はじまりを紡ぐ


「き、ょうみ、ですか?」
「初対面の知らない男に名乗る不用心さも、やわく微笑むときに伏せがちなその瞳も、……僕が、今までに見たことも、触れたこともないものだ」

 ぽちゃん、と小さな魚が跳ねるような音が反響するように響く。二人を乗せた小舟はいつの間にかその動きを止めていて、僅かに霞む視界の中、六道さんの穏やかな声色だけが紡がれていく。
 黒曜の廃墟で六道さんがいない時、ほんの僅かな時間だったけれど柿本君がぼそりと話してくれたことがあった。それは、六道さんと柿本君、城島くんたちはとある施設にいたこと。六道さんに助けられたこと。そして、それからはずっと一緒にいるのだと。言葉少ない彼から得られた情報は僅かだったけど、“とある施設”というのが環境の良くない場であったことはうっすらと気が付いていた。つまり六道さんは、私みたいな“普通”の人間がとても珍しい生き物のように感じている、ということなのだろうか。

「それって、……えっと、物珍しさに、ってことですか?」
「……まあ、否定は、できませんね」

 “普通”とはかけ離れたような生活。幼くまだ善悪の区別すらできないような年齢からずっと、理不尽な世の中を生きてきたのだろうか。
 私の表情が曇っていることに気が付いたのか、六道さんは話せる範囲内で過去のことを教えてくれた。そして、沢田くんからも聞いていた六道さんたちの目的についても。フィクションのような話が私のすぐ近くに存在しているだなんて想像もつかないけれど、もう私はこれが現実であることを身をもって知っている。

「巻き込んでしまった、と後悔はしていませんよ。僕は、欲しいと思ったものはすべて手に入れると決めていますので」

 そう考えると、六道さんの言う“欲しいもの”に“普通”という選択肢ができて、私という個人に興味を持ってくれたこと自体が奇跡みたいな確率で。あなたのことをまたひとつ知れたことが、何故だか涙が出そうなぐらいに嬉しかった。
 六道さんはひとつ息を吐くと、少し話しすぎましたね、と私の水の張った目元を見て目を逸らした。そんな、気恥ずかしいような複雑なような表情もするんだ。そう思うと、急に六道さんがひとつだけ歳上の男の子だと言うことを改めて実感した。未知で美しくも恐ろしい部分しか知らなかった私にとって、初めて六道さんが可愛く見えた瞬間だった。

「ふ、ふふ、」
「何故笑うんです」
「だって、ふふ。やっぱり六道さんって、不器用なんだなって」
「……どうしてそうなるんですか」

 ──何か、私のできる範囲で彼の力になってあげたい。自分でも不思議だが、ほぼ初対面のこの人にあの時惹かれていたのもきっと何かの縁。私は“偶然”出会った彼とこうやって話せているのではなく、“必然”的に出会ったのだと、そう信じたいよ。

「六道さん、私って本当にただの年相応な女の子なんです。だから、……私でよければ、ごく一般的な“普通”を教えてあげます」
「……あなたが、僕に?」
「はい、そのためにも、」

 目と目を合わせ、両手で私よりもひと回りは大きな手のひらをそっと包み込む。ゆらゆらと揺れる瞳はあの日よりもどこか不安げで、けれど、私が宝石のようだと惹かれた美しさは変わらない。

「まず、私と友達になりましょう」
「とも、だち」

 私の想いが体温と共に伝わるように、そっと包む手に力を込めながら伝える。六道さんは“友達”というフレーズを虚をつかれたような表情を浮かべて呟くと、そのままぴたりと固まってしまった。……やっぱり、唐突すぎたかな。不安に思いながらも繋がったままの手はまだ離されないまま、静寂だけが二人を包む。何か口にしようと唇を開きかけたその時、くつくつと小さく肩を震わせながらおかしそうに笑っている姿が目に映った。

「クハハ! 名前、君はやはり面白い。いいでしょう、僕が君の友達になってあげます」
「よ、よかった……、ふふ、よろしくお願いしますね」

 こうして私に、不思議な出会いから始まった新しい友人ができた。この明晰夢が彼の能力であることを聞いてあまりのスケールの大きさにくらりとしたことも、六道さんの年相応に口を開けて笑う姿も、きっとこの先一生忘れることはないだろう。ここでの話は、二人だけの大切な思い出に。

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