夢にたゆたう、君とふたり


 ──深い眠りについているときは、どちらかといえば夢を見ないものだ。そんな説を目にしたのは、たしか昔読んだ小説だった気がする。つまり、この美しい景色を見ている私は浅い眠りについているのだろう。そんなどうでも良い考えをしながら、ちゃぷりと指先で水の表面を撫でた。

 これが夢だと自覚したのはつい先程。それからずっと蓮の花が敷き詰められたこの池の上、ぽつんと浮かぶ小さな木製の小舟の上で私はひとり漂っている。霧がかった幻想的なこの空間は美しいけれど、どこか寂しさや孤独を感じた。
 時間がどれぐらい経ったのかも分からないまま、誰も漕いでいないのに船はほんの少しずつ動いている。どこに向かっているのかも分からず、ひとり蓮の花を掬っては戻してを繰り返していた。

「……誰も、いない」

 あの廃墟での事件から一週間ぐらいは経っただろうか、随分と回復した沢田くんは今日も私の元へ見舞いに来てくれた。見た目だけなら私の方が軽症なのに、初めての恐ろしい経験ですり減った精神と体力は少しずつしか回復してくれなかったのだ。ゆっくり休んで、そう笑いかけてくれる沢田くんの優しさが少しほろ苦い。
 誰かの寝息と、廊下から聞こえる控えめな足音、子供が楽しそうに親へと話しかける声、食事や器具を運んでいるであろうカートのタイヤが軋む音。必ず何かの音がしていた空間から一転、ここは水の音しか聞こえない。急に、心にぽかりと穴が空いたようなツンと寂しさが込み上げてきた。寂しい、悲しい、つらい。膝を抱えて、自分の体を丸く小さく体を抱き寄せる。

「名前」

 ──ふと、名前を、呼ばれた気がした。
 誰かが優しい声で、私を呼んでいる。一人じゃない。そう思うと無性にその誰かに会いたくなって、声の主を探そうと右手で雑に溢れていた涙を拭って呼吸を整える。そういえば、いつの間にか先程までよりも船の動きが緩やかになった。私一人だけを乗せた小舟は少し不安定で、水のぶつかる音がまちまちしていたはずだが、それが随分と減っている。やけに安定した動きに違和感を覚えながら顔を見上げると、二色の美しい宝石がきらめいていた。

「やっと、ゆっくりと話せますね」
「ッ!……ろ、くどう、さん……?」
「ええ、そうですよ。……名前、少し痩せましたか?」

 私が座る反対側、人一人分ほど間を空けて座る六道さんがいつの間にかこちらを見つめていた。どうしてここに、あの後どこへ行ってしまったの、──本当は何故、私をあの場所へ連れて行ったの。いろいろな言葉や聞きたいことが思い浮かんでは消えていき、何から話せばいいのか分からなくなってしまう。

「え、……っと、あの、」
「落ち着いて、まずは深呼吸をしましょう」

 吸って、吐いて……そう、上手ですよ。
そっと触れた手が背中をゆっくりと撫で、浅くなっていた呼吸が少しずつ通常の早さへと戻っていく。そっと見上げたその表情は、あの黒曜での恐ろしい闘気を纏っていた頃よりもずっと穏やかで凪いでいた。ありがとうございます、と言いながらそっと背に添えられたままの手を下ろし、もうひとつ呼吸をしてから順を追って言葉を選びだす。まずは一番、あの日からずっと私が気になっていることを。

「六道さんは、……どうして私をあの場所へ連れて行ったんですか?」

 そもそも、この目の前にいる六道さんが本物の彼かどうか分からない。私の夢の一部だとか、妄想だとか、そんな可能性だって大いにある。けれど、何故か目の前の彼が夢幻や偽物だなんて思えなくて。少し不器用に笑うと、六道さんはひとつまばたきをしてわたしを真っ直ぐに見た。そして、ゆっくりと開かれていく形の良い唇から紡がれた言葉は、想像していたよりもあまりにもシンプルだった。

「──君に、興味を持ったからです」

- ナノ -