片道切符のお兄ちゃん


※現パロ


「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」

 僕の家の二軒隣の玄関から出てきた、背の低い僕を見上げる、さらに小さな女の子。
 ふいと差し出されたやわらかな右手を僕の左手で当たり前に握り返えせば、ふふっと笑う頬に浮かんだ笑窪がよく似合う、通学路限定で僕をお兄ちゃんにしてくれる君。

「今日から二年生だからね、ランドセルが赤いの」

 進級の証に取り去られた黄色いカバーの下で、一年間守られていた真っ赤な革の表面には擦り跡すら見当たらない。
 つるりと照るランドセルを誇らしげに僕に見せる名前ちゃんは、それでもやっぱり、僕から見れば幼く可愛い女の子だ。いや、ただ僕がそう思いたいだけなのかもしれない。

 学校でも家でも、僕はいつでも「煉獄杏寿郎の弟」でしかいられないから、そのままの自分を兄と呼んでくれる名前ちゃんのままでいてほしくて。
 そんな身勝手な兄貴風を吹かるのをぐっと堪えて頭を撫でる僕を、君のくりくりと丸い両目は子供らしく、でも、女の人だからかな。僕のよこしまな気持ちを見透かしたみたいに、頬を膨らませる。

「一つお姉さんになったんだよ、千寿郎お兄ちゃんと近くなったの」
「うん、そうだね」
「早くお兄ちゃんに追いつかないかなぁ」

 ああ、やっぱり可愛いな。

 君はあどけなく、いつか自分の時計がぐるぐる早回りして、僕と同じ年齢に並べると思っている。僕の中で回る時計の針と君の中で回る時計の針は、四年の時差を絶対に変えられないのに。
 いつまでも、僕の可愛い妹でいてくれないかな。
 初めての登校日、震える手で僕の手を求めてくれたみたいに、これから君が経験する初めての瞬間全部、隣に僕がいたら良い。
 僕はいつでも、名前ちゃんの震える手をとる準備は万端なんだよ。

「僕はずっと待ってるよ」

 繋いだ手の力をきゅっと強めて、車道側は僕が胸を張って歩く。昔、僕がまだ黄色いカバーをつけたランドセルを背負っていた頃に、兄上がそうしてくれたように。

「ずっと待っててね、約束だからね」

 舌足らずに約束をねだる君に、笑顔を向けた。



 久しぶりに見た名前ちゃんはずいぶんと背が伸びて、つやつやだった赤いランドセルには僕の知らない傷や汚れがたくさん増えた。
 こっちをまともに見もせずに、彼女は僕の家の前を通り過ぎようとする。せっかく姿を見られたのに、と浮足立った気持ちにせっつかれ、昔みたいにその小さい手を掴む。

「ねえ、待って」
「っ!」

 僕が手を掴んだら、彼女が振り払おうと力を込めた。ぐっ、と力んだ手のひらの呆気なさに僕は怯み、彼女はびくともしない僕の厚い手のひらに驚いていた。
 小学六年生の君と、高校一年生の僕。十二才の女の子と、十六才の男の子。

「……なに、お兄ちゃん」
「ああ、その……来年からはまった一緒に学校に行けるのかなって」

 僕の通う高校は中高一貫校で、同じ小学校の生徒はだいたいがそのまま持ち上がりで進学する。彼女もそうなれば、少なくとも僕が高校卒業するまでの二年間は、また一緒の通学路を歩ける。
 昔みたいに、当たり前に、なんの躊躇いも無く。正当な理由を振りかざして、君の隣を兄として歩けるんだ。

「わたし、違う学校に行く」
「え?」
「セーラー服の、女の子だけの学校に行くの」

 この近辺でセーラーが制服の女子高といえば、電車を乗り継いだ先にある私立の学校しかない。確かに母親同士の会話で、名前ちゃんの母親はその学校の卒業生だと言っていた。
 その女子高は、僕の通う学校とは反対側にある。

「それに、もうお兄ちゃんのこと、お兄ちゃんって呼ばない」

 だって、おかしいでしょ? 本当の兄妹じゃないのに、いつまでもそんな風に。

 名前ちゃんの背が伸びた以上に、僕の背も伸びた。僕の胸よりも下にある彼女が首を持ち上げこちらを見て、ようやくその表情が分かる。
 ふっくらとしていた頬の輪郭は少しシャープに、ビー玉みたいに丸かった目はすっと綺麗に。そしてにこにこ笑って僕をお兄ちゃんと呼んでいた唇が、はっきりと動いた。

「ばいばい、千寿郎くん」





 あ、と思った時には既に手遅れで。駆け下りた人気の無い見ず知らずの駅のホーム、夕暮れも過ぎた蛍光灯の舌、私の手首を掴む男の人の手。
 大好きだった、お兄ちゃんだった人の手。

「ねえ、逃げないで」

 後ろから聞こえた声が記憶よりも低く深く、思っていたよりも長い時間、千寿郎くんと話していないことを感じた。
 体はもう逃げられないから、せめて逸らした視線の先、コンクリートにこびりついた二つの影。私よりも一回り以上大きい彼の黒い写しに驚きと、胸の痺れ、知らないフリをしていた一つまみの怖い気持ちがわき上がる。

「名前ちゃんに背を向けられるのが一番悲しいんだ」

 その言葉、そっくりそのまま返してやる。
 手を引かれてばかりだった私は、いつもあなたの背中しか見えてなかった。
 四つ年上のお兄ちゃんは優しくて、少し頼りなげに笑って、でもどんな時も私の手を自分からは離そうとしない。そんな男の子だった。

 小学生の頃、毎朝千寿郎くんが迎えに来てくれるのが嬉しかった。早起きしてお母さんに一番可愛いヘアゴムで髪を結んでもらって。精一杯可愛くした自分を、一番初めに見て欲しかった、なんて無邪気な日々。

「ずっと待ってるって言ったのに」
「え?」
「千寿郎くんは待っててくれなかったくせに」

 嫌な記憶が脳裏に貼りつき、舌の奥が苦く感じる。
 千寿郎くんが中学校に上がった年の夏、私は偶然、彼が知らない女の子と手を繋いでいるのを見てしまった。ランドセルよりもずっと大人びたお揃いの学生鞄を持って。片方の手はお互いにかたく握り合う千寿郎くんと女の子。
 私には一生かけても無理な二人の姿に、小学生ながらに自分の初恋が不毛な―おままごとの延長のような、そんなものだったんだと。心をびりびりに破かれた。

 同い年の粗野な男の子なんて、ちっとも好きになれなかった。こんなに眩い人が隣にいて、当然のように手を繋いでくれる毎日の方が輝いて、それ以外のものなんて。

「同い年になんてなれないのに、待っててくれるなんて言うから。大きくなったら妹とかじゃなくて、一人の女の子として見てくれるかもって期待してた」

 快速列車が走り抜けてホームに強い風が吹くと、私のプリーツスカートがはためく。中学三年生の私はまだ、初めて「千寿郎くん」と呼んだ日の彼すら追い越せないのに。
 振り向いて睨んだ千寿郎くんは大人の一歩手前。来年には、二十歳になっちゃう。
 永遠に、あなたの四年間に追い付けない。

「千寿郎くん、カッコよくなったね。杏寿郎さんよりも線が細くて、物静かだけどなよなよしてなくて。きっと大学の女の子たちも好きになっちゃってさ、モテてるでしょ」

 快速列車の最後の車輪がレールを噛む叫び声に紛れて言ってやる。

「でも私はそんなこと十年前から知ってたの!千寿郎くんが優しくてカッコよくて、誰よりも素敵な人だって、私は知ってた!だって…だってずっと好きだったんだから!」

 言った、言ってやった、叫んでやった、ぶつけてやった!
 十年間思い続けてこじれちゃった、面倒な気持ちを千寿郎くんに!

 長年溜め込んだ泥みたいな思いで大好きな人を汚してしまった申し訳なさと、あなたも汚れてしまえ、なんていうエゴと、大きな声を出した達成感でごちゃごちゃの気持ちが鼻の奥を刺激した。ツン、と泣く前特有の感覚に、スカートを握って耐え忍ぶ。
 千寿郎くんは驚きを隠せないまま、薄く口を開いて信じられないものを見る目で私を見た。その反応はかなり私を傷つけた。

 思ってもみなかったって事でしょう?
 妹としか見てなかったって事でしょう?
 掴まれっぱなしだった千寿郎くんの手の力が緩んで、私は強引に彼を振り払う。

「あ……」

 千寿郎くんの下がり眉がもっと下がって、開いた唇から名残惜しそうな声がこぼれた瞬間。千寿郎くんの顔が首から額まで見事に赤くなった。走り抜けた列車の風の余韻に煽られて、その場でふらふらとし、たたらを踏んでいる。

「……っ!」

 極めつけに、千寿郎くんは私に振り払われた手を握りこぶしにして、熱でもあるみたいに額に押し当てて呻き始めた。
 私はわけが分からずに挙動不審な彼を見つめ、どうしたものかと困惑する。
 一応、私は決死の大告白をしたので、返事が欲しい。でも千寿郎くんの様子を見るに、予想外の事態に照れているのか、熱が出る程嫌だったのか、分からないけれどちゃんとした返事は期待出来そうにない。

 ……このまま、逃げちゃおうかな。今ぐらい私から背を向けても良いよね。

 胸の中でそう言い訳をして踵を返そうとした私の背は、しかし、大きな手のひらに捕らえられてしまう。

「またっ」

 肩甲骨の間、体温の高い千寿郎くんの手が触れたところからじわじわと、私の体温まで高められていく。
 小学生の時はランドセルが邪魔をしていたがら空きの背中に、彼が追い縋る。

「また、名前ちゃんの隣を歩きたいって言ったら」

 茶色いローファーのつま先を見る。
 続く言葉次第では、この靴で彼を蹴っ飛ばすのもやぶさかではない。

「その時は、名前ちゃんの恋人として手を繋いでも良いかな」

 そう言った時にはもう後ろから手をすくわれていて、今までにない、五本の指をぎゅって互い違いにするつなぎ方で。

 じゃあ早く、好きって言ってよ!