電解質の魂

「これはまた、珍妙な生き物もいたものよ」
「あなただって似たようなものでしょう。肉体がないのは一緒なのだから」
「呵呵呵呵ッ!真にその通りだな」

 電脳の海は様々なことを可能にさせるようだと、アサシンは得心したとばかりに頷いた。向かいに立つ女は、黒い髪をはらりとかき上げ切れ長の瞳をさらに細めた。黙っていれば美人だが、口を開けば怜悧な美貌を苛烈にさせる言葉が飛び出る女だった。
 女の名は、名前・ハーウェイ。レオナルドの姉であり、ユリウスの妹である。
 かの有名なハーウェイ財閥の娘であったが、十歳を過ぎてすぐに流行病で亡くなってしまった。しかし当時最高峰の頭脳とまで呼ばれた彼女の優秀な頭脳は肉体と共に滅びることを惜しまれ、人工知能としてハーウェイの所有するスーパーコンピューターにバックアップされた。
 そしてこの電脳世界で、彼女は二度目の身体を手に入れたのだった。無論、身体と言っても生身の肉体ではない。サーヴァントと同じように、ネットの中でしか存在出来ないプログラムの塊。それが名前の今の器である。
 ハーウェイ財閥が聖杯戦争に参加すると決まった際、ユリウスの補助要員として、彼女の導入が決まった。彼女の人工知能をセラフ側へとハッキングさせ、同期し、サーヴァントと同様の形で月の海へと招待された。
 そも、彼女の存在自体が母体を同じくするユリウスのバックアップのようなものであった。レオの影の、そのまた影の存在。永遠に証明されることのないホログラムの魂。


「ユリウス様も何故あなたのようなサーヴァントにしたのかしら。アサシンならもっと寡黙な人にすれば良かったものを」
「くくっ、我が主の妹にしては少々小五月蝿いな。賢しら故に口が回る」
「五月蝿いのはあなたの方よ。私にリソースを割くぐらいならその分を少しはユリウス様に当てたらどうなの」

 名前の口は止まることなく動き続けているが、その目はアサシンを見てはいなかった。半透明の指先は視聴覚室のパネルに繋がれ、目には常人には理解できない言語が投影されている。何事もないようにアサシンと会話をしながら、彼女はセラフへと更なるハッキングを試みているのだ。もちろん、失敗すればただでは済まされない。生身の体を持たない彼女が受ける制裁はおそらく、プログラムの解体。即ち、二度目の死。セラフによる強力なプログラム解体を受ければ、いくらハーウェイの叡智を結集したアバターである名前もひとたまりもなく消去される。
 そんな危険なハッキングを、名前はひとえにハーウェイ家のために行っているのだ。

「何故に貴様は我が主を兄と呼ばぬ?血の繋がった兄であろう」
「煩い」
「畏れ…ではないな」
「煩い」
「恐れか」

 恐れ。そう、名前は恐れている。

「そうかもね」
「ほう。意外と繊細な心を持ち合わせているな」
「…セラフにハックしてあなたのデータに直接クラッキングしてあげましょうか?少しはその減らず口も治せるわよ」
「心遣い傷み入るが無用なこと」
「別に、あんたなんか気遣ってないわよ」
「気遣うのは兄だけ…ということか」
「…………」

 途方も無い時間を過ごしてきた武将には、希代の頭脳を持つ才人の名前も手も足も出ない。反論するだけ無駄だと悟った名前はセラフへのハッキングを一時中断し、指先の回線をシャットダウンした。自由になった両手を組み合わせて、俯きがちにアサシンに向き直る。いつもの気丈さが成りを潜ませた姿は、どことなく儚げに見えた。

「……ユリウス様は、私をどう思ってるのかしら」
「どう、とは」
「私のこと、まだ妹だって思ってくれてるかしら?肉体は死んでしまったけれど…私は今こうしてセラフにインストールされてデータとして生きている。それが『生きている』と表現して良いのかは分からないけれど、名前・ハーウェイの意識は間違いなく、私のここにあるの」

 ここ、と言って彼女は自分の頭に手をやった。

「なるほど、それ故にマスターを兄と呼ぶのを憚っておったのか」
「……私は、たとえデータの塊であっても自分は名前・ハーウェイだと自信を持って宣言するわ。でも、ユリウス様は……お兄様は、こんな姿になった私のことを未だ妹だと思ってくれているのかと、怖い」

 怖い。
 人格、その人間をその人間たらしめる何か。それはいつの時代も人々の心の中にある、解けない疑問だった。その疑問に、今、名前・ハーウェイという女は電子の海で直面している。

「何を示せば、私はお兄様に妹である名前・ハーウェイだと認めてもらえる?記憶、意識、知識、感情…心だって、私は持ってる。でも、肉体がないだけでこんなにも不安になる。もし、お兄様に『お前は妹ではない』なんて言われたなら、わたし、わたし……」

 こんなにも感情をむき出しにする名前を、アサシンは初めて見た。常にユリウスの一歩後ろにつき従う彼女は背筋をシャンと伸ばし、自信の満ちた目で聖杯戦争に臨んでいた。なのに、目の前の彼女は取り乱してその場にう膝をつき、小さく嗚咽を漏らす。まるで親に叱咤された子どものようだ。
彼女の肉体が潰えた年齢を思えば、なにもおかしくはない。アサシンは今の姿こそ、女の剥き出しにされた魂の本流だと感じた。
 死後もみっともなく己という殻に囚われ続け、足掻き苦悩し、それでも兄や家の為に強く在ろうと戦い続ける。なんと矮小で、気高い女だろう。

「そうだな…儂に主の意思は分からぬ」

 カツカツと靴を鳴らして名前に近づく。自分も同じように地面に膝をつけ、アサシンはその艶やかな黒髪に指を通し、愛でるようにゆっくりと梳いてやった。

「少なくとも儂は、主の妹である名前・ハーウェイは貴行以外に務まらぬと思うぞ。それに主もあの性質だ、妹と思わぬ女を名前と名では呼ばぬよ」

 慰めからではなく本心でアサシンは語る。その言葉に顔を上げた名前の表情を見て、アサシンはまた呵呵呵と軽快に笑った。