20:臨界点をこえる日



 いくら隣の席だからって、別に四六時中木手くんと一緒にいるわけじゃない。と思う。多分。
 昼ごはんだって食堂でたまたまどちらかを見かけて、その時にたまたま席が空いていたら一緒に食べたりするだけだし。帰りだってお互いの都合がつかないこともある。別に約束してそうしているわけではなくて、あくまで偶然なのである。
 あらたまって約束してそういうことをするのは、なんていうかその、そういう関係になっていないとおかしい気がして。それを聞いた木手くんの呆れ果てた顔といったらなかったけど。
「その謎のこだわりはなんなんですかね……」
 それでも私に合わせてそのままにさせておいてくれる木手くんはやはり優しい。半ば諦められているような気もする。

 そして今日はその「偶然」が起こらない日だった。
 比嘉祭まであと一ヶ月を切っていて、木手くんは何かと忙しい。昼休みにまで評定委員会の仕事があるというのだから大変だ。我らが図書委員は、全会一致で特に何もしないことになったので真逆である。
「そういうわけなので」
 朝の教室で会った瞬間、わざわざ教えてくれる木手くんは律儀だなと思った。
「大丈夫? おなか空かない?」
「パンでも買っていくので平気ですよ」
「じゃあこれ、足しにして」
 鞄の中から個包装のお菓子をいくつか取り出す。チョコレートとかクッキーとか、小袋から食べれば手が汚れずにすむやつ。そういうお菓子を私は鞄にストックしている。非常食ということで。小学生の頃に学校にお菓子を持ってきたりしているのが見つかったら、魔女裁判もかくやという勢いで吊るし上げられた。その時を思えば比嘉中学校の暮らしは至って快適だった。
「あなたは誰彼かまわず菓子を配り歩いてるんですか?」
 そんな一人ハロウィンみたいなことはしていない。
「あなたのその習性、ハロウィンの時に強そうですよね」
「ハロウィンって勝ち負けの話だっけ……?」
 トリックオアトリートは別に決闘を申し込む合図じゃない。そんなことを考えていたら――ああ。
「どうしました」
 急に机に伏せた私に、木手くんが少しばかり引いていた。急にハロウィンの話になったから思わず想像しただけだ。
「仮装した木手くんがかっこよすぎたせいで……」
「見たことないじゃないですか」
「想像の中で何パターンか」
「器用な真似するんじゃありませんよ」
 想像力と妄想力だけが、私の人生に付与された唯一の能力だ。木手くんの仮装をまとめて妄想するくらいお手の物なのである。
「嫌な能力ですねぇ……」
「本人からしたらたまったものじゃないよね」
 まったく。困った人を相手にする木手くんはいつも大変だった。
「何を他人事のように」
 呆れたように机に肘をつく。私はといえば頭の中は未だに仮装木手くんでいっぱいだった。
「狼男とか包帯も捨てがたいんだけど、やっぱりマントは必須だよね」
「あなたの趣味ですよね」
「うん。吸血鬼とか似合うと思う」
 その時は木手くんの支配下に置かれるコウモリでもやらせてもらおう。
「やかましそうなコウモリですねぇ」
「静かに飛ぶから」
「飛べるの前提で話すのやめてもらえませんかね」
 何となく、木手くんのためだったら空くらい飛べるような気がしてくるから不思議だ。流石に高いところから飛び降りたりはしないけど。
「絶ッ対に試すんじゃありませんよ」
 木手くんの目が本気だったのでちゃんと頷いた。多分やりかねないと思われていた。
「やりかねないと思ってますしこの近くには崖があるんですよ」
「海岸で練習する時に使うっていう崖だね」
「近づくの禁止です」
「はぁい」
 厳重に注意された。木手くんが言うことならちゃんと聞く。
「じゃあコウモリと吸血鬼は諦めるとして……」
「吸血鬼ごと諦めるんですか」
 木手くんの周囲を他のコウモリが飛ぶのは嫌だったからだけど、そんなこと口に出せるはずがない。
「ああ、あなたそういう妬き方もするんですね」
「見抜くのやめてよ!」
「見抜かれる方が悪いんですよ」
 正論にもほどがあった。
 恥ずかしいけど、何かもう色々とバレ倒しているのはいっそのこと気が楽だったりもする。開き直ったというべきだろうか。
「マントだと他に何があるかな……」
「あなたのそのマントへの執着は何なんですかね」
「木手くんてマントばさーってして高笑いするのが似合いそうじゃない?」
「そんなこと言われても困るんですけど」
 あとはその、あえて口にしない想像というか願望というか、そういうのがあったりするわけだけれども。
「なるほど、マントに包まれて俺に攫われたいんですね」
「流石にそれがわかるのはおかしくない!?」
「この前『オペラ座の怪人』を読んでいるのを見たもので」
「今度絶対にブックカバー買う……」
 何ならその辺りのプリントを折って作ったっていい。想像もしないところから脳内がバレて恥をかくくらいなら。
「別にそれはいいと思いますけど、俺が何読んでるんですかって聞いたら、あなたカバー外して嬉々として紹介してくれそうですよね」
「うわそれ絶対やる」
「だめじゃないですか」
 吹き出すように笑う木手くんの表情は、いつもより幼く見える。髪型とか口調とか、そういったもので武装した奥にある木手くんに触れるような気がして、そういう時の私はいつもどぎまぎして鼓動が早くなった。
「うう……マントで仮面の木手くんを想像してやる……」
「それって何か仕返しになるんですか?」
 ならないかもしれないけど、羞恥が紛れるのなら何だっていい。
「オペラ座の木手くんはね」
「変なタイトルをつけないでください」
 本人からの直訴をスルーして気にせず続けた。
「かっこいいコート着ててね、黒い手袋してるの。深く被れるフードがあって、ファーとかもついてたりして、そういうマント着て仮面もつけてて私を攫うんだよ」
「攫うのは確定なんですね。あなたならおとなしくついてきそうですけど」
「仮面で顔が見えない設定なの」
「気づきなさいよそれくらい」
 確かに気づくかもしれないけど、物語の盛り上がりのためなら多少のリアリティには犠牲になってもらおう。
「それでね、ランタンとかろうそくの灯った部屋に連れてこられて、窓の外の月明かりとか部屋の装飾に見入ってたらおもむろに仮面をゆっくり外して……あなたは木手くん! って」
「だからもっと早く気づきなさいよ。あなたを攫って何したいんですかその俺は」
「わかんないけどジュースとかケーキが置いてあっておもてなししてくれる」
「食べたいだけですよねそれ」
 たぶんそう。さっきちょっとハロウィンのことを考えたから。そのせいで期間限定のデザートが妄想に参加してきた。
「やれやれ……あなたみたいなのだったら、オペラ座の怪人も苦労しなか……いえしますね。ほぼ確でしますね」
「そんなに力をこめて断言しなくても」
「経験からの感想です」
 そんなことないよとは言えなかった。木手くんに迷惑とか苦労とか世話をかけている自覚は充分すぎるくらいにあったからだ。
「その自覚があってよかったですよ」
「でもね、多分木手くんだってわからなかったら私も頑張って抵抗するから」
「攫われないように?」
「うん。だからね、私を攫う時には木手くんだってわかるように、仮面を外してから攫いに来てね」
 木手くんにだったら抵抗なしで攫われるであろう私はそう言った。木手くんは小さく息を吐くと
「忠告どうも」
 とだけ言った。

「――そういえば、確か映画版のDVDがうちにありますよ。観ます?」
 これです、と検索して見せてくれた画像には見覚えがあった。
「ほんと? 観たい!」
「なら今度貸します」
「嬉しい。ありがとう。それであの……あのね」
 ミュージカルを映画化したそれは、昔映画館で一度観たことがあって、いつかまた観たいと思っていたものだった。だから木手くんの厚意はありがたかったし、すぐに頷いた。だけど欲深い私にはまだもうひとつ野望があって、なんとかしてそれを伝えなくてはいけない。
「はい、なんですか?」
 木手くんがこういう顔でこういう返事をする時は、聞く前から大体わかっているのだ。それでも先回りをしてくれたりはしない。優しい木手くんは、時々すごく厳しかった。
「木手くんもこの映画好き?」
「また随分遠回りしますね」
「わかってるなら言わせなくてもよくない!?」
 悲鳴混じりの私の訴えも、木手くんには通用しなかった。
「だめです。ちゃんとあなたの口からはっきりと誘って」
 ああもう。やっぱり私の言いたいことなんて木手くんにはわかっている。
 別にそんな重大なことってわけじゃない。もっと軽い感じでさっさと言ってしまえば意識することなんてなかったのに、後回しにしたせいでどんどん口に出すことが難しくなっていく。目下私が抱えている最大の何かと同じだった。
「そのね、ええと……」
「ちばりよー」
 汗をかいてうろたえる私を哀れんだのか、木手くんが知らない言葉をかけてくる。
「頑張れって言ったんですよ」
 こんなことで応援されるのもどうなんだろう。それも張本人に。でも木手くんは柔らかな表情と声で「ほら」と私を促すものだから。
「木手くんと、一緒に観たいです……」
「二人で?」
「……うん」
 自分でも驚くほど緊張していた。気づいたら手を強く握りしめていた。なんとかして力を抜こうとしたけどうまくいかない。その手に木手くんの手のひらが重なった。私の喉から悲鳴が飛び出すよりも、木手くんの返事の方が早かった。
「いいですよ。俺もあなたと観たいです」
 何でこんな時にこんな場所で、そんな声を出すの。私のことを耳から溶かした木手くんは、何事もなかったかのように私から離れた。
「今度の休み、空けておいてくださいね」
「うん……あの、楽しみにしてます」
「ええ。俺も楽しみですよ。……楽しみにしておきます」
 何で二回言ったの。その言葉の奥に含んだものを知るのはまだ怖くて、深く追求できなかった。
 ――今度の休み。たぶん木手くんは「何か」のための舞台を作った。そんな気がしている。



「それでは、また午後に」
「いってらっしゃい。ちばりよー」
「覚えましたね」
 昼休み。さっき習った新しいうちなーぐちで、木手くんを見送った私は自分の昼食について考える。
 いつもなら何も考えずに食堂へ向かうことが多い。パンも買えるし、比嘉中の食堂メニューはかなり豊富だ。給食で苦手なメニューに苦しめられることがないのは幸いだけれども、最近は栄養バランスに厳しい監視の目がある。クリームパンとチョココロネの組み合わせなんかを選んだりすると、食堂で目の前の席からもの言いたげにじっと見つめられるのだ。見つめられるというか、睨みつけられるというか。
 ゴーヤづくしDX。そろそろ攻略できそうな気がする。私にやたらとゴーヤを食べさせたがる木手くんの影響か、少しなら食べられるようになってきたのだ。ゴーヤソフトという甘いデザートから攻めてきた木手くんは流石だった。苦手意識を植え付ける前に、ゴーヤの味を私に教え込んだ。
 券売機に向かってふらふらと歩きながら、でもやっぱり今日は比嘉ソバにしようと考え直す。別にゴーヤに恐れをなしたわけではなくて、どうせ初めて食べるのなら、木手くんがいる日にしたいなと思ってしまったからだった。
「食べられるようになったんだよ。褒めて」
 そんな風に言えばどうせ呆れた様子でため息をつかれるけど、きっと最後には「頑張りましたね」と褒めてくれる。そんな気がした。だって木手くんだし。
 一人でいる時にも木手くんのことを考えている。その理由は流石にそろそろ明白なのだけれど、私の中の最後の一線がはっきりと明言することを避けていた。意気地なし。木手くんに罵られても文句は言えない。まあ、似たようなことは既に言われているような気もするけれど。
 それでも木手くんは私を急かすことをしなかった。焦らせることがないままに、ただひたすらに親切に優しく、時に厳しく私を助けてくれる。だから、私は。
 窓際の目立たない席で、ソバをすすりながらこんなことを考えている私は、きっと食堂中で一番目立たない存在になっていると思っていた。わざと気配を消そうとしたわけじゃないけど、黙って食事をとっている人間なんてそんなものだし。
「なあ」
 だから、声をかけられても最初それが私のことだとは気づかなかった。
「なあって」
 おつゆに浸したかまぼこを齧りながら顔を上げると、そこには焦れたような顔で私を見下ろす、知らない男の子が立っていた。
「私……?」
「やー以外に誰がいるわけ」
 呆れた顔で言われて周囲を見回すと、なるほど私の周りの席からはいつの間にか人が消えていた。考え事に没頭しすぎて、周りのことが意識から消えてしまうのが私の悪いところだ。木手くんなら無理やり引き戻すけど、他にもそんな人がいるとは思わなかった。
 知らない男の子はどうやら隣のクラスの生徒らしかった(「合同授業があったはずやし」と彼はむくれた。未だに同じクラスの男子すら全員覚えられていない私には無理な話なのだが、彼は私を知っているというのだから申し訳ないことをした)。
 知らない男の子→隣のクラスの男の子は、私の横に立ったまま何やら言いにくいことでもあるかのようにもごもごと口ごもっていたが、しばらく話を聞いているとつまりは「放課後ちょっと来てくれないか」ということらしかった。
 木手くん以外からの初めての呼び出し。驚いて何て返せば良いのかわからなかった。用件を先に聞くべきだろうか――口を開きかけた私を気にすることなく、彼は「じゃあゆたしく!」と叫んで走り去っていってしまう。
 残されたのは困惑する私と、最後にひと口残った冷めかけの比嘉ソバだけだった。



 自慢じゃないけれど、私はモテる方じゃない。本当に自慢にならないけど。別にあえて避けたり避けられたりするわけじゃない。それでも比嘉中でも誰かと特別に親しくなったりすることはなかった。例外はその、言うまでもなく木手くんなわけだけれども。
 淡すぎる初恋やおとぎ話みたいな憧れがいくつか。それが私の全てだった。木手くんに会うまでは。だからさっきのように誰かに改まって呼び出しを受けるというのも初めての経験で、私は静かに沈黙しながらも頭の中は大変混乱していたのである。
 これで別に「そういう」系統の話じゃなかったら、自惚れるのもいい加減にしろという話だった。それを思うと木手くんに「男の子から呼び出された」と告げるのも躊躇われる。そもそも木手くんに知らせてどうしてほしいというのだろう。
「それを俺に教えてどうしてほしいんですか?」
 冷たい顔で私に告げる木手くんの姿を想像してしまったら、もうだめだ。想像の中の木手くんが怖すぎる。泣いてしまう。
 自分の想像で縛られるのは愚かだと思うけど私は一度考えてしまったらもうだめなのだった。そんなことができるはずがない。大体、私自身も木手くんにどうしてほしいかがわからないのに、彼に決めてもらうのはなんていうか、ひどくずるいことのような気がして。せめて私がはっきりと自分の想いを木手くんに告げられるようになってからじゃないと、そういうことはできなかった。
 残る選択肢は数少ない。
 放課後呼び出された場所に行くか、行かないかだ。
 幸い彼は隣のクラスにいるわけだし、休み時間にでもちょっと覗いて呼び出してもらえばいいのだ。それで――それでなんて言えばいいんだろう。「放課後は行けません」とか? だめだそれじゃいつならいいのかと言われたら終わる。
 そもそも彼の呼び出しの内容がまだわからないわけで、私の自意識が過剰すぎるという可能性だって大いにある。うかつに変な反応をして勘違いするなと笑われたらどうしよう。恥ずかしい。もう学校に来られない。しかもそうなったらなったで木手くんが私の家まで乗り込んできてしまう。わけも言わずに登校拒否を許してくれる人じゃないのだ。
 やっぱり、放課後直接本人から用件を聞くしかない。
 昼休み中使って考えたって、私に思い浮かぶのはそんなことくらいだ。



「私今日ちょっと用事あるから」
「珍しいですね」
「うん。珍しいの」
 本当に。放課後私がこんなことを言うのはめったにない。帰りのホームルームを終えてにぎやかにざわめく教室の中、私は木手くんにそう告げた。
 いつもならテニスコートと図書室に分かれて、しばらくしてから教室で再会する。でも今は比嘉祭を控えて部活動休止期間中だった。
 私が深刻な顔をしていたからだろうか、木手くんが訝しげな顔をする。
「何か俺に隠し事をしてるんじゃないでしょうね」
「して……」
「して?」
「る」
 それも今回のことだけじゃなくて、色々と。私の抱えた秘密なんて大抵木手くん絡みだったけど、だからこそ本人にはとてもじゃないけど言えないことばかりだ。
「ああ、まあ確かにありますけどね」
「私の秘密の内容を大体察した上で、あえて泳がせるのをやめてほしい」
「やめていいんですか?」
「嘘ですやめないで」
 全面降伏した私に木手くんは厳かに頷く。素直なのはいいことですよとか何とか言いながら。ちょっと前に素直なのもいい加減にしなさいよなんて言っていたのに。でも今それを突っ込んで余計なところまで話題が波及するとまずい。とてもまずい。だから私は木手くんの優しさ(?)に甘えたままでいる。
「俺の助けはいりますか?」
 からかわれたと思ったら、今度は突然真っ直ぐな優しさをぶつけられる。一瞬止まった呼吸は、木手くんが私を心配してそう言ってくれたのが表情からわかったせいだ。そんな顔でそんな声で、私のことを思いやるから。
「……頼りたくなっちゃうけど、でも今回は、私が自分でやらないとだめだと思うから」
 毎回何かがある度に木手くんを頼るわけにはいかなかった。助けてと泣きつけば木手くんはきっと私を見捨てはしないだろうけど、でも。
「ありがとう。大丈夫」
 私の答えを聞いた木手くんは、どこか納得していないような顔をして。
「一人じゃどうしようもなくなったら、必ず俺に知らせると約束できますね?」
 私が頷くのを確認すると、ようやく木手くんは「わかりました」と呟いた。



「やーのこと前から見てたわけさ」
 はにかむ表情は、純粋な好意を私に告げていた。
 放課後呼び出された裏庭は、辺りに誰もいない。ここまで来たら、流石に私にも彼の目的はなんとなく察せてしまっていた。発された言葉の意味は、やはりそういうことなんだと思う。
 彼は照れくさそうに笑いながら「別に今すぐ付き合ってほしいわけじゃない」「まずは友達から」「比嘉祭を一緒に回ろう」――等々、あくまで友好的な言葉の数々を私に告げた。
「あの……私」
 なんて答えたものだろうか。付き合ってほしいと言われたら、きっと私は頷けない。だけど友達になってほしいと言われて、それを断るのもおかしい気がする。こういう時に穏便に済ませる経験値を積まないまま、私はここまで生きてきてしまった。
『一人じゃどうしようもなくなったら、必ず俺に知らせると約束できますね?』
 木手くんの言葉が頭に浮かぶ。これを言われたのはついさっきで、もう彼の助けが必要になっている自分が情けなかった。何が「私が一人でやらないとだめ」なんだろうか。早速一人じゃ対応できなくて困り果てているくせに。
「ええと、悪いんだけど一度考えさせてもらえるかな」
 結局今度も私は逃げた。時間稼ぎをしてどうなるものでもないだろうに。私の頭の中に浮かんでいるのはたった一人で、それは目の前の彼にとって誠実でないということはわかっていた。だけど。
「――木手とつきあってるから?」
 苦笑というよりは呆れを含んだように、彼は顔を歪める。頭の中を読まれたのかと思った。一瞬で心臓が冷える。見透かされたようで。
「そういうわけじゃ……ないんだけど」
 私は木手くんとつきあってるわけじゃない。それは紛れもない事実だった。
 彼は「前から私を見ていた」と言ってくれたわけで、ということは私が木手くんと一緒にいるところも当然見ているはずだった。何故なら学校にいる時の私は大抵の場合木手くんの周りをうろちょろしていて、私の姿を見ようとすれば当然その隣にいる木手くんの姿だって目に入る。
 それでも彼がこういったことを私に告げてくるからには、木手くんの存在を知っていてあえてということなのだろう。何しろ木手くんは有名人だった。例の避難訓練のことがある前からそれは変わらない。どこにいたって目立つ存在だった。
「なら、」
 彼は引き下がることをしなかった。私とは正反対。欲しいものをきちんと正当な手段で手に入れようとする。その姿は自分と比べるととても眩しい。
「私と木手くんは確かにつきあってないんだけど、だけどね、私……」
 決定的な言葉を口にしようとした瞬間、その場を切り裂く声がする。
「――――失礼」
 声の正体が誰かなんて、今更考えるまでもない。
 隣のクラスの彼は、目の前の私を通り越して背後の誰かに目を向ける。その顔はなんというか言葉にするのが難しい表情で、それでも彼の顔色が変わったことだけは私にもわかった。その視線につられるようにして私も振り返る。見なくてもわかっていたけれど、やっぱり。
「邪魔しますよ」
 木手永四郎くん。同じクラスで隣の席の男の子。テニス部で評定委員で有名人で、厳しくて面倒見がよくてたまにめちゃくちゃなことを言うけど優しくて、側にいると心臓に悪くて私の魂をすぐ落とさせて、なのに離れているとたまらない気持ちになる。揺らがない信念と真っ直ぐな魂を持っていて、私が絶対に味方でありたいと願った人。その人が。
 ――多分ものすごくめちゃくちゃに怒っていた。
「俺が誰だかわかっていますね?」
 木手くんは隣のクラスの彼ではなく、私に向かって言った。予想していなかった言葉に、一瞬あっけにとられる。だってそんな、聞かれるまでもないことだったからだ。
「木手くん……?」
「わかっているようで何よりです」
 木手くんはもっともらしい顔と声でわざとらしく頷いた。木手くんはこうやってたまに芝居がかった調子で物事を話すけど、それは大抵何か意図があってのものだった。今だって多分それは同じで、木手くんが何を言いたいのかわからないまま、私は立ちすくんでいた。
「なら、攫いますね」
 彼の言葉を頭で理解するよりも先に、右手首を掴まれた。今までにないほどの力で、痛みを感じる直前くらいまで強く。
 そのまま木手くんは私を引きずって歩き出す。いつもとは全然違った。私の歩幅なんて全く考えていないその速度は私が小走りになってしまうほどで、今まで一体どれだけ木手くんは私に合わせて歩いていてくれたんだろうと思うと、それだけで顔が熱くなる。
 足をもつれさせながら私は何とか背後を振り返った。だってこんな、いくらなんでもこんな立ち去り方はないと思ったから。
「あの、あのね!」
 聞こえるように頑張って大きな声を出した。その間も木手くんの歩みは止まらなくて、それどころか右手を掴まれている力か強くなったような気さえする。
「ごめんなさい! 私比嘉祭一緒には行けないです!」
 彼に問われたいくつかの内、答えられるものにだけ返事をする私はずるいと思った。けれど呆気にとられた様子の隣のクラスの彼も、私を引きずる木手くんも、それを責めはしなかったのだった。



 どこをどう連れてこられたのか、全く覚えていない。
 いくつかの部屋を通り抜けた気がするし、渡り廊下を通った気もする。階段は登ったし降りた。どこまで行くのかわからないまま、私は今まで来たことのない場所まで連れてこられてしまった。
 ただひたすら歩き続ける彼の速度に追いつくのが精一杯で、気づいた時には息が上がっていた。
 呼吸を乱す私に初めて気がついたかのように「大丈夫ですか」なんて言う。私のことを気遣ってくれているようでいて、その声はどこまでも平坦で、見上げた表情からは何の感情も読み取れない。久しぶりに木手くんのことを怖いと思った。最近はもうずっと、睨まれても怒られてもそんな風に思ってなかったのに。
「ここ、どこ……」
 木手くんの質問には答えられなかった。決して大丈夫ではなかったけど、心と身体のどちらがと聞かれても答えられそうになかったからだ。多分どちらも大丈夫ではなかった。
「ここなら邪魔は入らないのでね」
 多分側にあるのは校舎の壁なんだろうから、学校の敷地内なんだろうとは思う。裏庭とも中庭ともつかない場所で、フェンスの向こうに海岸が見えた。美しい海と、そこにこれから沈んでいこうとする夕陽も。
「俺を遠ざけた『用事』はあれでしたか」
 木手くんの言葉に心臓が冷えた。ちがう、と小さく声を漏らして黙り込む。それ以上言葉が出てこなかったのは、自分でも違わないと思ったからだった。私の中には複雑な事情があったとしても、木手くんからすれば同じことだ。
「違う、ね」
 やはり木手くんは態度を硬化させたまま、冷笑まじりに吐き捨てる。そこでようやく「ああ」と気づいて私の右手首を解放した。
「すみません、痛かったですよね」
 確かにそこはうっすらと赤い痕がついていて、こめられていた力がわかった。離された途端に血液が手の先の方へとめぐっていって、じんじんとしびれるような感覚がある。
 痛くてもいいの。離されてしまうよりは。
 いつもならするりと言葉が飛び出すはずの私の口は、今日に限ってはちっともうまく動いてくれなかった。ただ沈黙を守る私に、木手くんは更に表情を曇らせる。ああ、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「怒りましたか」
 無言で首を振る。
「嫌いにもなってない。ならない」
 先回りして答えた。たまに強引な木手くんは私に怒られることをやたら気にすることがあって、そういう時に彼が何を考えていたのかを教えてもらったことがある。それを思い出した。だからせめてそれだけは否定しておこなくちゃいけないと思ったからそう言った。
「――そうですか」
 安堵したのかそれともただ納得しただけか、それでもとにかく木手くんは頷いた。けれど空気は未だにどこか張り詰めたままで、いつものような柔らかな声も視線も私には与えられていない。
「俺は怒ってます」
「うん」
 おかしな話だけど、私はこの時どこかほっとしていた。木手くんの感情をはっきりと言葉にして教えてもらったから。
「あなたが知らない男――いえ顔と名前くらいは知っているんですがね。それは今はいいです。とにかくあなたが彼と二人きりであんな人気のない場所に立っていた時に、俺は冷静さというものを失いました」
 淡々と話す木手くんは一見冷静に見えるけれど、そうでないことは私が一番よく知っている。一番なんて言うと自惚れすぎかもしれない。でもきっと、少なくとも今この瞬間に関しては間違っていないのだろう。
 手を握っていてほしいと思った。手のひらから伝わる熱が知りたい。言葉にすることが難しい、いくつものあれこれが皮膚を伝わってわかるような気がするから。
「俺に怒る資格がないことはわかっているつもりなんです」
「そんなこと、」
 ないよと私が口にしていいのか、それこそ私にそんな資格があるのか。その一瞬の躊躇で続きを口にできなかった。木手くんはその躊躇いをどう受け止めたのか、表情を歪めてなおも続ける。
「そうですよ。別にあなたが誰に告白されようが誰と付き合おうが俺に口を出す権利なんてないですよ。だからなんですか。権利がなければ怒ったらいけないんですか」
 いっそ開き直ったかのような言葉の濁流に、私は呆気にとられていた。木手くんがこんな風にして感情をむき出しにするのが珍しくて。
 怒っていいし、どれだけ力をこめて手首を掴まれたっていい。誰かに告白されたり付き合ったりすることに、口を出して待ったって言ってほしい。あなたになら。
 それをどうやって伝えたらいいのか、こんな時ばかりうまく言葉が出てこない。頭の中でぐるぐるまわる思考は私を混乱させていくばかりで、木手くんが私にぶつける感情を受け止めるだけで精一杯だった。
「なんとなく嫌な予感がしましたよ。あなたが俺との帰宅よりも優先することがあって、しかもその内容を隠す? ありえないでしょ。聞けばあなたが昼休みに食堂で声をかけられていたっていうじゃないですか。その時の俺の感情がわかりますか?」
「わかんない……あの、それどこで」
「今はそれはいいんですよ」
「はい」
 周囲に人がいなくても、食堂は生徒の誰でも出入り自由だ。どこかで私を知る人があの光景を目にしていてもおかしくはなくて、それが木手くんの耳に届くことだってあり得る。
「……だから、つまり」
 そこで木手くんは深く呼吸をした。自分を落ち着かせるためか、それとも私に心の準備をさせるためか。どちらにせよ私に口をはさむ余地はなかった。
「あなたが俺のものじゃないのが嫌です」
 何ひとつ装飾することのない、真っ直ぐな言葉だった。
 耳から入り込んだ声が私の身体の中心を通って、胸の真ん中にすとんと落ちた。言われた言葉の意味は、考えるまでもない。何も言えずにただ呆然と目の前の木手くんを見つめる。眼鏡の奥の瞳を眇めて、どことなく苦しそうに。睨むでもなく、それでも視線を決して逸らさないまま私を見据えていた。
 木手くんの言葉の意味が、私が考えている通りならいいのに。
 わずかな希望をもって、ゆっくりと口を開く。乾燥した唇はきっと緊張しているせいだ。舌で湿らせた唇がやっと開いて、それでも私が口にできたのは。
「……どうして?」
 そんな震えた言葉、たったひとつだけだった。
 木手くんはそれを聞いて、さらに表情を歪めてぼそりと不機嫌そうに呟いた。
「わかっていて聞いてるんですよね?」
「うん。どうしても聞きたいの」
 木手くんと出会って、いつの間にか私はこんなにも欲深くなっていた。
「そうだったらいいのにって思ってるけど、もしそうじゃなかったら、今の私はもう悲しいって思うようになっちゃったから」
 手を伸ばしそうになったけど我慢した。今木手くんに触れてそれで助けてもらったら、きっとまた言葉にできなくなってしまう。私たちの関係は名前がうまくつけられないままだ。もうそれじゃ足りないことが、多分私も木手くんもわかっていた。だから。
「……あなたのことが好きなんですよ」
 溢れる言葉のひとかけらだって、全部すくい上げたいと思った。
「俺のものになってください」
 頬が熱くて、耳も熱くて、耳の奥からきぃんと音がして、勝手に涙腺が緩んだ。悲しいことなんて何ひとつないのに。
「なる……」
 からからの喉がおかしな声を出した。揺らいでいるのはきっと涙のせいじゃなくて、色んな感情が一気に私に襲いかかっているからだ。
「なりたい。なる。木手くんだけのものがいいの……」
 あなたのものにしてくださいと、本当はずっと言いたかった。
「……理由は?」
 拗ねたような顔が言う。さっきの仕返しなんだと誰が見てもわかった。それを見ていたらなんだかもう笑みまでこぼれてきてしまって、私は泣いているのか笑っているのか自分でもわからない。でも今度こそ唇が勝手に言葉を溢れさせた。
「好きだよ。木手くんが大好きだからだよ……!」
 一度叫んだらもう止まらなかった。ただ一度言葉にしただけで溢れた感情を、ぶつけるみたいにして木手くんに告げる。好きです。ずっと好きだった。この島へやって来た時から木手くんのことだけずっと見てた。
「……鼓膜が破れるかと思ったじゃないですか」
 皮肉めいた口調は、いつもの木手くんと同じだった。同じだったけど。
「遅すぎるんですよ」
 その耳朶は、夕陽よりも赤かった。

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