03:帰宅初日にすがりつく



 めちゃくちゃだと思った校舎案内は、あの後はそれなりに平和に終わった。途中何回か聞き逃せない単語が聞こえてきたけれど、ひとつひとつ突っ込んでいたら日が暮れても案内が終わらないと思ったからだった。
 開かずの地下室も気になるし、独房って何だ。ここは本当に中学校なのだろうか。転校したと思っているのは私だけで、実は何かまずい場所に放り込まれてしまったのではないだろうか。
「まあ、うちは私立ですから」
 全国の私立中学に謝ってほしかった。
「追々わからないことができたら、俺に聞きなさい」
 既にわからないことだらけだ。けれどせっかくそう言ってくれたのだから、お言葉に甘えることにして、この日はざっくりとした比嘉中案内に終わったのである。
 放課後になって、案内してもらった中でも比較的平和そうな響きの図書室に寄ってみた。新しい場所の図書室チェックは重要である。何しろ今後どんな本がどれだけ読めるかが、ここにかかっているのだ。中学生と言えば親からお小遣いをもらって暮らしている身である。バイトもできないし、欲しい本が無尽蔵に手に入るわけじゃない。
 比嘉中の図書室は小説の種類が豊富で助かった。おかげでしばらく私の読書ライフは守られそうである。郷土史のコーナーには分厚い本が何冊も置かれていたし、沖縄ことばの辞書なんかも置いてあった。たまに木手くんは私のわからない言葉を口にすることがあるので、後日困った時には調べてみようと思う。まあ、本人に聞けばいいのかもしれないけど。
 せっかく来たので一冊借りてみることにする。おもむろに本の一番うしろをめくった。市立図書館では最近すっかり見かけなくなった、貸し出しカードに名前を書き込むタイプなことがわかる。カウンターに置いてある鉛筆はどれもきちんと削られて、芯の先が尖っていた。ああ、ここはいい図書室だなと思った。



 気づけばすっかり長居していたようだ。
 窓の外が薄暗く染まっているのを見て、数日前の海辺を思い出す。あの日帰宅してから私はずっとぼんやりしていて、もしかして夢でも見たんだろうかと考えたりもした。あれがまぎれもない現実であることは、今日思い知らされたわけだけれども。
 私の現実に木手永四郎という男の子がいる。
 それを改めて実感して、なんだか意味もなく叫びだしたいような気持ちになったがここは正門前だ。転校初日から公衆の面前で奇声をあげるおかしな女にはなりたくなかった。
 代わりに空を見上げて、夕焼けと夜空の混じり合った景色を浴びる。何回見てもまだ慣れない。故郷の空を思い出す。あれだって決して捨てたものじゃなかった。学校からの帰り道、駅から自転車をこぎながら見上げた空だってとても広かったけれど、海と山に抱かれるのと山に取り囲まれるのとではやはり違うのだった。
 ところで奇声は上げずにすんでいるけれど、このままではいつまでも正門で立ち尽くしている変な女だ。それは避けたい。ポケットから取り出したスマホで地図アプリを立ち上げる。めんどくさいので位置情報はずっとオンにしてあった。画面の中で、自分の位置を示す青い丸がもやもやとうごめいていた。
 新しい我が家の住所を打ち込んで、現在地からの経路を表示させる。入り組んだ道順ではなさそうなので安心した。その代わり徒歩だと少しかかりそうだった。比嘉中は自転車で通学している人はあまりいないようだけど、申請したら許可されるんだろうか。故郷で乗っていた愛車は、買い直すよりも運んでもらう料金がかさむというので置いてきてしまった。
 そんなわけで私はしばらく徒歩通学だ。部活に入る予定もなかったし、運動にはちょうどいいかもしれない。中学生とはいえ運動不足は健康の大敵なのである。油断できない。
 少し進んでは地図を確認する。今のところ正しい道を進めてはいると思うのだが、やはり初めての土地は何かと心細いのだ。
 曲がり角にさしかかる度、念のため立ち止まって左右を見渡す。それらしい目印を見つけようとしてきょろきょろしている私は、きっと怪しく見えたのだろう。
「――何をしてるんですか?」
 いつかのように背後から聞こえた声に、思わず小さく肩がはねた。
「き、てくん」
「名前は覚えているようで何よりです」
 こんなに印象が強すぎる人の名前を、どうやったら忘れられるというんだろうか。
「迷子ですか」
 私を見下ろしながら木手くんはやれやれ、とため息をつく。私には握りしめた強い味方、スマホの地図アプリがある。あるけれども。
「しっかり迷子まではいかないくらいだけど、なんとなく不安な感じ……」
 という、中途半端な現実をおとなしく白状した。
「なんですかそれ」
 小さく息を吐き出すようにして木手くんが笑うものだから、正解だったと思おう。
「朝はどうやって来たんですか」
「行きは車で送ってもらったから、なんとかなったんだよねえ」
「道順くらい覚えておきなさいよ」
「風が気持ちいいなあって思ってる内に学校に着いてた」
「まったく……住所どこですか」
 今度は深くため息をついて、木手くんは私に向かって手を差し出した。ここで握手できるほどのコミュ力は私には無い。求められているであろうスマホを手渡すと、予想通り木手くんは画面を覗き込んで地図を確認している。
「大体わかりました。同じ方向です。行きますよ」
「送ってくれるの? ありがとう」
「同じ方向なだけです」
 つんと素っ気ない返事をしつつ、木手くんは歩き出した。その長い足からするととてもゆっくりなペースで、私の歩幅に合わせながら。
「来ないなら置いていきますよ」
「行きます!」



 しばらく二人で歩きながら、ぽつぽつといろんなことを話した。学校は話しきれなかった、お互いのこととか。木手くんはテニス部で、妹さんがいて、インコを飼っているらしい。私の方は親の都合で母とこの土地に越してきたとか、大体そういうような話だ。
 そんなことを話しながら歩く内に、母と二人で暮らすアパートが見えてくる。母はまだ仕事中なのだろう、部屋の電気がついている様子はない。廊下の電灯がちかちかと点滅しかかっていた。外灯があるから明かりには困らないとはいえ、雰囲気が若干怖い。
「ここ?」
「うん。木手くん、今日はありがとうね。ちょっと心配だったから助かっちゃった」
 海で声をかけてきた時と、昼間案内をしてくれたことと、そして今。もう何度も木手くんにお世話になっている。
「ちゃんと覚えたでしょうね? 明日は朝練あるから迎えには来られませんよ」
「そこまで迷惑かけないよ!」
 口調と態度は素っ気ないのに、めちゃくちゃ面倒見がいい……。
 そこまでしてくれる木手くんに、私もその内何かが返せるようになるといいんだけど。己の特技を考えてみるが今のところ何も思い浮かばない。
 とにかく大丈夫だから、と重ねて言うと、木手くんはつまらなそうな顔をして。
「そうですか」
 と、つまらなそうな声でそう言った。
「それじゃあまた明日」
「うん。ばいばいまた明日ね」
 ひらひらと手を振って、去って行く木手くんを見送った。

 ――その五秒後に、私は盛大な悲鳴を上げた。

「何事ですか!」
 一瞬で木手くんが戻ってきた。さっきまで廊下の向こうにいたはずなのに、もう私の目の前まで。どうやったのと聞く余裕は今の私にはない。木手くんの制服の白いシャツ、その左胸の辺りにすがりついて、私は涙声で訴えた。
「むし、むしが、おおきいやつ、むし」
「ちょっと、何して――ああ」
 一瞬しか見ていない、というか直視できなくてすぐに目を逸らしたからよく見えなかったドアの辺りを指さす。多分その辺りに、大きくて正体のよくわからない虫がいたのだ。
「いますね。虫」
 ひぃぃい、と情けない悲鳴が口から勝手に飛び出す。
「やだやだやだやだ」
 後ろを振り向くことなんてできるわけがない。私の視界は木手くんのシャツで覆われている。背後の虫が、私の想像の中でどんどん恐ろしい姿に変貌していく。あんなものをじっくり見るくらいなら、このまま一生木手くんのシャツしか見えなくてもいい。
「あなたがそれでよくても俺は困るんですけど」
「ですよね……!」
「じっとしてるみたいですよ」
 私の頭の左上辺りで木手くんが様子を教えてくれるけれど、そもそも私は振り向けもしないわけで、振り向けないということは当然。
「は、入れない……」
 振り向いて虫のくっついているドアに近づいて鍵を開けてドアを開けて虫が入ってこないように注意してドアを閉める。
 できるわけがなかった。
「……そこまで迷惑を? なんでしたっけ?」
 数分前の私の言葉を繰り返す、その声はどこまでも楽しそうに私をいたぶった。
「助けてください木手くん……!」
「素直なのはいいことですよ」
 私の両腕にそっと手を添えて、左耳の辺りで「ここでいい子で待ってなさいよ」と囁かれる。いい子って何、と脳が理解するより先に、耳から流し込まれた音で全身が震えた。絶対にこれ、中学二年生が出していい声じゃない。ふらつきかけた足をなんとか叱咤して姿勢を保つ。そんなことに気を取られている間に、木手くんはいつの間にか虫を追い払ってくれたようだ。
「もう大丈夫ですよ」
「よ、よかった……」
 ようやく振り向くことができる。木手くんの立っている横のドアには、確かにもう何もいない。
「ありがと……ほんと、死ぬかと思った……」
「大袈裟ですねぇ」
 呆れたような声を出されても、怖いものは怖い。本当に今日は木手くんがいてくれてよかった。
「もっとでかいのなんていくらでもいますけどね」
「!!!!!!」
 無言の悲鳴、というやつだった。沖縄の恐怖を身をもって味わった私が、
「お茶でも飲んでいきませんか木手くん」
 と誘ったのは当然だった。



 散々からかいながらも木手くんは部屋を一通り見回してくれた。
「いませんよ」
 その言葉に、今度こそ私は脱力する。
 よかった。本当によかった。そうでなくては私は、母が帰ってくるまで身動きひとつ取れやしない。
 無人のリビングを見回して、木手くんが言った。
「親御さんはいつも遅いんですか」
「うん。晩ご飯は一人の方が多いかなあ」
 たまに早く帰ってこられる日もあるのだが、いつもは確実に一緒に過ごせるのは朝ご飯の時くらいだ。放任主義の母に、放って置かれる方が気楽な私たち親子は、それなりにうまくやっていると思う。まあ、今日みたいなことが起こるとたちまち困る羽目になるわけだけれども。
「よかったら食べてく?」
「……いてほしいなら家に連絡しますが」
 木手くんの優しさに甘えようとした瞬間、玄関の方から鍵の開く音がした。
 ただいまあ、といつもの母の声が聞こえる。今日は「たまに早く帰ってこられる日」だったらしい。リビングにやってきた母は、私たち二人を見てきょとんとした顔をする。
「初めまして、木手永四郎です。比嘉中の同級生です」
 そつの無い挨拶をする木手くんは、一見変わった髪型にも関わらず完璧な優等生に見えた。物腰柔らかなその様子からは、私が海で会ったインテリヤクザの雰囲気など消し飛んでいた。
 困ったのは母のテンションである。母はそんな木手くんを見てたちまち舞い上がった。あらあらあらとか、もう彼氏つくったのとか。とんでもないことを言い出す母に怒っていたら、色々とうやむやのまま木手くんは帰っていってしまった。
「すみません。今日のところはこれで失礼します」
 ゆっくりしていけばいいのにーという母の言葉には私も賛成だったけれど、このまま引き留めればまた母によるからかい地獄だ。諦めるしかない。なんとか「また明日ね」とだけ告げて木手くんを見送った。
「ええ、また明日」
 ちゃんとお礼も言えなかった。
 その不満をぶつけようにも、物言いたげな母からは一刻も早く逃げたい。
「ご飯の前に宿題やっちゃうから」
 勉強を口実に逃げる娘を追いかけてくるほどではないらしい。母から逃れて自分の部屋へたどり着いた私は、今日一番の深いため息をついた。



 翌日。私が教室へ着くと、既に朝練を終えた木手くんは窓際の席に姿勢良く座っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
 ふ、と木手くんの目元が緩んだ。その様子を見ていると、昨日の出来事はやっぱり私の夢なんかじゃなく現実だったのだと思い知る。
 しがみついてしまったこととか、去り際の母の言葉とか。思い出すと色々気まずい理由はあるけれど、それより何より助けてくれたことの方が大事だった。
「昨日は――昨日も、ありがとう。今朝はね、ちゃんと道覚えながら来たよ」
「そうですか。虫は克服できたの?」
「う、っそれは……少しずつ頑張る」
「それはそれは」
 目を瞑って唇の端を上げる木手くんが、不意に目線をこちらへ寄越す。
「困ったことがあれば呼びなさいよ。縮地法でいつでも駆けつけますからね」
 しゅくちほう、というのが私にはわからなかったけれど、多分また助けてくれるということなのだろう。
「うん。ありがとう」
 困ったら木手くんが助けてくれるというのだ。私のこの土地での暮らしにもう不安などない。自信をもって、そう言えた。

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