05:図書館・1



 席が隣でなんだかんだとお世話になっていることもあり、私はまたたく間に木手くんに懐いた。突き放すような喋り方をするようでいて、実際の彼はとても面倒見がいい。多分だけど、自分の目の届く範囲で誰かが困っている場面に出くわすと、咄嗟に手を差し出すタイプなんだろうなと思った。もう何度も助けられている私は、それをよく理解していた。
「あんまり助けてもらってばっかりだと悪いし、ちょっと自重しないとね」
 他意はなかった。独り言のように呟いた言葉であったが、口にした瞬間周囲の気温が下がった。いや多分実際にはそんなことはないんだろうけど、体感として。
「は?」
 聞いたことのないほど低い声だった。木手くんは元から声の低い方だと思うけど、それと比較しても。一瞬にして凍りついた私を、木手くんはじっと睨みつける。なんで? 私なにかまずいこと言った? うわもうめちゃくちゃ怖い。初めて会った海岸と同じくらい。
「……失礼」
 固まった私を見て、木手くんは何を思ったのだろうか。眉間に皺を寄せて、ぎゅっと目を瞑っている。そのまましばらく考え込むようにして、急に目を見開いた。それはそれでびっくりした。
「つまり君はあれですか」
 どれだろう……。しかしここで余計な口を挟んで怒られるのは怖い。おとなしく続きを促すと、木手くんは両目を眇めて苦々しい声でこんなことを言った。
「俺と距離を置きたいってことですか」
「え」
 人間、予想も覚悟もしていない方向から思ってもみないことを言われると思考がフリーズする。ただでさえ怯えていた私の脳は一瞬回転するのをやめて、うまく返事をすることができなかった。そんな私の反応を見て、木手くんは何と思ったのだろうか。
「無言は肯定とみなしていいですね」
「だめです!」
 固まりかけた私の脳よりも早く、身体が反応した。多分それは絶対に駄目だと思った。
「だって、」
 そこで木手くんは言葉を切って、数秒の間逡巡するような様子を見せた。そして今までの堂々とした様子からは考えられないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
「あなた、自重しないとって言ったじゃないですか……」
 恨みがましい視線。言われたことを頭の中で繰り返す。それは確かにさっき私が言ったばかりの言葉と同じだ。
「ええと」
「なんですか。弁明できるものならしてみせなさいよ」
 話が大きくなってきた。ついでに誤解も。たぶん私と木手くんの中で、かなり話が食い違っているように思う。私が言った「自重」というのは、別に距離を置くとかそういう話じゃなくて。
「ずっと木手くんに色々助けてもらってばっかりだし、あんまり負担になるのもなぁって。せめてあんまり迷惑かけないようにするとか、何か私もしてあげられることがないかなとか、そういう……あれで……」
 言ってる内に恥ずかしくなってきた。こそばゆい気持ちでちらりと木手くんを見ると、あんまり見たことのない顔をしていた。
「……俺に自重しろという話では」
「ないです」
 というか木手くんのどこに何を自重する必要があるのだろうか。お世話になっているのは一方的に私の方ばかりである。情けないことに。
「距離を置きたいという話でも」
「ないよ」
「…………」
 しばしの無言のあと、深い溜息がその場に響いた。私はといえば、木手くんは肺活量がすごいんだなあ……と全然関係のないことを考えていた。
「脅かすんじゃありませんよ」
 半眼になった木手くんが、じっと私を見る。ふんす、みたいな鼻息を立てて「まったく」「紛らわしい」とか何とか、そういうようなことを呟いている。どうやら私は紛らわしかったらしい。
「ごめんね……?」
「別に謝ってもらうことじゃないです。でも、はい。心臓に悪かったので、以後余計なことは考えないように」
「余計なこと?」
「負担だとか迷惑だとか、そういうやつです。俺が迷惑だと思いながらそれを黙っているような人間に見えますか?」
「見えない」
「ならおかしなこと言い出さないでくださいよ」
「はい……」
 思わず姿勢を正し、揃えた膝の上に手を乗せて良いお返事をしてしまう。反省した様子の私を見て木手くんは満足したのか、ようやくいつもの表情と声を取り戻して頷いた。
「わかってもらえたならいいです。今後困ったらきちんと即座に俺を頼るように」
「そういう話になるの!?」
「なりますけど?」
 何か? と怪訝な顔で聞かれても困る。
「『人に頼らず自分で解決しなさいよ』みたいなやつは?」
「似てませんけど」
「それはごめん」
「まあ……自分で解決しようとして事態が悪化して、どうしようもなくなってから俺に泣きつきたいというのなら、それはそれで止めはしませんがね」
「具体的に私の未来を予知しないで」
 見てきたように言う。しかも自分でもちょっとそんな気がしていた。付き合いはそんなに長くないはずなのに、木手くんは私を見透かすのが上手すぎた。
『困ったことがあったら呼びなさいよ』
 いつか言われたあの言葉は、こういうことだったのか。今更のように私は自覚したのであった。



 何でもかんでも木手くんを頼らないようにしよう。という今朝の決意はすぐにぐらぐらに揺らいでしまったわけだけれども、そもそも木手くんは私を頼らせるのが上手すぎる。
「何見てるんです?」
 例えば今みたいに、私がスマホの画面を覗いて唇をもにゅもにゅとうごめかせている時とか。
「この辺りでおすすめの図書館とかってある?」
「規模が大きいのは市立図書館ですね。大学図書館もありますけど、中学生を入れてくれるかはわかりません」
 気づいたら木手くんも自分のスマホを取り出していて、画面にするすると指を滑らせていた。本当に、意識せずにいつの間にか手伝ってもらっている。
「調べ物ですか?」
「ううん。学校にない本があるか見に行きたいなって」
「ならここでいいんじゃないですか」
 私に向けられた画面を覗き込む。そこには確かに結構な大きさの建物の画像が表示されていた。木手くんは手際よく交通アクセスのページを開いて、バスが出ていることまで教えてくれた。
「徒歩でも行けないことはない距離ですけど、あなたの足でのんびり歩いてたら焦げますよ」
 すごく想像できる結果だと思ったので、木手くんのおすすめ通り、バスで行きますと答えた。
「こっちって電車がほとんどないって聞いてたけど、ほんとなんだねえ」
「モノレールならありますけど、まあ普段は乗らないですね」
「地元にはモノレールなんてなかったから、それはちょっと乗ってみたい」
「でも普通の電車はあったわけでしょう?」
「二両編成のやつならね」
「こっちと同じじゃないですか」
「朝と夕方は四両あったよ」
「大して変わりませんよ」
「倍だし」
 私の地元の電車事情で盛り上がり(?)つつも、木手くんはバスの乗り継ぎについても教えてくれる。さすが乗り慣れているのか、手際がよかった。
「ありがとう。今度の休みに行ってみようかな」
「日曜日の午前中なんかいいんじゃないですか」
 確かにそれならゆっくりできそうだった。結局こんな風に、いつの間にか木手くんに相談に乗ってもらってしまう。
「隣の席なんてそんなものですよ」
 木手くんは何でもないことのようにそう言った。
「なら私の隣の席が木手くんでよかった」
 木手くんは大変かもしれないけど。ごまかすように笑いながら告げると、一瞬木手くんが目を見開いた。二度ほどゆっくりまばたきをした木手くんは、眼鏡の左側を右手で上げながら口を開く。
「……あなたのその、正直なところはいいと思います」
 なぜか普段より小さな声だった。



 そして週末の日曜日、私は予定通り図書館で充実した時間を過ごした。面白そうな本がたくさん置いてあったし、作ってもらった図書カードもかわいい。バス代のことを考えたら頻繁には通えないけど、良い場所を教えてもらった。やっぱり木手くんに頼るといいことがある。
 九月になってもまだまだ暑くて、外に出たらすぐに汗が滲んだ。遠くに陽炎がゆらいでいる。涼しい館内とは真逆の暑さに、肺の奥まで熱気がこもりそうだった。白く眩しい周囲に、思わず目を細める。かぶり直した帽子には、風で飛ばされないようにと母がつけてくれた紐。それにぶら下がっている飾りは紫外線を感知するとピンクに染まるのだけれど、それがもうびっくりするくらいのまっピンクであった。さすが沖縄の太陽。
『あなたの足でのんびり歩いてたら焦げますよ』
 木手くんの言葉は正しかったわけである。
 そんな風に、休みの日まで木手くんのことを考えてしまっていたからだろうか。とうとう私は幻を見た。
 少し離れたバス停に、見覚えのある人影を見つけた。
 その人は日差しを避ける屋根の下、ベンチに座ることなく立っている。誰かの立ち姿が美しいなんて、今までの人生で考えたこともなかったのに。私は最近そう感じることが増えた。その原因はたった一人である。背筋を伸ばして、凛と視線を前に向けて。
「木手くん」
 少しかすれたみたいな、変な声が出た。まだちょっと距離があるのに、それでも木手くんはこちらを振り向いた。
「こんにちは。暑いですね」
 幻覚じゃない木手くんの口から、小さく聞こえた「しにちらあかい」という言葉の意味はわからない。でもとりあえず私も木手くんと同じ屋根の下へ逃げ込む。太陽光を直接浴びずにすむだけでも、少し暑さがましになったような気がした。
「顔が真っ赤だと言ったんですよ。ちゃんと水分とってます?」
「と、ってる」
 言葉が詰まったのも、きっと暑さのせいだ。かばんから取り出した水筒から、つめたいお茶を流し込む。喉を通り過ぎていく感覚は、冷えすぎて痛いくらいだ。我が家の夏の定番だった麦茶とは違う味。さんぴん茶だって教えてもらった。教えてくれた相手は言うまでもない。
 冷たいお茶のおかげで、私はようやく正気を取り戻した。
「はー……生き返った」
「死んでたんですか」
「半分くらいね」
「全部死ななくてよかったですね」
 いつもの軽口が心地よかった。普段なら平日しか堪能できないはずのものだ。それがどうして日曜日に、それも学校から離れたこの場所で。
「古武術道場の帰りなんです」
「木手くんテニス以外もやってたの」
「ええ。というよりも、テニスよりこちらの方が先ですね。今も週末は部活の一環で通ってます」
 片手に下げた道着袋を見せてくれた。古武術で戦う木手くん。それはもう間違いなく。
「木手くん強いんだねえ……」
「見たことないじゃないですか」
 感嘆の声を上げる私に、木手くんは呆れたような顔をした。
「見たことなくても木手くんは強いもん」
「なんですかそれ」
 息を漏らすようにして木手くんが笑う。眼鏡の奥で細められた瞳を見ていると、なぜだか再び暑さで半分死んでしまいそうになった。
「まあ強いですけどね」
「やっぱり」
 そんなことを話しながら、木手くんは私の背後を見つめて「来ましたよ」と呟いた。振り向くと遠くの方からバスがやってくるのが見える。
 このあと学校まで戻るという木手くんとは、途中まで一緒に帰れる。昼下がりのバスの車内は人もまばらで、私たちは一番うしろの席に並んで座った。なんとなく、二人がけの座席にくっついて座る勇気はなかったから助かる。拳ひとつ分の隙間を空けて、右隣に木手くんがいる。いつもの教室とはちょうど逆だけど、それよりもだいぶ近い。どっちにしろ緊張することにかわりはなかったようだ。
 緊張感をごまかすために車内の冷房に意識を集中させた。冷たい風が頬を撫でるのが気持ちいい。エアコンの風を直接浴びるのはよくないらしいけど、この暑さの前では知ったことじゃない。
「涼しい……生き返る……」
「あなた一日何回死にかけてるんです?」
「わりと頻繁に」
「気が気じゃないですね。俺のいない場所で死ぬのやめてもらえます?」
「善処するね」
 私の意思でどうにかなるものなのかはわからないけど、木手くんがそう言うのなら頑張ろうと思った。
 まずは水分補給から。まだ水筒の中身は残っているはずだった。ひと口飲んで、蓋を閉めようとして右半身に視線を感じた。
 ゆっくりと顔をそちらに向ける。案の定というかなんというか、思い切り見られていた。
「……どうかした?」
「いえ、なんでもありません」
 それは何でもない人の視線じゃないと思う。目線を下げて、おそらく口元の辺りを凝視されていた。何もされてないのに唇がむずむずするほど見られている。どうしよう。お茶をこぼしたりとかはしていないはずなんだけど。
「…………のむ?」
 何を言ったらいいかわからなくて、とりあえず手にした水筒を持ち上げてみた。中身はさんぴん茶だから、多分木手くんも好きだと思うんだけど。
 私の言葉に木手くんは一瞬驚いたような顔をして、
「意外ですね。そういうの気にしないタイプですか」
 などと言う。そういうの。そういうのって――ああ!
「気にした!」
「今?」
「気にしたって言うか意識した。ひどい。責任をとってほしい」
「あなたのその何でも口に出すところ、俺は助かりますけど、流石に俺にも照れという感情があるんですよね」
「私の方がその百倍恥ずかしいよ……!」
「当事者ですからねぇ」
「他人事みたいに言う!」
 まあ実際他人事なわけだけど。木手くんもそっくりそのまま同じことを言った。うう。恥ずかしい。思わず水筒を抱え込む。そんなことを言われて、今更手渡せるはずもなかった。
「……話題変えていい?」
「どうぞ」
 私が困っているのがよほど楽しいのか、木手くんの口角は上がったままだ。機嫌が良さそうで何よりだよと言いたい気分になったけれど、きっと返り討ちにあうのでやめておいた。
「古武術ってよく知らないんだけど、木手くんはどういうことをするの?」
「子供の頃は棒術をやってました。一通り覚えるつもりですけど、今はエークを使いますね」
「エーク……武器?」
 聞き覚えのない単語だった。私の反応は木手くんも予想していたのだろう。そうですね、と言いながら空中に指で四角を描いた。
「櫂――オールみたいなものですよ。砂をかけて相手の目を潰してから叩き斬ります」
「めちゃくちゃすごいね」
 二段構えで慈悲がない。絶対に相手を倒すという強い意志を感じる。
「敵を倒すのに手段を選んではいられませんから。使えるものは何でも使います」
「木手くんには敵がいるの?」
 軽い疑問のつもりで口にしたその言葉に、木手くんはどこか苦い笑みを浮かべて「いるかもしれませんね」と呟いた。
「怖いですか?」
「そんなには」
「おや。少し前まであんなに俺に怯えてたくせに」
「バレてたんだね……」
「あなた、わかりやすいですからね」
 初対面で完全に怯えきっていたのも記憶に新しい。でも、今は。
「もう怖くないよ」
「そうなんですか?」
「これだけ優しくされたら怖がるほうが難しいっていうか……それにね」
 そこまで言って、一度口をつぐんでしまう。うまく伝わるかわからないし、ちょっと恥ずかしいことを言ってしまいそうで。
「それに? なんですか。ちゃんと最後まで言いなさいよ」
 逡巡する私に焦れたのか、木手くんは身を乗り出した。木手くんの口調には、私に言うことを聞かせる魔法がかかっていると思った。しなさい、と言われるとつい言うことを聞いてしまいそうになる。我ながらまずいとは思うのだけれど、今のところ解決策は見つかっていない。
 なので、私はやはり素直に白状するしかない。
「木手くんが倒すのは敵なんでしょ? 私は木手くんの敵にならないもん」
 それだけは確実だと自信を持って言えた。
「……本当でしょうね」
「本当だよ。木手くんが悪の大魔王でも味方になるから」
「別に俺、世界征服は目論んでないんですけどね」
「勇者に倒される時は一緒だよ」
「そこは勝利を信じなさいよ」
 肩の辺りを軽く押される。こぼれ落ちるみたいな笑い方に心臓がはねた。
「手先になるって約束したもんね」
「評定委員の? 覚えてたんですか」
 私はたぶんそんなに記憶力がいい方じゃないけど、そういうことだけは覚えているのだった。
「いいですよ手先じゃなくても。味方でいてくれたらそれで」
「そっか」
 木手くんがそう言うのならそうしよう。
 私はきっと、世界が滅びる日が来ても木手くんの味方でいる。

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