シーサイド

彼女はいつも遠くを見るような目をしていた。綾薙学園中等部で初めて出会った時も、彼女への気持ちを心でなく頭で理解した時も、思いを告げたその日でさえ、彼女の目は遠くを見ていた。
 名前ちゃんはオレにとっては特別な女の子だけど、その他大勢から見ればどこにでもいる女の子だ。綾薙学園を卒業した後は一般の公立高校に進み、国公立の大学に進学した、オレの恋人。同じ学校に在籍したのは綾薙の3年だけだし、その間、オレだけが彼女のことを見ていた。彼女の趣味が演劇鑑賞でなければオレの存在など彼女の遠くを見る瞳には掠りもしなかったろう。所属する劇団の板の上、客席に座る彼女を見つけた瞬間をきっと一生忘れない。呼吸のリズムも、浴びるスポットライトの熱さも、いつも遠くを見ていた瞳が初めてオレを捉えた奇跡も。

「小学生の時が、一番楽しかった」

彼女の部屋の一角にある特別なスペース。並んだ写真立てに映るのはすべて彼女が小学生時代の海辺の風景。その一枚の表面を指でなぞり、恋人の前でそう言い切る名前ちゃんの言葉に棘は無い。けど、あの頃に戻りたいというような、寂寥感を漂わせる声音だった。

「漠然とした不安も、朝に怯える後悔も無くて。ただ友だちと手をつないで、波に足を浸すだけの遊びがとっても楽しかった。目の前全部が海の青で、ドキドキして、見たことのない景色に吸い込まれるみたいな」

 彼女の目が写真をすり抜け、思い出の夏の日へと奪われる。オレにとって幸いなのは、写真の中で笑う彼女の隣にいるのがみんな女の子の友だち、という点だけ。奪われた先に例え小学生だろうと男の姿でも居ようものなら、妬ましい気持ちで気が狂っていただろう。仲間内で一番大人だなんて言われる自分も、恋人を前にすればそこらの器の小さい男と大差無かった。

「大我くんみたいな素敵な恋人が一緒にいるのに、どうしようもなく、寂しいような気持ちになるの。ワガママだね。帰りたい気持ちになる、あの夏に」

 写真から逸らされた視線がオレに向けられても、またあの遠い眼差し。人間誰にだって、最高の瞬間というものがある。それは、あるいは板の上での歓声、あるいは人生が変わるような劇的な出会い。俺にとっては疑いようもなく、ステージの上にいる自分と名前ちゃんの視線が交わったあの瞬間だ。けど名前ちゃんは違う。今よりも身軽に、無垢に、人生を謳歌していた幼き日の海辺に、彼女の心の故郷がある。

「大人になれないなあ」

 ゆったりと歩む彼女が、ソファに座るオレの足元に身を寄せる。ソファを背もたれにしてオレの膝のあたりに預けた頭を、そっと撫でた。

「どうすれば大我くんみたいな大人になれるかな」
「オレなんて、周りが思ってるほど大人じゃないよ」
「ううん、大我くんは大人だよ。私なんてばかみたいに子ども」
「オレは子どもっぽい名前ちゃんのことが大好きだけど」
「どうして?」

 撫でる手を止めると、あどけない表情で彼女がオレを振り仰ぐ。

「いつか名前ちゃんの帰りたい場所をオレの隣にすることが、たまらなく楽しみなんだ」

 きょとんと、本当の子どものように目を大きくする彼女が憐れで愛らしい。自分がどんな男に惚れられてしまったのかを分かっていないのだ。

「ねえ、今度一緒に海に行こう。お休みをとって、一泊して、いっぱい遊ぼうネ。夜はたくさんきみを感じて、きみもオレを感じて、一緒のベッドで眠るんだ。きっと、すーっごく幸せな日になるよ」

 首筋から顎の線をなぞって耳の裏を辿り、弱い力で名前ちゃんの髪を梳いた。
 俺はずっと、彼女の瞳を奪いたくてたまらなかった。あの最高の瞬間をずっとずっと、永遠のものにしたかった。名前ちゃんの最高の瞬間をオレとのものにしたかったのだ。猫みたくまんまるになっていた彼女の目の焦点が、オレの虹彩に重なり溶け合う。瞳がかちりと交じり合った。

「わたしを、大人にしてくれる?」

 言葉の蠱惑さを裏切る純粋な気持ちを乗せた唇は微笑んでいる。期待に胸を躍らせる表情にだらしなく頬の力を緩めた。
 そうと決まればオレの行動は早かった。劇団のスケジュールを調整して2日間の休みをどうにか勝ち取って、名前ちゃんにも休みを融通してもらい、ホテルの予約も済ませれば後は荷物の準備のみ。オレと違って自動車免許を持っている彼女は自分が運転していくと提案したが、やんわりと断った。彼女の運転で海に行くのはちょっと格好がつかない。旅行当日の朝、待ち合わせの駅に駆けてきた名前ちゃんは写真の中よりも大人びたスカートの裾をはためかせる。

「待たせてごめんね」
「そんな待ってないから、へーきへーき」
「大我くん荷物少ないね」
「男の旅行なんてこれぐらいっしょ」
「なにか足りないものがあったら何でも貸すから言ってね」

そう言う名前ちゃんの荷物も思っていたより小さかった。現地で買い揃えられるものは極力持ち込まない派らしい。

「ちゃんと日焼け止め塗った?日焼けしたら早乙女くんに怒られるよ、きっと」
「ばっちり塗ってきたから。それより、今日はオレ以外の男の名前出すの禁止!」
「早乙女くんも?」
「りっちゃんも遥斗王子も魚住もダメ!」
「はあい」

日の当たる電車の中、口の前で人差し指を交差しバッテンを作りかわいらしく注意してみせた。つい仕事の時のノリで自分の「小さく愛らしい」部分を強調させると、名前ちゃんも子どもを真似て小さく挙手して応える。じゃれあう内に電車は目的地の駅に到着し、彼女は早足で改札を通り抜けた。
足取り軽いその背を追ってホテルにチェックインし荷物を預けた。自由になった手ですぐに彼女の手をすくい上げる。指を絡めてしっかり手のひらを合わせたら、満開の笑顔がオレを見上げた。

「海に行こう、大我くん」

 雲一つない晴れた空は、空想上でしか知覚できなかった神様の存在を知らしめるようだ。神サマありがとうございます、と上の空な心で感謝の祈りを捧げてみる。海の季節には少し早いこの時期、浜辺の人はまばらだ。コンクリートで舗装された道から砂浜に踏み出すと、かくんと、繋がれた手が引き止める。一歩分の距離を開けて後ろ、名前ちゃんが歩道に縫い留められていた。目だけが遠く、水平線の彼方に輝く思い出を見つめて固まっている。

「名前ちゃん」
「うん」
「行こう、一緒に」
「ぜったい、はなさないでね」
「もちろん」

 溺れないよう大きく息を肺に吸い込んで、名前ちゃんのサンダルを履いた右足のオールが砂の海を漕ぎ出す。次は左、そしてまた右、左。オレも彼女の隣にぴったり寄り添って歩幅を合わせ、泳いだ。とうとうオレと彼女の2隻の船は本物の大海原へとたどり着く。

「何年ぶりの海かな」
「本当にあの写真撮ってから来てなかったの?」
「うん。プールとかには行ったけど、海は全然」
「へえー」
「ひろい」
「あと、青い!」
「光の七色の中で青が一番海の中まで浸透するから青いんだって。昔、小学校の先生が言ってた」

 あんなにしっかりと繋いでいたはずの手がすり抜けそうになった。彼女の目が遠く遠く、水平線の彼方の思い出に引き寄せられる。

「わたし、また海を見たら、涙が出ると思ってた。もう戻れないんだって…でもあんまり寂しくない」

 太陽を反射して海面が煌めく。さっきから奪われてばかりだったオレの視線。ほどけかけた手が力強く握りなおされた。真正面から海を眺めていた名前ちゃんの首が、こくりと、傾いて。

「大我くん。海、きれいだね、楽しいね」

 写真の中の少女が今、俺の目の前で鮮やかに色づいていく。あの時板の上で浴びたスポットライトよりも激しい日の光が降り注いで、今度は二人を照らし同じ場所で視線が交差した。鼻の奥がツンとしたのを誤魔化すために大げさに笑った。そのまま2人で靴を脱いで波打ち際を歩いたり、貝殻を拾ったり、然もない事を最高に楽しんだ。

「めいっぱい遊んだね!こんなに遊ぶって事をしたの久しぶり、楽しかった」
「オレもちょー楽しかった!うわっ夢中になってたらパンツまで濡れてる」
「あははは。一回ホテルまで戻ろっか」
「そうする〜」

 いったいどれだけはしゃいでいたのか。砂まみれの足を洗ってホテルまでの道を戻る途中、指先にちょこんと彼女の爪が当たる。ちょっと下にある顔を見るとそっぽを向くのに、手はオレの手の内に潜り込んできた。日焼け止めをしっかり塗った頬は別の理由で桃色に染めている様子に、オレも日差しのせいじゃない熱にクラっときた。

「大我くん」
「あーもう、昼間からあんまりカワイイことされると困っちゃうよ」
「私だって困っちゃうよ。今日が楽しすぎて、時間が止まれば良いのになあ…とか子どもみたいなこと考えてる。大人から遠のいた気分…」
「オレからすれば最高の褒め言葉だネ!」

 焦らしていた手を繋いであげたら反らされていた顔がやっとこっちを見た。遠くでも海でもなくオレを見つめる両目が愛しい。

「あ、忘れてた」
「ちょっと、今イイフンイキだったのに!」
「ほらほら大我くん、笑って!」

 繋いだ手を引っ張られて肩と肩がくっつくと、反対の手で持ったスマホの画面が掲げられる。海をバッグにしたアングル、画面に映るオレたち。この写真があの棚の上、一番前に飾られる未来を予想してオレは思いっきり笑った。

「はい、チーズ!」