2

 冨岡先生はそれからもマメに花壇の世話を手伝ってくれた。雑草を抜いたり水やりをしたり、気が付くと私以外の手が入った形跡のある花壇を見て、少しほっこりする。最初は冨岡先生が顧問なんて不安しかなかったけど、今では頼れる冨岡先生に昇格している。こんな地味で面倒な花壇の世話をしてくれる先生なんてそうそういない。
 去年までの顧問は年配のおじいちゃん先生で、優しくて良い人だったけど肩が上がらないと言ってあまり畑に姿は見せなかった。

 今日は寝坊してしまい、いつもより遅く登校して急いで花壇に向かった。まだ五月だから昼に水をまいても、太陽光に熱されて水が茹だる事は多分無い。でも、お昼休みは友だちとのんびりご飯を食べて喋くりたい。

「珍しかったな、苗字」
「先生」

 花壇にはもう冨岡先生がいて、満遍なく土が濡れている。先生たちは朝も忙しいのに、先生は私に代わって水やりをしてくれていた。そして、何故かウキウキしているようにも見えた。
 一緒に花壇の世話をして一ケ月、なんとなくだけど先生の表情を読み取る技術が向上した。
 冨岡先生はちょっと植物に似ている。
 口にする言葉数が少ない分、その言葉の裏にはたくさんの意味が込められていて、こちらが気にかけて本当は豊かな単語の裏側を解読してあげると喜んでいる……ように見えた。
 答え合わせをしていないから本当はどう思っているのか分からないけど。言葉を話さない植物と冨岡先生はそういうところが似ている。
 それに、余計な一言が多いにせよ、無駄に気を使って白々しい会話のキャッチボールをする必要が無いので、先生とのやり取りは気が楽だった。先生は黙って私の話を聞いてくれて、たまに見当違いな言葉や、意外にも真に迫った相槌を打ってくれる。

「水やりありがとうございます」
「もうそろそろ食べられるだろうか」
「チンゲン菜ですか? うーん、大丈夫ですよ。今日の帰りに取ってっちゃってください」
「苗字はいいのか?」
「まだまだ生えてますし、せっかく冨岡先生が植えたんですから一番初めにどうぞ」
「なら有難く貰おう」
「どういたしまして」
「おまえは好きなのか?」

 だから、主語述語指示語は会話の中にきちんと入れて喋ってくださいよ。
 寝起きのせいでまだぼーっとしている私の脳みそを、冨岡先生の「好き」という単語が無理やりたたき起こしてくる。
 先生はもっと自分の顔がイケメンに分類される事を自覚して、言葉を選んでもらいたい。先生が私を好き、なんて意味じゃないのは百も承知でも、異性(しかも特別顔が良い年上の人)から聞く「好き」という単語にはどきどきしちゃうから。

「植物がですか? それとも野菜を育てるのが?」
「どちらもだ」
「好きですよ」

 きちんと質問の意味を聞き返して答えたのに、次は冨岡先生が豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をした。そして空っぽの咳をして、いつもの無表情を作る。

「そうか」
「うち、ペット禁止のマンションだから犬とか猫とか飼えないんです。でも、どうしても何かを育ててみたくて、植物を育て始めて。そしたらハマっちゃって。手をかけたらかけた分、綺麗な花を見せてくれたり美味しくなったりするのが嬉しくて」
「似ているな、俺と」
「先生と?」
「俺も、おまえたち生徒を見ていると同じように思う」

 本当は植物を育てている理由がもう一つある。
 でも、その時初めて冨岡先生が笑いかけてくれた。
 たまーに見かける、ムフフ、という笑いじゃない。男の人に使っていいのか分からないけれど、硬く閉ざしていた蕾がやっと開いたみたいな、花がほころぶような笑顔。男の人がこんなに優しく、そっと笑うのなんて生まれて初めて見た。
 それを見てしまったら、私はもう、ころっと簡単に、先生にチョコレートをあげる女の子の気持ちになってしまった。
 嘘みたい、ただ笑いかけてもらっただけなのに。人ってこんなに呆気なく、年の差も立場も見境が無くなって、人を好きになっちゃうんだ。


 八月、夏の暑さがピークを迎えた頃に私は冨岡先生を放課後の花壇に呼び出した。

「先生に言わなきゃいけないことがあります」
「どうした、具合でも悪いのか」
「違います」
「なら一体なんだ?」
「実は……やっと大根の季節になりました!」

 じゃーん! と背中に隠していた種袋を冨岡先生の目の前に掲げる。この日の為に夏休みを返上してギラつく太陽の下で土にたい肥をまき、もう一度土を耕しておいた。
 先生は鮭大根が好きだと言っていたので、鮭の旬に合わせて今回育てるのは秋どり用の大根にしたのである。先生に喜んでもらいたいから頑張れたなんて、我ながら単純な女だ。

「ついに大根が!」
「そうです、ついに先生お待ちかねの大根を植えます!」

 先生の真っ黒な目が光り輝いて喜びのオーラが満ち溢れていた。私もつられてムフフと笑って用意していたビール瓶と種を先生に渡す。

「これの底を土の中に埋めて穴を作ります、そしてその穴に種をまいてください」
「未成年の飲酒は犯罪だぞ」
「私が飲んだんじゃないですよ、父親が飲んだ空き瓶です」

 ビール瓶を見た冨岡先生が恐ろしい形相で睨むので、当たり前の事実を教えてあげた。先生への好きは「特別な好き」かもしれない。そう思ってからは、少し上げていたスカートの丈も元に戻したし、読んだ事もない生徒手帳の校則のページを開いたりもした。
 そんな私がどうして冨岡先生の前で飲酒を告白するのか、するわけが無いしそもそも飲んでないので冤罪だ。

「いつ頃だろうか」
「大根の収穫時期ですか? 今から順調に育てば十月から十一月頃には食べられるかも」
「ちょうどいい」

 そうでしょう、ちょうどいいでしょう。鮭大根が美味しく感じる季節でしょう?
 そうなるようにちゃんと考えてるんですよ、こう見えて。
 ムフフな笑いを噛み殺し、私も冨岡先生の隣にしゃがんで軍手をした手で土を掘った。一応、念入りに石ころを取り除く。石が残っていると大根が二股になる原因になってしまうから。先生と一所懸命に石を取って、大根の種を植え、水をまく。
 全部の行程を終えてもまだ外は明るくて、夏っていつまでも夜が来ないんじゃないかと思ってしまう。
 そうすれば、いつまでもこうやって先生と一緒にいられるのかな。

「遅い時間になったな」

 いきなり先生が近づいてきて無造作に腕を突き出し、手首に巻かれた腕時計を見せてきた。縮まった距離に自分が汗臭くないかハラハラして、そうですねもう夕方ですね、と早口で返事をして先生と距離を取る。
 びっくりした。先生があんなに近くに来るなんて初めてだから、恥ずかしいやら嬉しいやらで表情筋がめちゃくちゃになってしまった。つい軍手をしたままの手で左右の頬をもごもご揉む。
 先生が首を傾げて私の奇行を見守る、その仕草にさえ可愛いな、なんてキュンとするから自分で自分にびっくり。

「帰るまでにほっぺの土は落とすんだぞ」
「は、はい……」

 ほっぺって言った! と一人でバカみたいにはしゃいで、帰らなければと思うと途端に両足が重くなる。もう帰る時間だけれど、日は明るいから……まだ帰りたくなかった。

「私、もう少しここにいます」
「下校時間を過ぎているからダメだ、何か他にやる事があれば俺が代わりにやっておく」
「……帰りたくないんです」

 冨岡先生ともうちょっと一緒にいたいという欲もあったし、別な理由もあった。
 私がこうして熱心に植物を育てる理由と、たまに家に帰りたくなくなる理由は一緒。家族にも友だちにも言った事が無い、私の中に居座り続ける孤独な気持ち。

「家に帰りたくない」