幸せになるしかないんだよ

 火山頭と花の呪霊を退けた後、特に悪びれもせずに夜蛾学長との会食を終えてすぐ、硝子から一緒に飲んでた名前が酔いつぶれたから拾いに来いと電話がきた。恋人が特級呪霊に襲われたっていうのに暢気なものだ、薄情者めと軽く思いながら口を開く。

「分かった、すぐ迎えに行くからそれまでよろしく。ちなみに、後で報告いくと思うけど知性アリの特級に襲われたからお互い仕事忙しくなるかもね」
「そうか、なら今のうちにもっと呑んでおこう」

 特級呪霊さえも硝子にかかれば酒を飲む口実に過ぎないらしく、飲み屋の個室に到着したら酔いつぶれた名前の隣で平気な顔をして新しい酒瓶を開けていた。

「急性アルコール中毒じゃないから安心して持ってけドロボウ」
「この子は僕のなんだから泥棒はないでしょ、」

 抱き上げた彼女からはアルコールの匂いがプンプンして、見た目以上に酔いが回っていると分かった。ここまで出来上がった名前は初めて見るかもしれない。
 僕よりマシとはいえ、酒に弱い自覚があるのなら少しは控えたらどうなんだと呆れつつ、こうやって電話一本で迎えに行ってしまう自分は相当彼女に甘かった。
 むしろそれが、名前を甘やかすのは恋人である僕の特権のようで悪くないと優越まで覚えるから、愛はやっぱりタチの悪い呪いだ。

 彼女を起こさないように伊地知が運転してきた車の後部座席にゆっくり寝かせ、二人で借りている部屋に帰る。家賃ぐらい僕が全部出すと言っても、名前は「それは借りを作るようで嫌だ」と突っぱねた。
 酔った自分を介抱させるのは借りを作る範囲に入らないのか?


「ごめんね悟、今日は硝子につられて飲みすぎたあ」
「言い訳なら後で聞くから、今日は早く寝なさい」
「はーい、悟先生ぇ」

 舌っ足らずな喋り方のせいで語尾が間抜けに伸びている。普段のハキハキとものを言う名前とは雲泥の差だ。あと、冗談で呼ばれた「悟先生」が結構イイ感じに性癖に刺さったのでシラフの時かえっちの時にもう一度呼ばせよう。
 車から抱え上げた彼女を揺らさないように慎重に歩を進め、家の鍵を開けた。それでも少し揺れたのか、僕の首に腕を回す彼女の口からぐえっと踏まれた蛙みたいな声が上げる。頼むから食べたものを戻さないでくれと願うばかりだ。

 高専の生徒達の間ではしっかり者のお姉さんで通っている僕の彼女も、ゆっくり時間をかけてだけれど、僕にだけでも、こんな姿を見せてくれるようになったのが面映ゆく、幸せだ。

「ねえ悟ー、明日は高専の仕事?」
「悠仁の覚えが思ったよりも早くてさ、映画見せた後は特訓つけてあげる予定」
「えー、そうなの……ふーん……」
「ご不満な声だね」
「悟はさあ、最近さあ、虎杖くんばっかだよねえ。虎杖くん素直でいい子だもんねえ」
「えー、なに? 名前ってば悠仁にヤキモチ焼いちゃってる?」

 まさかね。名前が誰かに嫉妬するなんて十年来の付き合いの中で一度も見たことない。
 恋人同士になってなお、僕が名前の愛情を試すような行為に走っても、彼女は嫉妬するでもなく、静かな声音で「私が信じられなくてそういう事をするなら、お互いに気分が悪くだけだから別れよう」とガチガチに理性的な反応を返してきた女性だ。
 それも今回の相手は女ではなく男で、くわえて、高専の教え子となれば焼くモチはどこにも見当たらない。

 直行した寝室に置かれたベッドの上に優しく名前を寝かせて、僕はやっと彼女の表情を見た。

 アルコールで溶かされた理性の殻の内側からあふれた感情で、名前の瞳はふやけそうなぐらいに濡れていた。ひとつ、ふたつ、瞬くたびに小さな粒が目じりに流れて落ちる。浅い呼吸を繰り返す唇も濡れて、不意に見え隠れする赤い舌に煽られる。
 僕は、それはもうすごく驚いて、カチャンと間の抜けた音をたててサングラスが鼻からずれても、はだかの瞳で名前を見下ろすばかりだ。
 だってこんなに無防備で感情的、体を合わせる夜にすら上手に隠されてきた名前の気持ちが露出する瞬間をはじめて知ったから。いい年の大人のくせして、初めて好きな子と(それも全部名前を指すのだが)向かい合った時のように、動けなくなる。

 名前は僕の熱視線から逃れようと長いまつ毛を伏せ、お腹の上で組んだ両手をぐっと強く握った。

「女の人は、いいの。どうせ誰も悟のそばに居続けられないって分かるから。でも、教え子は、違うでしょう。悟には、もっとさくさんの、そばにいて、追いかけてくれる子が必要だから。悠仁くんも、恵くんも、野薔薇ちゃんも……そうでしょう? 嬉しいけど、それってちょっと妬けちゃう」

 この年で十も下の子たちに嫉妬するなんて、ひいた? と弱く囁く唇を自分のソレでふさいだ。これ以上名前の言葉を黙って聞いていたら、僕の頭がどうにかなりそうだった。
 彼女の口内からは酒の味がしてこっちまで酔いそうになる。もうずいぶん雰囲気に酔っぱらってるのに、もっと酔えそうだ。引っ込む舌をつついて誘い、もっと顔を近づけて口腔を貪った。唾液が合わさり、漏れる吐息が掠れ、柔らかな感触を執拗に追う。
 唇が離れる頃には名前の目は息苦しさ故の涙も増えていた。

「僕の知らない間に、そういうのどこで覚えてきたの」

 僕まで息も絶え絶えになりながら名前に覆いかぶさる。
 親指を下唇に沿わせてそのまま口に入れた。舌の表面を押して撫でて、ぐっと奥まで差し込む。質問してみたものの、もっとやばいスイッチを押されそうで脳幹がガンガン揺すられ熱くなる情動に僕は笑った。