07:ゴーヤとの邂逅



 特に部活をしているわけではない私の放課後は、わりといつも自由だ。たまに図書委員の仕事の順番が回ってくるくらいで、あとは好きにしていても構わない。別にこれといってしたいこともないので、大抵の場合は仕事がなくても図書室で本の物色をしていた。
 借りている本が読みきれそうもなかったから、今日は図書室へ寄らずに帰ることにする。校舎を出ると背後はすぐに海だ。少し前までは考えられない光景だった。私にとって海とは電車に何時間も揺られて、それでやっと辿り着くものだったのである。
 その海岸のすぐ脇に、比嘉中のテニスコートはあった。
 木手くんは今日も頑張ってるのかな。
 紫のユニフォームに身を包んで真剣にテニスに打ち込む木手くんの姿を見ているのは好きだった。でもあんまり覗くのも悪い気がして、たまに見に行くだけにしている。
 ラケットもボールも、木手くんが手にするとあっという間に武器に見えた。対戦相手を見据える顔つきは何だかいつもと全然違って見えて、でもどきどきする。ラケットを手懐けるように撫でてからボールを二、三度地面にバウンドさせる。空に投げたボールを見上げる顔と、背後に伸ばした腕。しなやかな身体というのは、きっと木手くんみたいな人のことを言う。
 このままじゃ木手くんのことしか視界に入らなくなりそうで、ずっと見ていられない。それも私がテニスコートに毎日寄れない理由のひとつだった。危険な人なのだ。木手くんは。
 しかし今日は様子が違った。
 テニスコートにたどり着く前、遠くから悲鳴混じりの声がする。
 何事だろうと足早に近づくと、緑色の物体を両手に持った木手くんから、チームメイトが逃げ回っていた。「ゴーヤ」「くわす」「勘弁」などの、物騒なんだか何なんだかよくわからない単語がここまで聞こえてくる。ああ、あの緑のあれゴーヤなんだ……。
 テニスラケットではなくゴーヤを手に部員を追い詰める姿。テニス部とは一体。
 まあ……木手くんはゴーヤが好きだもんね。
 深く考えても私にわかるはずもないし、この場はそれで流すことにした。



 ゴーヤの謎が解けたのは翌日のことだ。
 部室棟の裏を通りがかったら、ひときわ青々とした一角があることに気がついた。比嘉中には家畜小屋と一緒に大きな畑があるけど、それとはまた別の場所に生い茂っているそれは、おそらく私の予想通りのものだろう。
「木手くん」
「おや。早いんですね。おはようございます」
 ゴーヤ畑からちょうど出てきたところに出くわした。手にしているのはきっと彼のマイジョウロだと思う。だって目立つ場所に「木手」って書いてあるし。
「おはよう……水やり?」
「そうですよ。たまにはこうしてやっておかないといけませんから」
 木手くんから水をもらったゴーヤは、濡れて濃い緑できらきらと水の粒を光らせていた。私だって木手くんに水をかけられれば水滴で光ることくらいできる。謎の対抗心を燃やしていたら、ゴーヤと見つめ合う私をどう思ったのか、背後から木手くんに声をかけられた。
「ゴーヤに興味があるんですか」
 心なしかうきうきしている。
「家でも育てているんですよ」
「ゴーヤのグリーンカーテンって涼しいって言うもんね」
 私の言葉に、木手くんの眼鏡が光った気がした。
「あなたの家にも作ってあげましょうか」
「山ほど実っても困るし……」
「実ったら食べなさいよ」
 それが当然だと言わんばかりの表情で木手くんは言った。しかしながら私には事情があって。その。
「実はゴーヤって食べたことなくて」
 学食にゴーヤづくしDXがあるほどこちらではお馴染みの食材ではあるが、私は今までの人生で口にする機会がなかった。そして「とにかく苦い」というイメージを持っているものだから、食べてみる勇気もないままだったのだ。そんなことを語る内に、木手くんの表情がみるみる変わってゆく。
「なん……ですって……」
 呆然とした声だった。そして躊躇なく私の右手首を捕獲する。すごい力だった。
「ちょっと待ちなさいよ今から家庭科室に」
「待って!」
 そのまま引きずっていかれそうになるのを慌てて止めた。だってこれから授業があるし。もしかしたら家庭科で使うクラスがあるかもしれない。そんなところで木手くんと二人、ゴーヤ料理を作っていたらどんなことになるか。なんとかして止めようとして私は「実は苦い食べ物が苦手で」と口走った。それが間違いだったのは、更に衝撃的な表情になった木手くんを見て理解した。
「あなたそれ本気で言ってるんですか」
「健康にいいんですよ?」
「朝も昼も夜も食べなさいよ」
 口を挟む余地もなかった。だがしかし。
「そうだ明日から毎朝届けます」
 の辺りで、さすがにまずいと思って必死に止める。ゴーヤどころか木手くんがまるごと届いてしまうのはまずい。何がまずいのかはうまく説明できないけど、とにかくまずい気がする。
 段々と目つきが変わっていく木手くんを何とかなだめて、最終的に「少しずつ克服していく」という私の言葉を聞いて、ようやく木手くんは納得してくれたようだった。
「ならいいです」
 頷く木手くんは満足そうだ。さっきからずっと掴まれたままだった右手に、更に力がこめられる。
「約束ですよ」
「うん。約束」
 木手くんと初めてする約束が、こういう形になるとは予想もできなかった。人生何が起こるかわからない。いや本当に。
「それとゴーヤじゃなくて本当はゴーヤーですから」
「ゴーヤー」
「よくできました」
 私の素直な復唱に、木手くんの目元が緩む。いつもより柔らかな声にちょっとどきどきした。ついさっきまで、人の口にゴーヤをねじ込みかねない顔をしていたのに。



 それからしばらくして、合同授業で平古場くんと甲斐くんに会った。どういう流れだったか、とにかく木手くんのゴーヤの話になった時に二人は表情を曇らせて言った。
「永四郎だってガキの頃はゴーヤ苦手だったくせによー」
「やさやさ。なのに木手はわったーをゴーヤでいじめるなんてひどいさぁ」
 うんざりした顔を浮かべる二人から、木手くんの愚痴を聞くのは新鮮だった。当たり前だけど、私は私と話す時の木手くんしか知ることができない。木手くんの違った一面を聞けるのが楽しくて、つい盛り上がってしまったのも致し方ない。
 ただ――それをたまたま通りがかった木手くんに目撃されたのは、間が悪かったというかなんというか。あえて言うなら平古場くんと甲斐くんにとっては運が悪かった。
 どこから取り出したのか、ゴーヤを両手に二人を追いかけていく木手くんを見送ることしかできない。
 みんな足が速いなあ……。
 私にできたのは、そんな風に現実逃避をすることくらいだった。

 現実からは逃げられても木手くんからは逃げられない。あの後私も木手くんにちょっと怒られた。
「俺の話が聞きたいなら、俺に聞きなさいよ」
 少し厚くて小さめの唇を若干尖らせて言われた言葉は、たしかにその通りだと思ったので、私は素直に「ごめんなさい」と謝った。
「許してあげます」
 木手くんは心が広かった。安心した私は彼に尋ねる。
「木手くんの昔の話教えてくれるの?」
「教えられるものはね」
 教えられない過去ってなんだろう……。そっちの方が余計気になる気もした。
「そうだ。これ」
 さりげない様子で何かを手渡されて、咄嗟に受け取る。両手にまあまあの持ち重りがするその物体は、緑でごつごつしていて――まあ、どこからどう見てもゴーヤである。
 なぜ私は木手くんにゴーヤを渡されたのだろうか。ここに結んである紫のリボンは一体……プレゼント……かな……?
「克服するって約束したでしょ。忘れたんですか」
「覚えてる!」
 本当はあの時に右手をずっと掴まれていたことが後からものすごく恥ずかしくなったこととか、それ以前に転校初日に思い切り抱きついてしまったことまで思い出してのたうち回ったとか、そういうことまで覚えているけど。それは秘密だ。
 わざわざ持ってきてくれたこととか、まるごとのゴーヤにくくりつけられたリボンが不自然で、不自然なのが何故か似合っていて、自分でもよくわからない感情で笑いが止まらない。
「嬉しい。ありがと木手くん。ちゃんと食べるからね」
「……! ええ、食べてください。その……調理法がわからなければいつでも聞きなさいよ。あとはそうですね――」
 いつになく歯切れ悪く、それでも木手くんの言葉は休み時間が終わるまで続いた。

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