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 誰にも話した事が無いこの気持ちを、冨岡先生になら話してもいいと思った。煉獄先生や宇髄先生には話しづらいけど、冨岡先生になら。
 植物みたいに寡黙な冨岡先生だから。

「ここは暑い、中庭のベンチに行っていなさい」
「……先生?」
「俺は宇髄や煉獄のように上手くアドバイスは出来ないが、話を聞くことは出来る」

 先生は人差し指で私の頬に着いた土を優しく払って、先に行きなさいとその指で中庭を指す。
 私は先生の優しさに涙が出そうになった。
 小さな子どもじゃあるまいし、不貞腐れて帰らないと駄々をこねて、面倒な生徒なのに。風紀委員会の顧問だから人一倍生徒への責任感を感じているのかもしれないし、それでも良かった。
 今までは、こんなありきたりな孤独なんて誰にでもあるんだから、人に話さなくてもいいと思ってた。人に話したところで解決もしない。なのに冨岡先生といるようになったら、先生が先生として信じられると思ったら、話してしまいたくなった。

「まずはこれを飲んで休め」
「ありがとうございます」

 先にベンチに座っていた私に、冨岡先生がペットボトルのお茶を手渡してくれる。有難く頂戴した私の隣に、先生が腰掛ける。さっきは冨岡先生が近くに来て、自分は汗臭くないかな? と気を回したのに、今はそういう浮ついた気持ちは萎んでいた。
 遠くのグラウンドからは運動部の子たちがぞろぞろと帰る姿が黒く見えて、もうそんな時間なんだよな、とぼんやり思いながらお茶を一口飲んだ。

「先生はご兄弟っています?」
「最近結婚したばかりの姉がいる」
「へえ」

 こんなに綺麗な顔をした先生のお姉さんだから、きっとすごく美人なんだろうな。

「私には幼稚園に通う年の離れた妹がいます。私と違って人懐っこいし、可愛いんですよ」
「そうか」
「でも妹とは、半分血がつながっていません」

 私と妹は生みの母親が違う、異母姉妹だ。実の母は私を生んですぐに離婚し、父に引き取られた私に物心がついた時、既に父は再婚し新しい母親がいた。

「私は家の中で父とだけ血がつながっていて、妹は父と母との間に出来た子なんです」

 母は連れ子の私にも分け隔てなく愛情を持って育ててくれる、素晴らしい女性だ。元から、生んですぐに出て行った実母の顔も知らない私からすれば今の母こそ「お母さん」と呼べる人。
 父もあまり実母の事は口にしたがらないし、自分を捨てた人に興味が無い私も無理に聞こうと思わなかった。幼稚園の頃、私は母と血の繋がらない関係だと知らされても、彼女が私の母親だという気持ちは変わらなかった。
 もちろん、妹が生まれてもその気持ちは変わらなかった。はずだった。

「私、本当に幸せだし、恵まれてるんです。父も母も妹も、私のことを当たり前に家族だと思ってくれています。私もです、みんな大好きな家族です」

 お父さんもお母さんも、妹が生まれた後も何一つ変わらなかった。変わってしまったのは、ひねくれていく私だ。

「でも、たまに……たまにですよ。家に帰って、父が早くに帰宅して三人で楽しそうにしているのを見ると、私、だめなんです。この家に帰ってきちゃいけないって思っちゃう」

 涙がこぼれないように空を見上げる。冨岡先生は何も言わない。いつものまっさらな表情で私の話に耳を傾けている。

「どうしても、この中に入っちゃいけないって思っちゃうんです。勝手に思っちゃうんです、父も母もそんな酷いこと言いません。私がリビングに入れば、母はおかえりなさい、夕飯にしましょうって私の好きなおかず作ってくれて……妹は私の足にくっついて、おかえりって笑ってくれる。でも、それが時々すごく苦しくて、帰りたくないって思っちゃう。私は、ひとりなんだって……」

 言葉にしたそれは鋭く尖り、地道に作り上げてきた感情を堰き止めるダムに穴を空けて、そこから濁流が一気に噴き出す。上を向いた顔の横を一粒の涙が通ると、そこに出来た道筋にどんどん後を追って涙が流れていく。

「植物を育てるのも、なにかを育てれば……血の繋がらないお母さんはどんな気持ちで私を育ててるのか、分かるかなって。最低な理由で。わたし、きたない……ひどい子どもだから」

 自分もなにかを育てれば、お母さんの気持ちが分かるかもしれないと思った。
 そして植物を育てて分かったのは、たとえそこに血縁関係が無くとも絆は生まれるし、大切に育てたものには愛情を感じるという事だ。
 だからこそ、なお苦しい。そんなお母さんを疑ってしまう自分が汚らしい。でもどうしようもない、止められない。
 いつもは平気なのに、時々……本当に時々、あの家の中にいるとたまらなく孤独を感じてしまう。そんな自分が大嫌いだった。
 私は、人は大なり小なり孤独を感じて生きていると思っている。だから、私の孤独なんて贅沢な悩みなのだ。そして孤独というものに、絶対の答えなんて無い。一人でいても孤独を感じるし、二人でいても孤独を感じる事はある。
 人はいつまでもひとりぼっちで、さみしい生き物だ。

 冨岡先生はなにも言わなかった。いや、なにも言わずにいてくれた。
 こうした孤独に対するアドバイスや解決策なんていうものを、私は求めていない。きっと何を言われても腑に落ちないだろうし、納得できずに不完全燃焼になるだけ。
 多分、宇髄先生や煉獄先生はこういう時に何か気の利いた事を言ってくれるだろう。それこそ、家族や友だちに話せば親身になって相談に乗ってくれたかもしれない。けれど、どこまでも子どもである私はそれが逆に、嫌だった。
 ああすればいい、こうすればいい。とっくに使い古されて手垢のついた答えなんて、要らない。
 でも冨岡先生なら、ただ私の孤独を聞いてくれるだけだと信じた。否定も肯定もしないで、なにも私に授けようとしないで、受け入れてくれると信じた。

「………」

 冨岡先生はやっぱり何も言わない。
 私はそれがとても嬉しかった。先生を信じて、話して良かったと思った。

「すみません、こんな変なこと話ちゃって」
「気は済んだか」
「はい」

 気は済んだか? なんてひどい言い草なのに、私にはそれぐらいがちょうど良かった。思わず口がぐにゃぐにゃの針金みたいに曲がった、変な微笑みがこぼれた。

「ありがとうございます、先生」
「もう遅い、送って行く」
「大丈夫ですよ、一人で帰れます」
「よくない」

 先生お得意の、よくない、に負けて私は自分の家まで先生の車で送ってもらう事になった。靴についた泥を念入りに落として制服を整える。職員室から荷物を持ってきた先生が自然に助手席の扉を開けて、先生もこういうレディファーストが出来るんだなと失礼な感想を思ってしまう。
 次の角は右です、二つ先の信号は左にお願いします。そういった道案内だけで、車内はとても静かだった。先生は運転中、ラジオも音楽もかけないタイプのようで、私が口を閉ざすとエンジン音が二人の間を行き来する。私の冨岡先生への気持ちはすっかり、気になる異性の先生から信頼できる先生にシフトチェンジしていた。
 学校から遠くない距離にある自宅にはすぐに着いて、私はシートベルトを外して先生に深々と頭を下げる。

「冨岡先生、今日は本当にありがとうございました」
「……ああ」
「先生みたいな人が顧問の先生になってくれて良かったです」

 助手席のドアに手を掛けると、反対側の肩を先生に掴まれた。忘れ物かな? と先生を振り返ると、何度も瞬きをする先生と目が合う。

「……今日は遅いから、早く寝るように」
「はいはい」
「それと、鮭大根だ」
「はい?」
「大根が出来たら、姉に作ってもらう」
「それは楽しみですね」
「……園芸愛好会の懇親会で一緒に食べよう」
「わあ、良いんですか。収穫祭という名のお楽しみ会ですね」

 今日植えたばかりの大根の収穫が今から楽しみだった。冨岡先生はその後、念を押して早く寝るように言ってアクセルを踏んで自宅に帰って行った。


 結局、その年の秋に開いた園芸愛好会の懇親会は宇髄先生や煉獄先生、その他もろもろの先生も参加した盛大などんちゃん騒ぎに発展した。私と冨岡先生の育てた大根はお世辞にも大きいとは言えない小さなもので、次こそは成功させると市販の大根と一緒に煮込みながらリベンジを誓った。
 冨岡先生のお姉さんの蔦子さんはとても綺麗で優しくて、お料理の味付けが少し私のお母さんに似ていた。

 そうして三年生の春になり、部員募集のPRで秋の懇親会の話をしたらなんと五人も新入生が集まって、園芸愛好会は無事に廃部にならずに済んだのだった。
 煉獄先生にはサツマイモ、宇髄先生には酒のつまみに枝豆を作れと言われ、花壇を三つも使わせてもらい、冨岡先生と後輩五人と楽しく高校最後の部活動を過ごした。