END

 表の賑やかな喧噪からガラリと変わって、体育館裏の外階段は静かだった。
 体育館のステージ発表の音がくぐもって聞こえるぐらいで、人の通りも無い。
 義勇さんは慣れた動作で階段に腰を下ろして、首にかけていたスポーツタオルをその隣に敷いた。タオルを敷いたそこを右手で数回叩いて、私に座るように促す。
 在学時代に車に乗せてもらった際も、乗り降りの前にスマートにドアを開けてくれたり、義勇さんは意外とこういう気配りが出来る細やかな人だ。胸をドキドキさせて隣に座ると、少し空いていた隙間を寄せてきて、肩と肩がぴったりくっく。

「どうして来たんだ」
「それは、どうして俺になにも言わずに来たんだ、という事ですか?」
「そうだ」

 結婚しても変わらずに義勇さんは言葉が足らない。その分を私が補うせいで、義勇さんといる時の私はいつもよりお喋りになる。

「でも、今朝はちゃんと出かけますって言いましたよ」
「場所は聞かなかった」
「だって言おうとしたら義勇さん、文化祭だから早く出るってすぐに行っちゃったから」
「……そうか」
「そうです」
「名前と学園にいるのは久しぶりだ」
「そうですね、なんだか昔に戻ったみたいです」
「俺はあの頃に戻りたくない」
「え?」

 言葉の真意が分からずに少し傷ついた。
 どういう意味ですか、と聞きなおそうと義勇さんの方を向いた私の唇が彼の唇に食べられて、質問できなくなってしまった。
 めちゃくちゃ驚いて逃げようにも、狭い階段に並んで座っている状況じゃ身動きも取れない。ちゃっかり義勇さんの片手が頭の後ろに回されて、何回も何回も、しつこいぐらい触れ合うだけのキスを繰り返されて息もつけない。
 ふと、体育館の中からひと際大きい宇髄先生の声が聞こえた。
 ここは公共の場どころか自分も通った学び舎なのだと痛感させられ、恥ずかしさに肩が震える。最後に下唇をやわく食んで、やっと義勇さんから解放された私は全身真っ赤だった。
 当然の羞恥だ、ケロっとしてる義勇さんの方がおかしいんだ!

「なに考えてるんですか」
「名前が生徒に戻ったらこういう事も出来なくなるだろう」
「たとえ私が今は学生でなく義勇さんの奥さんだとしても、学校でキスするなんて……はっハレンチですからね? ダメですよ!」
「そうか」

 そうか、じゃない。なにその「そうか」は、納得したの? 理解してくれたの?

「ここなら誰の目も無いし、どうしても今したくなった」
「次からは行動に移す前に私に言ってください」
「言えばいいのか」

 言えばなんでも許すわけじゃない。やっぱり分かってないこの人、先生なのに!
 気を取り直そうと首を振る私の悩みなんて露知らず、義勇さんはのんきに会話を続ける。

「胡蝶がやたらと俺をつついてきたのはおまえが来ていたからか」
「しのぶちゃん?」
「ああ」
「校門の近くで待っててくれて、プレゼントまで貰っちゃいました」
「良かったな」
「その後、宇髄先生と煉獄先生に会って、あと華道部を見に行ってカナヲちゃんと炭治郎くんに会いました」
「竈門炭治郎に?」
「はい、義勇さんのことちゃーんと見てくれてる子が多くて安心しました」

 私は本当に嬉しい。私の大好きな冨岡先生が、今も生徒の子達に慕われている。私の孤独を救ってくれた冨岡先生。私が学校生活で唯一悩みを相談出来た頼もしい冨岡先生。
 けれど一方でわがままな私は、さっきあんなに学校でくっつくな! と言った自分を都合よく忘れて、義勇さんの肩に軽く頭を寄せる。

「すごく嬉しくて、少し寂しいです」
「寂しい?」
「はい、これはすごく贅沢な寂しさなんです」

 寂しい、その言葉に義勇さんが私の手を握る。私はそっと目を閉じた。

「義勇さんはやっぱり冨岡先生なんです。厳しいって文句を言いながら、子ども達はちゃんと先生の優しいところを見つけてくれる。冨岡先生は人気者で、先生も生徒を大切にしている。黙って話を聞いて受け入れてくれる先生は、とっても頼りになる、支えてくれる、そういう安心が必要な生徒はたくさんいます。私もそうでしたからよく分かります」

 ひとつ呼吸を置いて、握られた義勇さんの指に自分の乾燥した指を絡める。義勇さんはなにも言わない。

「ちょっと不吉な想像ですけど、きっと生徒に命の危険が迫ったら冨岡先生は自分の身を盾にして生徒を守ってくれますよね。先生のそういう生徒思いな部分を、みんな分かってるから信頼関係も生まれる。私はそれがとっても嬉しいし、少し寂しいんです」

 そう、義勇さんはいつまでも冨岡先生なのだ。
 それは私にとって誇らしい事であり、義勇さんの隣が私だけのものではない事でもある。
 例えば、何か事故や天災があれば冨岡先生は第一に生徒の安全を守らなければいけない。私のいる家に帰るのは、その後だ。

 私は冨岡義勇の唯一になれても、一番にはなれない。

 ほら、これは贅沢な孤独だ。きっと昔の……それこそ学生の時の私なら寂しくて耐えられなかったけど、今の私は違う。絡まる指のすみで、水色の石が付いた結婚指輪の硬い感触がする。

「私は義勇さんを独り占めできても、冨岡先生を独り占めは出来ない。でも、それで良いんです。冨岡先生の優しいところを、私は学生時代にたくさん分けてもらいましたから」

 先生の無言の思いやりに、私がどれだけ救われたのか。

「またその静かな優しさで、子どもたちを助けてあげてくださいね」

 こんなに素敵な先生と出会えて良かった。
 こんなに素敵な人と夫婦になれて良かった。

「……あの頃に戻りたくないと言ったが、俺は名前の先生になれた事、本当に幸せだった」

 義勇さんが、冨岡先生がそう言って微笑んでくれる。
 また体育館の中から宇髄先生の大きな声と、生徒達の歓声が沸くのが聞こえた。




「あれ、カナヲは? 冨岡先生の奥さんは?!」
「おいどこだよ炭治郎、実在した冨岡先生の奥さんはどこに行ったんだよ! いないって事はやっぱり幻なんだ、都市伝説、超常現象が生んだ錯覚とか3Dプリンターで作った偽物うげっ!」
「やかましい!」

 カナヲと持ち場を交換したアオイの平手が、善逸の頭部を音をたてて叩く。炭治郎が善逸を見つけて教室に連れてくる間に、噂の冨岡先生の奥さんもカナヲも、とっくの昔に教室を出てしまっていた。
 善逸といえば、渦中の人間を探すうちに伊之助に捕まり一緒に焼きそばを買いに並ばされたり、常軌を逸した格好の宇髄を目撃して発狂したりと、まったく人探しに集中出来ずにいたのだった。

「でも炭次郎は奥さんの事見たんだよな、どんな人だった? ちゃんと目は二つあって鼻と口は一つずつで、足は地面についてて、おっぱいは二つ付いてた?」
「善逸、最後のはセクハラだぞ……」
「いいから! 教えて!」
「うーん、ぱっと見はちょっと冨岡先生みたいに無口そうだったけど」
「冨岡先生に似てんの?!」
「でも、話すとすごく優しい人で笑った顔はこう……ふにゃふにゃって可愛い人だったよ」
「かっかわいい……冨岡先生の奥さんは……かわいい……」
「ああ、それと。太陽と土と、緑の匂いがした」


 結局、善逸はこの十分後に並んで歩く冨岡夫婦を見て本日二度目の発狂をする事になるのを、今はまだ誰も知らない。
 そして善逸の絶叫によってまたしても噂が電光石火で広まっていった。




「ねえ、見た? 冨岡先生の奥さんが文化祭に来てるんだって!」