に怯えの色が広がる。無意識に首を左右に振って、彼女は拒絶の意思を表し徐々に後ずさった。

「私まだ高校生ですよ…?誰かと結婚なんてしたことない」
「君は俺が十八歳の時に嫁いできた。そして俺が十九歳の夏に、俺を置いて黄泉路を渡った」
「なに、よみじ?私と先生が結婚?どうかしてる、なんなの…やめて」
「俺もその一年後に死んだ。そしてまた巡り会えた!今ここで!」
「助けて、冨岡先生…!」
「なぜ水柱の名前を呼ぶ!」

 煉獄は衝動的に彼女の細い手首をつかんで振り上げた。十七歳の少女の体はいとも容易く持ち上がり、やめてはなして!と恐怖と痛みで泣き喚く。その甲高い声がさらに煉獄の頭を煮え滾らせた。

「なにをしている煉獄!」

 なかなか戻ってこない彼女を心配した冨岡がようやく現れ、煉獄を後ろから羽交い絞めにした。身長も体重も煉獄の方が上だが、冨岡は体育教師の意地と担任の責任にかけて煉獄を拘束する。男同士が全力を押し付け合う凄みに名前の体が竦み、後ろに倒れるように二人から距離を取った。
 煉獄の手のひらから彼女の体温が奪われる。その感覚が彼の背筋を凍らせて最悪の光景をフラッシュバックさせた。
 大正時代の煉獄家、布団の上に寝かされた妻、触れた頬の冷たさ。

「教室に戻れ!」

 一瞬、まだ教材を取って来ていないと思ったが、彼女は冨岡の指示に従い震える両腕を抱いて廊下の曲がり角に走り去った。
 その背中を食い入るように見つめる煉獄の異様な執着に、冨岡は彼女の足音が消えるまで万力を込めて彼を引き留めた。階段を上る音が消えると、煉獄の体から力が抜け冨岡も体を離す。

「気でも触れたか」

 爆発寸前の感情が一気に沈下した煉獄の肩を掴み、冨岡は言葉少なに詰問する。
 二人の間に何があったか知らないが、煉獄は教師であり彼女は生徒だ。スパルタで名の通る冨岡だが、理由も無く生徒を叱る人間ではない。まして煉獄は生徒からの人望も厚い教師だ。その煉獄が我を忘れて一人の少女に手をあげる等、余程の事態が彼の中で起きているのだ。
 大きく息を吸って吐き出し、煉獄はいつもの覇気を失った声で語る。

「…彼女は、炎柱煉獄杏寿郎の妻だ」
「……鬼殺隊の類か」

 煉獄が頷き、冨岡は事の重さに沈黙する。


 煉獄杏寿郎や冨岡義勇には「前世の記憶」あるいは「別世界の自分の記憶」がある。
 何をきっかけにその記憶に目覚めたのかは定かではないが、魂に紐づけられた「記憶」を持って、彼らは生きている。しかし「記憶」は決して完全なものではなく、断片的であったり、忘れがたい出来事などが寄せ集まった不完全なものだった。

 鬼が人を脅かす大正時代の日本で、刀を手に取り鬼狩りをしていた。
 そんな物語を彼らの心が覚えている。
 非現実かつ超常現象に属するものだが、類は友を呼んだのか運命の巡り合わせか、同じ時を生きた鬼殺隊の面々がこの学園に集った。記憶を持つもの同士は再会にも似た感動に肩を叩き合い、記憶を持たない者には過分なものを背負わすまいと口を噤んだ。

 煉獄杏寿郎、冨岡義勇は互いに「記憶」を持っている。しかし冨岡の記憶の中に彼女の姿は無かった。煉獄に嫁がいたことは微かに覚えていたが、おそらく大正の世で顔を合わせる事が無かったのだろう。あるいは、顔を合わせる時間が無いほど、彼女の存在は短かったともとれる。

「彼女は炎柱である俺の妻になり、俺が死ぬ一年前に亡くなったのだ」

 煉獄は思い出す。任務から帰った自分を待つ、物言わぬ躯になった妻の姿を。
 不慮の事故に巻き込まれ、見ず知らずの子どもを庇い死んだと千寿郎から聞いた。偶然、付近を通りかかり彼女の最期を看取った甘露寺は、言伝を託されたと言った。
自分が死んだら後妻をとれと。
 けれど私を忘れないで、いつかどこかで会おうと。

「彼女以外の女性を隣にとは終ぞ思わなかった」

 なにが後妻か、なにが何処かで、か。
 忘れないでと言って、彼女は俺を忘れていた。

 今日までの二十余年、煉獄はずっと彼女を探していた。
 それが今日、廊下で彼女の姿を見た時、彼の心臓は息を吹き返した。
 打撲も切り傷も骨折も無い、健康そのものの姿だった。感涙に喉が引き絞られ震える声で名前を呼ぶと振り向く彼女の、十七歳で死に別たれた時と同じ顔。だがその目は煉獄の姿を捉えても、波一つ立たなかった。
 まるで初めて会うように目を丸くし、私を呼びましたか?といった表情で煉獄を見た。

「彼女は俺を覚えていなかった」

 心が漂白されたような煉獄の顔を見た冨岡は、掛ける言葉が見つからなかった。
 「記憶」を持つから、幸せだと感じる事もあった。
 「記憶」を持つから、辛く悲しい事もあった。
 煉獄には、その二つが同時に心に雪崩れ込み、ぐちゃぐちゃに彼の心を侵略した。

「なあ、冨岡」
「なんだ」
「彼女は生きていたな」
「…そうだな、非常に健康だ。体育の時も元気に走っていた」
「…うむ、そうか」

 もう直、始業のベルが鳴る。煉獄は肩を回して冨岡に背を向けた。

「何か教材を取りに来たんだろう?早くしないと授業が始まるぞ」
「ああ」
「……止めてくれたこと、感謝する」
「別にいい」

 煉獄を見送った冨岡は、急いで教材を探しに資料室に入る。
 平和で安穏とした一日が、彼女や煉獄、冨岡に平等に訪れた。