青が溶け出す夜に


「皆城、あっちで生駒先輩が呼んでたよ」
「分かった」

 廊下を歩いていると不意に後ろから呼び止められる。振り向くと階段近くに立つ苗字が上の階を指さして僕にそう言った。来た道を戻って生駒先輩が待っているであろう生徒会室に続く階段へと向かう。すれ違いざまに苗字は呆れた口調で呟いた。

「また真壁につんけんして」
「君には関係のないことだ、口を挟まないでくれ」
「はいはい」

 苗字は僕や蔵前と同様の訓練を幼少時から受けている、いわゆる大人側の人間だった。アルヴィスのこともファフナーのことも僕らと同じ認識レベルを有している数少ない同輩。僕にとってそれは特別なことだ。
 そして彼女はもう一つ特別なことがある。こちらは僕だけでなく竜宮島の住民も知っていることだ。

「皆城が海野球の試合とか見に来れば真壁だって態度変えると思うよ。皆城が自分のこと意識してくれてるって思えればさ」

 苗字は島で唯一、一騎と対等に運度能力で張り合える人間だった。彼女のサヴァン症候群も一騎と同じく高い身体能力として発露している。そのおかげで、海野球で西坂に属する一騎と東坂に属する苗字が戦う時は、多くの島民がその死闘を見に砂浜を埋め尽くすほど集まるのだ。

「いろいろ考えての対応だろうけど、ファフナーのパイロット以前に真壁だって一人の人間で、私たちの友だちなんだから」
「校内での軽はずみな発言は慎め、苗字」

 棘の含んだ僕の言葉に苗字は眉をしかめた。そして反論することもなく僕の脇を通って廊下の先へと歩いていく。彼女の背が見えなくなるのを待たずに僕も階段を上り、中腹の踊り場まで来て小さな溜息をこぼす。
 また、やってしまった。
 苗字は滅多なことでファフナーのことを口にしない。しかもここは学校だ。この場であえてファフナーの話題を出したということは、彼女が真剣に僕と一騎の関係について案じているからに違いない。それなのに自分はいつもああやって相手を突き離す言葉しか口に出来ない。
 それは皆城公蔵の息子であり、責任ある立場にいるという自覚の表れでもあったが、単純に想いを寄せる相手に素直になれないという青臭い一面でもあった。

 その日は生駒先輩や蔵前達と生徒会の活動を終えた足でアルヴィスに向かい、帰宅するのは太陽も沈んだ頃になっていた。街灯の少ない海沿いの道を急ぎ足で歩いていると穏やかなさざ波の音が耳につき、昼に苗字に言ってしまった事を思い出す。
 彼女は自分と同じく、いや、あるいは所属している部隊の関係で自分以上に規律に厳しい人だ。口調はきついが自分と違って思いやりを言葉に出来る彼女に、どうして自分はあんな風にしか接することが出来ないのだろう。軽い自暴自棄になって投げやりに海辺に目をやると、ぽつりと人影が見えた。不審に思い坂を下って海辺に近づく。
 海水に膝まで浸かってこちらに背中を向けて月を見上げているのは頭に浮かべていた苗字その人だった。ざりっと僕の靴底が砂を噛む音に気が付いた彼女が髪を揺らして振り返る。ちょうど月が真後ろにあるせいで逆光になり、表情はしっかりと見えなかったが、苗字であることは分かる。

「こんな時間にどうした?」
「それはこちらのセリフだ。どうしてこんな遅くにここにいる?」
「んー、今日の訓練でいろいろあって」

 ばしゃり、海面上に持ち上げられた苗字の右足には青あざが出来ていた。
 苗字は身体能力こそ高かったがファフナーパイロットの適性は低い。理由として苗字が母体からの自然分娩で生まれたこと等が上げられたが、その事実を知った時の彼女の表情は、まるでこの世の終わりを見たかのように暗澹としていた。
 そのすぐ後だった、彼女がアルヴィス特殊工作部隊へ志願したのは。
 両親の反対を押し切る形で仮入隊した苗字は学校が終わるとアルヴィス内で訓練を受けるようになった。対人格闘を想定した訓練は厳しく、はじめ苗字の体には生傷が絶えず僕はそれを苦々しい気持ちで見ていた。
 高いサヴァン症候群の能力を持っていることはファフナーを動かすことに少なからず有利だ。それなのに、ファフナーパイロットになれないからという負い目からだった、苗字がファフナーの話題を口にしたがらないのは。

「気を抜いた途端に一発でやられて怒られた」
「ちゃんと治療は受けたのか」
「もちろん、ただの打撲だって。こうやって海に浸ってると冷たくて気持ち良いから」
「無理をするのは上策じゃない」
「けど、私にはこれしか出来ない」

 逆光のせいで苗字が今どんな顔をしているのか分からない。ただ、声はかたく重い。
 僕はこういう時にどう言葉をかければ良いのか知らなかった。だからせめて彼女と同じ場所に立ち、同じものを見よう。靴と靴下を脱いでズボンの裾を折り、小さな水しぶきをたてて彼女の隣に立つ。苗字は僕の突然の行動に驚きはしなかった。怪我をした右足を見下ろして拳を握りしめている彼女の隣で僕は月を見上げる。
 僕たちは一人じゃない。そう言いたくて、ただただ無言で彼女の隣に添う。
 これが僕に出来る精いっぱいの励ましだった。自分の言えたことではないが、苗字が一人で背負い込む事は無いと。

「今夜は月がきれいだ」
「……そうだね」

 その言葉に苗字は再び月を見上げる。月明かりに照らされた彼女の瞳の端できらりと光ったものは見なかったことにした。

「皆城、月がすごくきれいだ」