どうしたっておわれない

※893パロディ



「久しぶりだな名前。モラトリアムは楽しめたか?」

 名前がオートロックもついていない安い賃貸の鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間を狙って、わざとらしく明るい声音で名前を呼んだ。途端、名前の肩が大きく縦に揺れ、最後に見た時よりも伸びた茶色い髪もふわりと揺れる。そこから俺の知らない煙草の香りが漂うのは、死ぬほど不快だった。
 首を右に曲げた。ぽきぽき、乾いた骨の音が鳴る。

 不機嫌な気持ちはそのまま剣呑な気配になって名前の肌を刺す。鍵を持つ右手が固まるのとは対照的に、こちらを振り返る首の動きは速かった。
 不穏な空気を察するぐらいの機微は残っているらしいが、平穏な日々にぬかるんでいたせいで、動作のすべてに冴えが無い。

「あ……」

 俺を見つめ返した名前は素早く俺の手元を確認し、転じて逃げようとするも中途半端にささる鍵をどうするか悩んでしまった。
 さしたまま走り去れば間一髪で俺から逃げられるやもしれんが、代わりに家への侵入を許してしまう。そうなればもう二度とこの家には帰れないし、中に残したものも取り戻すことは出来ない。

 名前の一瞬の判断の迷いを誘うことに成功した俺は、まんまと彼女の間合いに滑り込んだ。

「凶器の有無を確認したところまでは良かったぞ。もし刃物でも持っていれば背を向けた瞬間に刺されることもある。だが、その後が甘かったな! 俺から本気で逃げようとするなら躊躇うべきじゃなかった」

 名前の細い右手首を軽く上にひねる。親指で彼女の手のひらを抑え、ほかの指できつく手首を拘束したら簡単に指先から鍵が放れて、硬い金属音をたてて足元に転がった。それを足で遠くに払いのけたのは、名前の逃げ場はどこにもないと分からせたい、未成熟な自身への焦りだ。
 彼女はあきらめと怨みをたっぷり染み込ませた息を長く吐いた唇で、思ったより平気そうに話し出した。

「杏寿郎に刺される心配はなかったよ」

 名前の声が低く俺の名前を呼んだ。三秒たらずのその音に、抑えられない歓喜が背筋をゾクゾクと駆け上がる。


 名前と俺は平たく言うと許嫁の関係だった。しかもただの許嫁ではなく、ヤクザの家同士の。
 俺の父と名前の父は同じ組に属し、五分の盃を交わした親密な間柄にあった。そこから先はくだらない三文芝居にありがちな「お互いの子どもが男と女だったら結婚させて、本当の家族になろうじゃないか」という、お決まりの展開で。
 そしてなんとも都合よく双方の子どもは男と女。俺と名前。宴席の笑い話が現実になったと父親二人は大喜びして俺と名前を許嫁にした。許嫁にしたのだが、名前は大学を卒業するのと同時に身内に話していた内定先を蹴って、誰にも行き先を告げずにみんなの前から消えたのだった。
もちろん、許嫁の俺にもいっさいを黙って。
 許嫁とは名ばかりで契約書もなにもない口約束だけの関係だったが、それでも、俺は本気で名前との将来を考えていた。彼女もまた、俺を邪険に扱うことなく誰よりも近く置いてくれたから、同じ未来を見ていると思っていたのに。


 さて、一年ぶりに再会した許嫁殿が、締め付けの弱まった手首を軽く振って右手の自由を取り戻し、長い髪を大雑把にかき上げて、懐かしい眼差しを蛍光灯の下にさらした。

「見ない間にずいぶん立派になったじゃない?」

 小さい頃から大きな体格の相手にも物怖じしない黒目のまま、今度は名前が俺の右手を掴み、ぐっと上に引っ張る。白いシャツの袖がずり落ちて暴かれたのは、俺の手首から肩までを生々しく這う炎の墨だった。

「墨を入れたら銭湯に入れなくなるから嫌だって言ってたのに、これじゃあもう、銭湯どころか銀行にも携帯ショップにも行けないね」

 自分から触れておいて名前は忌々し気に俺の腕を突き放した。

「やだやだ、反社会勢力のシルシをつけた男が夜遅くに家に来るなんて。普通じゃない、いかれてる」
「きみもそのイカれた側の人間じゃないか」
「それが嫌だから家を出たんだって杏寿郎なら気づいてたでしょ」

 ガン! と闇夜に音をたてたのは名前が俺の足の間に蹴り込んだ靴裏だ。引き締まった脚を際立たせるスキニーを折り曲げ、彼女は好戦的な態度で逆に俺に詰めよってくる。
 早々に逃げをあきらめた彼女の豪快な開き直りぶりは非常に清々しい。

「私ね、杏寿郎ならヤクザでも結婚してあげようかなって思ってた。小さい頃から一緒で気心知れてるし、私には優しいし、顔も良いし。ちょっとイっちゃってるところがあるけど、その分体も心も頑丈だからちょっとやそっとの暴力沙汰でもへっちゃらだし。本当は普通の男が一番だけど、妥協して杏寿郎でもいいかなって本気で考えてた」

 ずいぶん上からの物言いだ。けど嫌じゃない、それどころか舞い上がりそうなほど嬉しい。
 名前が自分の口で俺と結婚してもいいと言ったのだから。距離が離れているうちに心まで離れたのではと心配していたが、杞憂だったようだ。下り坂だった俺の機嫌がぐんぐん上昇していく。
 それと本人は普通の男が一番だと豪語しているが、許嫁とはいえヤクザの男を相手に凄むような女は普通ではない。本人は気づいていないが、名前はとっくに普通の男がなびくような人間ではないのである。
 今さら世間に馴染もうとしたって、名前は彼女の望む普通の男には手の余る女だ。

「でもやっぱりヤクザはだめ」
「何故だ?」
「好きな人と二度と一緒に銭湯に行けないから」

 名前が何度目かの大きなため息をつく。今度の吐息には恨めしさよりも、悲しみが多く含まれていた。

「ヤクザの家って男ばっかだから、家のお風呂に入るのが嫌で嫌で。そんな私を見かねて銭湯に連れて行ってくれてたのは杏寿郎だったじゃない……少しでも気が休まればって、あの殺伐とした場所から引っ張り出してくれたのは杏寿郎だったのに。この、裏切り者」

 足を下ろした名前が力なくうな垂れてしまうと、細いうなじが蛍光灯にぼうっと照らされ浮かび上がった。指を伸ばして無防備な首筋に触れる。彼女の肌は今まで触れたなによりも冷たくなめらかで、例えようのない気持ちが胸の奥から込みあがってくる。

「わたしをあそこに連れ戻すぐらいなら、どうしてわたしと一緒に普通の人になってくれなかったの」
「すまない」
「すまない、じゃない」
「ううむ、そうだな……俺は名前よりもこの生業が嫌いじゃないんだ」

 じょじょに名前に近づいて包むように華奢な体を抱きしめる。そのまま彼女は俺の胸に雪崩れて、動かなくなった。

「私だって、家に見逃してもらってるって気が付いてたわよ。あなたが現れなかったのが何よりの証拠だものね。あなたが来たら私は全部諦めるって、家族はみんな分かってる。……あー、ほんと最低。顔が良いだけのクズ、優しいふりしたエゴイスト」
「よもやそこまで言われるとは」
「杏寿郎にしかこんなこと言わない」

 名前はそれ以上なにも言わなかった。
 威嚇する猫をあやす手つきで頭を撫でる。ゆっくりと両手が背に回されたと思ったら、キリリと爪を立てられた。