21:ニライカナイの海



 ひとしきり泣いた私が落ち着くのを、木手くんは辛抱強く待っていてくれた。
「ごめん、ごめ……あの、もうすぐ泣きやめると思うから」
「いいですよ別に。俺のせいで嬉し泣きならいくらでも泣いてなさいよ」
「あのね、遅くなると悪いし先に帰ってもらってても」
「この状況で置いて帰るとでも思ってるんですかふらー」
「ふら……?」
 雰囲気的に罵られているのはなんとなくわかる。
「そうですよ罵ってます。おバカさんですねって言ってるんですよ俺は」
 罵りながらも木手くんの声は甘い。ここに来た時の殺気混じりの空気はとっくに霧散していて、ひたすらふわふわした空気が流れていた。
「慰めるのに抱きしめますけど、文句はありませんね?」
「ない、けど」
「けど?」
 泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、隠そうとする度に木手くんがそれを許さない。さっきから俯く度に覗き込まれたに顎に手を添えられたりするので、こちらの心臓がもちそうになかった。私は諦めて涙目のままで木手くんを見つめ見上げる。
「今は慰めるためじゃなくても抱きしめてほしい」
「……っいい加減にしなさいよあなた!」
 一瞬で真っ赤になった木手くんに、怒鳴られて怒られながらぎゅうぎゅうに抱きしめられた。苦しいくらい。いつかのマブイグミとは比べものにならない強さで、木手くんの腕の中に閉じ込められる。
「苦しくても知りませんからね」
「ちょっと苦しいけど、気持ちいい……」
 好きな人に強く抱き寄せられる心地よさを知ってしまった。多分もう私はこの感触の虜にされたと思う。
「だから! いい加減にしろと言って……ああもう知りませんからね!」
 木手くんは怒りながらも私を離すことはなくて、私たちはそれからしばらくの間、誰もいない秘密の場所でくっついたままでいた。



 思う存分木手くんを補給して、ようやく私は泣き止んだ。落ち着いたのを見計らって「帰りましょうか」と言った木手くんはどこか疲れているようにも見えたけど、私の右手をするりと捕まえることを忘れなかった。繋がれた手を見て途端に固まる私を見て、木手くんは呆れたように笑う。
「何を今更」
 本当に今更なんだけど、それでもやっぱり緊張する。でも絶対に離したくはなかったから、私は右手と右足を同時に出しそうになりながらも、なんとか木手くんの隣を歩いていた。
 しばらく歩いていると、やっぱり確信した。
「あのね、木手くんて脚長いよね」
「あなたよりは身長がありますからね」
「いつも私に合わせて歩いてくれるの、歩きにくくない?」
 そもそもの歩幅が全然違うのだ。さっき手を引かれた時のことを思い出す。あれが木手くんにとっての歩行かもしれなかったけど、私には小走りだった。それが今は無理のない速度で歩けている。その理由はひとつしかない。
「あなたが気にすることじゃないです」
「でも」
「あなたに合わせて歩いた方が、分かれ道までの時間が引き伸ばせるからだと言ったらどうします?」
 歩く足が止まるほどの衝撃だった。
「流石に立ち止まられるのは困りますねぇ」
 だったら私を固まらせるような発言は謹んでほしい。いや嘘。もっと言われたい。どうしよう。
「歩くのが遅いのが役に立つ日がくると思わなかった……」
「よかったですね」
 ゆっくり沈んでいく太陽と同じくらいゆっくりな速度で、私達は帰り道を歩く。



 まだ手を離し難くて、どちらからともなく海岸へと足が向いた。砂浜に続く階段は、二人並んで座るのにちょうどいい。砂をはらって腰掛けると、木手くんと距離が近づいて鼓動が早まった。いつも教室で隣に座っているけれど、その距離感に慣れてしまっているのだ。それよりも近づいて座ると、途端に私は緊張した。
 手が繋がれたままだから木手くんは私の右側に座る。私は木手くんに右側から語りかけられると特に弱い。それを知っていてそうしているのかはわからないけど。
「本当にわかりやすいですよねあなた」
「恐縮です……」
 膝の上にふたつ拳を並べて座る私は、やはり木手くんから見てもぎこちなかったらしい。吐息まじりに笑われて、それを見て更にどきどきした。木手くんの色気がとんでもなさすぎて。勘弁してほしかった。
 きゅっと握り込んだ手の甲を、伸びてきた木手くんの指が不意に撫でた。たまらず反応して身体をはねさせたのが面白いのか、木手くんは更に手に力をこめて拳ごと握り込むようにする。
「あの、手が、手を」
「離してほしい?」
「触られてたいけどどきどきしすぎて変になるから、私のことはそういうものだと思ってほしい」
 私が何事にも動じない冷静さを手に入れるより、木手くんに私の挙動不審さに慣れてもらう方が早いと思った。
「……念の為なんですけど、誰かれ構わずそういうの言ってませんよね」
「私のことはそういうものだと?」
「思ってますけどそうじゃなくて、触られたいの方ですよ。言わせないでください恥ずかしいので」
 どう見ても恥ずかしがっている顔ではなかったのだれど、木手くんが言うのだから多分本当に恥ずかしいのだろう。私は頷いて木手くんだけ、と言った。
「私が触られてたいのが木手くんだけだから、木手くんにしか言ってないよ」
 握り込まれていた手に、ぎゅっと一瞬力がこもる。すぐにそれは元に戻ったけど、木手くんの方を見ると手のひらで口元を覆っていて、小さく「見ないでください」と言われた。でも、こんな様子の木手くんはあんまり見られないだろうから貴重だし。
「木手くんも本当に恥ずかしがるんだねえ」
「だからずっと言ってるでしょうが」
 拗ねた口調すら愛しかった。



「あなたから言うと思ってたんですよ」
 今まで何度も、あからさまに私を追い詰めてきた木手くんは言った。
「なんとなくそんな気はしてた」
 思えば木手くんが「そういう空気」を作ってくれたことは、何度もあったような気がする。その度に逃げる私を、木手くんはどう思っていたのだろうか。
「じれったくて仕方がなかったですけどね」
「木手くんの方が早かったねえ」
「何を呑気なことを」
 木手くんが半眼で私を睨む。でも今日は木手くんの左手が封印されているから、私と手を繋いでいる以外に何もできないのだった。
「俺は罠を張り巡らせて標的がかかるのを待ち構えて、いよいよ逃げられなくなったところを捕まえたいタイプだったんですよ」
「赤裸々すぎない?」
 いくらなんでも手の内を明かしてくれすぎだと思った。しかも思い当たる節はいくらでもあるし。そうか。私は木手くんに罠にかけられていたのか。それにしては随分と甘い罠だった。他の誰もかからないといいなと思う。
「あなたにしか仕掛けないので……そこ、にやにやするのやめてもらえます?」
「嬉しい……木手くん好き……」
 とろとろになった私は、木手くんからの言葉を存分に享受する。
「それだけするする出てくる言葉がどうしてもっと早く出せないんですかね」
 私の手を包み込んでいた指を器用に滑らせ、手の甲を木手くんの親指が撫でる。瞬間ぞわわ、とした感触が全身を襲った。決して嫌なわけじゃなくて、それよりももっと。
「……いい顔」
「見ないで」
「見るに決まってるでしょう。こっち向きなさいよ」
 木手くんの左手は私の右手と繋がっているから自由にならないけど、木手くんには右手もあった。そちらの自由な右手は私の顔に添えられて、強制的に右側を向かされる。想像したよりもずっとすぐ側に木手くんの――好きな人の顔があって、私はまばたきも忘れて固まった。
「こんな男に捕まって気の毒ですけど、諦めてくださいね」
 そんな言い方をしながらも、木手くんの声も目も驚くほど優しい。頬に添えられた手のひらは慈しむように私を何度も撫でて、それだけで私はもうだめになってしまうのに。
「木手くんはね、そうやって罠とかって言い方するけど……私はす、好きな人、のために色々考えて作戦立てて行動するのって、悪いことじゃないと思うんだよね」
 好きな人、の辺りをスムーズに口にすることができなかった。それが自分のことだという自覚は流石にあったからだ。でもそれを改めて自分で言うのは、じわじわと炙られるような羞恥心を伴う。
「恋と戦争では、どんな手段を使っても許されるんだよ」
 羞恥をごまかそうとして、昔どこかで聞きかじった格言で冗談めかした雰囲気を作ろうとした。まあ、そんなこと木手くんには多分お見通しだろうし、案の定木手くんは笑みを深くした。
「そうですね。好きな人のために随分苦労しましたよ俺は」
 木手くんは「好きな人」を強調するようにして私をいじめた。私が何を言うのを躊躇して何が恥ずかしいのか、完全にわかった上でこういうことをする。それで私が怒ったり嫌ったりしないことを、今の木手くんはもう全部わかっているからたちが悪い。私にできるのは染まった頬がどうか目立ちませんようにと祈りながら、唇を噛み締めることくらいだ。
「噛むのはだめです」
「ん、っ」
 眉をひそめた木手くんの親指が、今度は直接私の唇にのばされる。指の腹で優しく下唇を撫でられると、途端に私は力が抜けた。
「吸いたくなるので」
 ひゅ、と喉の奥から変な音がした。いよいよ何も言えなくなった私は、もぞもぞと後ろへ移動しようと無駄な抵抗をする。
 当然木手くんがそれを見逃してくれるはずもなくて、あっさりと腰を抱かれて引き戻され、悲鳴を上げる羽目になった。
「逃がすわけがないでしょうに」
「ですよね……」
「大丈夫、今日のところはまだ許してあげますよ。まだ……ね」
 まだ、と強調されたことの意味を思い知らせるように、木手くんの指が最後にもう一度私の唇を撫でてから離れていく。触れられていると呼吸すらままならないくせに、離れていかれると少し淋しい。木手くんのせいで、私の情緒はもうめちゃくちゃだった。それでも離れる選択なんてもう私にはできなかった。
「そんな顔をするくせに、相変わらずちゃんと俺の味方をしてくれるんですよね」
 どんな顔だっていうの。拗ねた口調に答えはない。木手くんはただ優しく笑うだけだった。何て答えられてもたまらないと思うから助かったけど。
「俺だって弱気になることがあると言ったら笑いますか」
「笑わないけど、びっくりはするかもしれない」
 私の中の木手くんはいつも自信に満ち溢れていて、自分が選択した道に迷いなんてないのだと思っていた。木手くんが弱音を吐く姿すら見たことがない。見せてくれればいいのにと思ったことはある。
「俺が弱ってるところを見て楽しいんですか」
「楽しくはないし、木手くんは元気でいてくれた方がいいけど。でもね、もしも弱音を吐きたくなった時、私を頼ってくれたらきっと嬉しいと思うから」
 そういう「味方」でありたかった。頼りないことこの上ないけれども。
「そうですよね。あなたは『そう』なんですよ」
 何かに納得したかのように木手くんは頷いて、不意に表情を緩めた。
「だってあなた、どこからどう見ても絶対に俺のこと好きだったじゃないですか」
「……うん」
 そこまで明確にわかりやすかっただろうか。いやわかりやすかったんだろうな。だって隠しようがなかったし。色々だだ漏れだったんだろうという自覚はあった。
「俺のことが好きで好きで仕方がないのに、それに加えて俺のいうことを何でも聞くじゃないですか」
「…………うん」
 木手くんの言うことに異議を申し立てたいわけじゃなくて、そこまではっきり言われるのが恥ずかしいのだ。かといって否定は全くできないわけで。
「そんなあなたに俺から好きだと言ったら」
 そこで木手くんは一度言葉を切った。続きを口に出すのを躊躇っているかのようだった。私は黙って次の言葉を待っている。急かすつもりはないし、何を言われても受け止めたい。
「……命令して付き合わせたみたいになるじゃないですか」
 ぽつりとたった一言。小さな声で一度だけ、初めての弱音を吐露された。
 それを聞いた私の頭の中は、一瞬真っ白になった。だって、本当にそんなの、想像もしていなかったから。
 私がぐるぐる考えて迷って悩んでためらって、それで踏み出せずにいる間。木手くんも同じように躊躇していたなんて。考えてみれば当たり前かもしれないそれを、私はこの時初めて気がついた。
「すき」
 気がついたらもう、勝手に口から言葉が溢れていた。
「好き。木手くん好き。大好き。両思いで嬉しいの。ずっとこのままがいい」
「……っわかりましたから、ちょっと」
 私が必死に身を乗り出した分だけ、木手くんが身を引いた。目を閉じて口元を覆って、少し離れてと言われても私はもう止まることなんてできそうにない。
「木手くんにね、好きって言われると嬉しい。嬉しかった。夢なら夢でいいから覚めないでって思ったの」
「現実ですよ……現実ですから、あなたのその一気に好意が吹き出るやつなんとかならないんですか。身がもちません」
 少し照れるなんてものじゃなくて、ここまで顔を赤らめて目をそらす木手くんの姿なんて初めて見た。学校でも他の場所でもどこでも見たことのないそれを、私だけに見せてくれるんだったらいいのに。
「好きです木手くん。私とつきあってください……!」
「何で今それなんですか!」
「木手くんに命令されて彼女になりたいわけじゃないってわかってほしくて」
「思い知りましたから勘弁しなさいよ」
「返事がほしい……」
「今更いります!?」
 せっかく生まれて初めて告白をしたのだから、好きな人からの返事が聞きたいと思うのは当然だった。木手くんのシャツの裾を引いて「ねえ」とせがむと、木手くんは言葉を失って「ぐ、」とか「うぅ」とか短く唸っていた。これも初めて見る木手くんの姿だ。これからもっとたくさん色んな木手くんが見られるといいのに。
「本当にいい加減にしなさいよあなた」
 低い声と恨みがましい視線。こんな時でもなければ多分私は震え上がっていただろうけど、でも今の私は次に彼が発する言葉に期待していた。
「――俺もあなたが好きです。お付き合いしましょう」
 怒っていても照れていても、ちゃんと誠実に言葉にしてくれる。私が好きになったのはそういう男の子だった。
 何よりも望む言葉を手に入れて、私は破顔した。ついでに涙腺とか感情の箍とか、そういったものも改めてだめになってしまったようだ。
「嬉しい……嬉しい……」
「良かったですね。俺は何で二度も告白させられたのか意味がわかりませんけど」
「私は何度でもしたい」
「ならもっと早くなんとかしなさいよ」
 木手くんの言葉は至極最もで、自分の中ですら「木手くんのことが好き」という感情を形にすることから逃げていた理由なんて、多分ひとつしかない。
「……私みたいなのがね、人を好きになっていいと思わなかったの」
 だからとっくに芽生えていた恋心を無理やり丸めて土に埋めるような真似をした。実際は埋めても埋めても勝手に発芽してしまって、今日とうとう一気に成長して咲いてしまったわけだけれども。
 木手くんの目がほんの少し見開かれた。驚いたのを隠そうとしながら、木手くんはゆっくりと口を開いた。
「あなたの自己肯定感がそこまで低いと思っていませんでした」
「好きな人が自分を好きになってくれるなんて、そんな奇跡が起こると思ってなかった」
 好きでいるのを許してもらえるだけで充分だと思っていた。でもそんなのは結局まやかしで、欲深い私はそれ以上を求めてしまう。それがわかっていたから、最初から「好き」に気づかずにいればいいと思った。
「奇跡じゃないです」
 木手くんはシンプルな言葉で私の言葉を否定した。
「奇跡なんかじゃありません。俺はあなたに出会ってあなたと過ごして、あなたに惹かれたからそれで今こうしてるんですよ」
 どこか怒っているような声は、卑屈な私を叱っている。
 相手の気持ちを考えずに、自分の中でだけ解決しようとした。それは木手くんに対して誠実な態度じゃない。自分の気持ちが楽なように、それを守ろうとして間違った選択を続けていた私を、木手くんは叱ってくれているんだと思った。
「拒みませんよ」
 静かな声で木手くんは言った。
「あなたのことを拒否しません。あなたが俺に向けた好意を、俺が一度だって退けたことがありましたか」
「ない……と思う」
「言い切りなさいよ」
「ない、です」
 確かに私のような人間が、好意を持った相手に冷たい態度をとられてめげないはずがなかった。木手くんは態度や言い方がそっけないけど、いつだって私に優しい。こうして叱られている時だってそれは同じで、だから私は今まで安心して木手くんのことを好きでい続けられたのだ。
「俺のことが好き?」
「……好き」
 散々フォローしてもらって、それでようやく自分の気持ちを口にすることができる。そんな人間の好意すら、木手くんは受け入れてくれた。
「いいですね。もっと言いなさいよ」
「好きだよ木手くん。ずっと好き」
「今までの分、きちんと全て言葉にしてもらいますからね」
「溺れさせちゃうかも」
 今まで私の中に溜まっていた全て。それを全て人様にぶつけるのは流石に気が引けた。自分が重い自覚はあるから余計に。
「俺が溺れるとでも思います?」
 私の不安を鼻で笑い飛ばす、その姿が今は頼もしかった。
「……嬉しいんです。本当ですよ」
 目を閉じて、私の手を両手で包み込む。
 他の全てを信じられなくなっても、木手くんの言葉だけは信じていたかった。



「今度わんのいなぐを悪く言ったら怒りますからね」
 木手くんがまた知らない言葉を使う。私が二、三度まばたきするのを待って、木手くんは口元を緩めた。
「俺の彼女。あなたのことですよ」
 途端に私は呼吸を止めた。木手くんの言葉は時折本当に心臓に悪くて、まっすぐすぎて私に刺さる。なんて返したらいいのか迷って、口を半端な形に動かしては閉じる私を見て木手くんは笑みを深くする。照れるとか恥ずかしいとか、もうそういうレベルじゃなかった。改めて「好きな人の彼女」というのを実感させられると、もう。
「見ないでっていうのはだめ……?」
「ええ、駄目です」
 木手くんの顔がすぐ側にあって、眼鏡の奥の瞳が私をその場に縫い止める。伸びてきた手が私の頬に触れて、ふにふにと何度かつまんでからゆっくり撫でられる。大切なものみたいに、ひどく柔らかな触れ方で。
「ちゅらかーぎー」
 耳から溶けてしまいそうな声で木手くんが言った。
「……かなさん」
 その言葉の意味を理解して、私の首から上は真っ赤に染まったんだと思う。私の反応を見た木手くんが、びっくりしたように目を見開いたから。
「あ、あ、きてく、あぅ」
「落ち着きなさいよ。ちゃんと息して」
 慌てて背中をとんとんと優しく叩かれる。だけど、だって。まさかそんな木手くんに。
「……もしかして意味わかってます?」
 私の反応を見ていた木手くんが、低くうめくような声で問う。
 ――かわいい。愛してる。
 好きの一言で涙腺を崩壊させて倒れそうになった私にとって、それはあまりにも刺激が強かった。直接的な愛情表現にふにゃふにゃになってしまった私に、木手くんはようやく事態を把握したのか、私に負けないほど顔を赤らめて叫んだ。
「あなたこの前まで『てーげー』の意味だってわかってなかったじゃないですか!」
 図書館での会話を思い出す。確かに知らなかった。知らなかったけど。
「あの後辞書読んだ……」
「……!」
 木手くんが絶句する。私も同じだった。
 沖縄の言葉を知りたくて、図書館に置いてある本を読んだ。木手くんの言葉を知りたいというのも勿論あったけど、その他にどうしても目的があって。
「私もでーじしちゅん! 木手くんかなさんどー!」
 大好き。木手くん愛してる。いつかこの島の言葉で、伝えられる日がくればいいのにと思っていた。
 好意を告げるための言葉の数々。本で読んでも発音がよくわからなかったし、クラスの子に聞いたら色々とバレてしまうし、木手くん本人に聞けるわけもない。だからつたない私の言葉が、果たして正しいのかどうか。
「……伝わる?」
 恐る恐る尋ねた私に、呆気にとられたままだった木手くんはくしゃりと顔を歪めて笑う。
「……伝わりましたよ」
 瞳が潤んで揺らいでいた。



「泣かないで」
 目のふちから溢れそうな雫を受け止めたくて、木手くんの頬に触れる。そこはひどく熱かった。日に焼けた肌は滑らかで、涙なんて簡単に滑り落ちていく。
「泣いてません」
 私の指先が頬に触れて、木手くんがゆっくりとまばたきを一度。そうすると雫があふれるようにして伝ったけれど、木手くんは泣いていないと言い張った。
「じゃあこれは海だね」
 木手くんの頬と一緒に私の指先も濡れていく。拭ってあげたいけど、私の手首は木手くんが掴んだままだ。離れていくことを許さないとでもいうみたいに固定されている。私が木手くんを離すはずがないのに。
「涙は人間がつくる一番小さな海なんだって」
 だから木手くんは泣いているわけじゃなくて、海をつくっているだけだった。
「木手くんの海に触れてるのが、私でよかった」
 これから先も私だけがいい。そんなわがままを小さく口に出すと、木手くんは小さく頷いた。
「木手くん、好き」
 もう何度目かわからないほど口にしたそれを、もう一度唇に乗せた。好きなだけ言ってもいいと許してもらったのをいいことに、何度でも同じ熱量で伝えたい。
「木手くんも私のこと好きなんだよね」
 流石にこっちはまだ口に出すのが恥ずかしかった。でも口に出して改めて幸せを噛み締めたいのだ。
「そうですよ。あなたが好きです」
 私が告げる言葉の数だけ、木手くんも同じように返してくれた。その事実に私はとろとろに溶けていく。
「幸せすぎる……意地張ってる場合じゃなかった……」
 弱気と卑屈さと、そういうもので私は自ら壁を作り上げた。四方を囲む壁の中で安全圏だとうずくまる私を、木手くんは諦めずにいてくれた。
 四方を囲まれた壁の中、ガラ空きの天井から飛び込んできた木手くんは、内側から私の壁を全部破壊し尽くした。それで呆然としている私に何でもないことのように手を差し伸べて「行きますよ」と連れ出してくれたのだ。
「あなたが俺に意地を張るなんて、土台無理な話だったんですよ」
「うん……これからはね、もっと素直になるからね」
「あなた大概素直ですけどね」
 呆れた苦笑すら嬉しかった。



「三校対抗戦、応援しに行くからね」
「待ってます」
「比嘉祭一緒に回ろうね」
「ええ」
「誕生日のお祝いにデートしよ」
「そうですね」
 断られないのを良いことに、今まで誘いたかったけど誘えなかったイベントごとの約束を、片っ端から取り付けた。私は必死だったのである。木手くんは呆れた様子を見せながらも、私のお願いにひとつひとつ頷いてくれた。
「誕生日、何が欲しい?」
 前にもらったアカバナーのキーホルダーは、今や私の宝物だ。家の鍵をつけて、なくさないように大事に大事に使っている。家の鍵よりもキーホルダーの方がなくなったら困るけど、それを言ったらまた木手くんに呆れられると思ったので今のところ秘密にしている。
「欲しいものですか」
 少し考え込んだ木手くんは、私の頬を撫でながら「そうですねぇ」と呟いている。別にそれが嫌だとか、そういったことは全くないのだけど、ただひたすらに恥ずかしい。でもやめないで。そういう私の二律背反を、木手くんは全てわかってやっているんだと思った。
「一番欲しいものは、もうもらってしまったので」
 流石に私だって、何を言われているのか理解した。頬を撫でる感触がくすぐったくて気持ちがいい。こうやって木手くんは私を夢中にさせていくのだからひどい。
「欲しがってくれてありがとう……?」
 そのせいで変なお礼をする羽目になった私を見て、木手くんはくつくつと笑う。やっぱり木手くんはひどい。でも大好き。
「あなたは俺のものなわけですけど」
「うん」
 今度は素直に頷ける内容で助かった。私の心と身体と魂とあと何か残っているものがあればそれも、全部木手くんのものならいいのにと思っていたから。
「……ほんと、当たり前みたいに頷きますよね」
「当たり前みたいに木手くんのものになりたかったの」
「どうなっても知りませんからね」
 木手くんはそう言うけど、結局のところ木手くんは私に優しいことを知っていた。ひどいことも意地悪もするけど、私が傷つくようなことは一度だってされたことがない。
「とにかくあなたは俺のものですけど、本来人の心なんて自由にできるものじゃないと思っています」
 真剣な瞳で木手くんは言った。木手くんの瞳にまっすぐ見つめられると、私はもうそれだけで世界から木手くん以外の全てがなくなってしまったかのような錯覚を起こす。
「裏切りも浮気心も、人間なら誰しも持っているものだとも思います」
 そこで木手くんは一度深く息をついた。でも、と小さく呟く。
「でもあなたには許せません。耐えられそうにありません。他の誰にも許していることをあなたにだけは許せない。その理不尽を受け入れてもらいますよ」
 いいですね。と告げる木手くんは、言葉の内容だけは高圧的に、縋るような声と目をして言った。
「私だけ?」
「そうです。あなたに関して俺の心は狭すぎてどうしようもない。それを思い知ったので先に言っておきます」
 私にだけは許さないと、制限されて枷をはめられる。木手くんの吐露したそれは独占欲からくるものに他ならなくて、言われた言葉の意味が、じわじわと私の心に浸透していく。
「特別って感じがして、なんだか照れちゃうね」
 私の言葉に木手くんは一瞬ぽかんとあっけにとられた顔をした。しばしの無言の後、俯いた木手くんは吹き出すように笑って、そして。
「……俺はあなたみたいのじゃないと駄目だったんですね。理解しました」
 そして私の肩に額を乗せて、脱力したようにもたれかかった。
「私もね、木手くんじゃないと駄目だったよ」
 肩にもたれて体重をかけられる。木手くんの重みが不思議と心地いい。支えているだけで精一杯なのに、何とかして抱きしめたくなって頑張って背中に手を回した。木手くんのことが好きで、愛しくて、身体の隙間をなくしたくなったからだった。
「あの日見つけてくれて嬉しかったの」
 誰も知らない場所で、初めて海を見た。その光景はとても綺麗だったけれど、それでもやっぱり少しだけ淋しかったから。
「ええ。見つけたのが俺でよかった」
 一人きりの私の世界を、二人にしてくれたのが木手くんだった。



 沈んでいく太陽を見つめていると眩しくて、目を細めて木手くんに寄り添う。木手くんが私の好きなようにさせてくれるのが嬉しくて、ぐりぐりと額を押し付けた。
「くすぐったいですよ」
「今日の私は愛情が溢れすぎちゃってもうだめかもしれない」
「なら仕方ないですね。我慢します」
 やっぱり木手くんは私に甘い。
「――俺が道を踏み外したらどうしますか」
 木手くんが私の頭を抱え込んで、見上げることができないままそんなことを聞かれた。木手くんが今どんな表情をしているかわからない。それでも私の答えは最初から決まっていた。
「一緒に落ちたいからちゃんと掴んでてほしい」
 離さないで、最後まで一緒がいい。
 木手くんの顔が見たくて、頑張って腕の中から抜け出そうとする。ぐいぐいと抜け出すと木手くんはやっぱりいつもは見られないような顔をしていた。悲しいわけじゃないのに涙が出るのを我慢する時、私もこういう顔になる。
「……責任重大ですね」
 両方の手を木手くんに差し出した。さっき木手くんの腕から抜け出す時に離れてしまったそれを、もう一度捕まえてほしかった。
 木手くんは私の願いを悟ると、迷うことなくこの手を取った。指を絡めて、決して離れないように。
「この海を越えてニライカナイにたどり着くまで、つきあってもらいますよ」
 夕陽に染められた海の色も、今まで見たことがないほど美しい。揺れる波を越えてどこかへ行くのなら、木手くんと一緒がいいと思った。
「うん」
 だから頷いた。私の中にある真心とかそういったものを全部こめる。
「本当にわかってるんですかね……」
 木手くんはため息交じりに小さく笑う。確かに私はニライカナイがどこにあるのか知らないけれど、木手くんがついてこいというのなら、私に頷く以外の選択肢は存在しない。
「ずっと連れていってね」
 だからどこまでも一緒がいい。そう告げると木手くんは、いつか夕暮れ空の下で見たあの笑顔で、繋いだ手のひらに力をこめた。



 ふわふわした気持ちを抱えてとろとろになった私は、一晩中夢見心地のままでいた。朝を迎えて、万が一昨日のことが全て夢だったとしても心を折らないように。
 いつもよりも早く家を出た。比嘉祭を控えているので部活の朝練もなくなっているから、校舎はまだ人の気配がしない。早朝の空気の中歩く一人きりの廊下はどこか清々しくて、一番乗りもたまにはいいなと思った。いつもは睡眠を優先させてしまうから、たまにしかできないけど。
 教室の前後の扉は開け放たれている。窓を開けて風を通そうとした私の頬を、まだ少し冷えた朝の空気が撫でていった。
 視線をまっすぐ奥に向けた。そこにある窓は既に開けられて、薄いカーテンは風に揺れている。そのすぐ側の席に座っているのは言うまでもなく。
 教室の中に一人だけ、私よりも早く登校していたのは木手くんだった。私の気配にこちらを向いた木手くんは、いつもよりもずっと柔らかな視線で私を見つめる。気恥ずかしさと恋心と、あといくつかの幸福なものを煮詰めてジャムにしたみたいな空気がその場を支配していた。木手くんの顔を見ていたら、昨日のことが夢だったとはとても言えない。
 ゆっくりした足取りで、自分の席までたどり着いた。
 窓際の席の隣。木手くんの一番近く。できることならずっと席替えもクラス替えもなければいいのにと祈ってしまう、私の定位置だった。
 机の横に鞄をかけて、平静さを装って椅子に座る。多分そんな私の心境も全部まとめてバレてしまっているに違いなかったけど、もう木手くんに隠しておけるものなんて何もないんだと思うから仕方がない。
 いつもの朝と同じようで、少し違う。
 私達は彼氏で彼女で恋人で――つまりそういう関係になったわけだけれど、それ以外はきっとそんなには変わらない。
 だから私は私の好きな人――木手永四郎くんに向けて、いつものように挨拶を口にした。木手くんからの返事も、きっといつもと同じだ。
「おはよう、木手くん」
「おはようございます」





ニライカナイの海 終



→あとがき


2021/12/23 up
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