19:木手くんはもてる



 あれだけのことがあってなお、私は結局今でも木手くんのことを「木手くん」と呼んでいる。
「ねえねえ木手くん」
 顔を合わせるなり挨拶もそこそこに話しかけるのはいつものことだった。大抵いつも夜の間に話したいことが見つかって、朝が待ちきれなくて自分の席でそわそわしていた。別にスマホでメッセージでもなんでも送ればいいのかもしれないけど、直接顔を見て話せるのならそうしたい。それが許される立場に甘えていた。
「木手くん?」
 微妙な表情の木手くんが、どこか憮然としたまま席につく。
「いえ、おはようございます」
 先程の挨拶に、ワンテンポ遅れた返事だった。木手くんにしては珍しい。様子がいつもと違うのは、体調でも崩しているからだろうか。
「具合悪い? 眠たい? 保健室いく?」
「体調は問題ありません。眠くもないです。保健室も結構です」
 私の言葉にひとつずつ丁寧に返事してくれるのはいつもの木手くんだった。
「飴あるよ。チェリーと巨峰とハニーレモン」
「……もらいます」
 両手に広げたいくつかの飴の内、木手くんの指先がひとつ選んで取り上げた。口にすることなくポケットにしまい込んだのは、多分これから朝のホームルームがあるからだ。
「餌付けですか」
「されてくれるの?」
「されませんね」
「だと思った」
 飴玉一粒で木手くんが釣られてくれるなら、私はいつだってポケットをぱんぱんにしてお菓子を持ち歩くに違いない。
「田仁志くんに狙われますよ」
「説得力がすごい」
 田仁志くんの食欲は感動的だった。木手くんが闘志を燃やしている(どうして?)という、三校対抗戦の早食い大会の優勝最有力候補も彼だ。佐世保バーガーを吸い込むみたいにして食べる姿は、見ていて気持ちがいいくらいだった。
「あなたの方が餌付けされやすそうですよね」
「木手くんが色々食べさせてくれるんだもん」
 色々――まあ大抵の場合どれも緑色をしていたけど。私が食べられるように手加減してくれているのか、木手くんから与えられるものはどれもそこまでひどい苦味じゃなかった。甲斐くんや平古場くんへの刑が執行される時は手加減なしの生なんだろう、たぶん。その味を想像すると、流石にちょっと震えた。
「何を考えてるんですか?」
「人類の味覚について」
「また適当なことを言って……」
「木手くんに適当な返事なんてしないよ」
 ただちょっと、頭の中に浮かんだあれこれがあまりにも複雑になりすぎて、短縮しようとした結果が端的な表現になってしまうというだけだ。
「それ」
 不意に木手くんの瞳がぎゅっと眇められる。机に肘をついてこちらを向いていた木手くんは、指先でとんとんと机を叩いた。
「何で『木手くん』なんですか」
「だって木手くんでしょ」
 何を言いたいのかなんて、当然わかっていた。でもこんな、周りにちらほらクラスメイトが登校し始めている教室でそれについて深く話し合うことなんてできなくて、私はあえてごまかすみたいな言い方をした。当然、木手くんはお気に召さない。
「そうですか、」
「……っ」
 小さく呟かれたのは私の名前だ。呼ばれたのは多分三回めくらい。いちいち覚えているくらいだから、それだけ衝撃も強い。
「どうしました?」
 続けて今度は名字を呼ばれる。いつもみたいな名字にさん付け。丁寧な木手くんらしい呼び方は、すっかり慣れたものになっていた。そのはずだったのに。こんな状況でそんな呼び方をするのはきっとわざとに違いなくて、不機嫌そうだった木手くんの口角は今やしっかりと上がっている。
「意地悪をされている……」
「ええ、意地悪をしています」
 開き直った木手くんは手に負えない。そう思った。



「随分お疲れのようですね」
「おかげさまで」
 放課後までに私の気力体力を好きなだけ削り取った犯人が、楽しそうに私を見下ろしていた。
 今日一日、木手くんは名字で呼んだり名前で呼んだりしながら好きなだけ私を翻弄した。その度にあからさまに反応する私がよほど面白いのか、呼ばれた挙げ句に「用事はないです」と言われて、怒ればいいのか泣けばいいのかわからない。
 この辺りの人たちは名前で呼び合うことが多いからか、木手くんが私を名前で呼んでも不自然じゃないのが災いした。目立たないので木手くんがやりたい放題なのである。いつもは優しくて、いっそ甘やかしていると言っても過言ではないのに、こんな時は手加減など皆無だった。
「そんなに疲れているのなら、一人で帰ります?」
 木手くんが多分こういう言い方をするのもわざとで、私が何を思って放課後の教室に一人残っていたのかだってわかっているに違いないのだ。図書室から借りてきた文庫本だって、すごく薄いのにちっとも読み進められなかった。文章を目で追っているのに、頭に入っていかない。気がつくとページだけが進んでいて内容を覚えていないことに気づいて逆戻り。その繰り返しだ。集中できていない証拠だった。
「……ちょっと」
 机の天板が、ちょうどよく冷えていて気持ちがいい。
 頬をぺたんとつけて涼んでいたら、思わず思考がどこかへ飛んでいた。木手くんの声でようやく我に返って視線だけをそちらに向けると、眉根を寄せた木手くんの顔が目に飛び込んできた。
「え……」
「ねえ」
 慌てて身を起こすと、木手くんはどこか途方にくれたような声を出す。
「怒らないでくださいよ」
「怒ってないよ!?」
 威風堂々、泰然自若。木手くんの姿はいつも自信に満ち溢れているように私の目に映る。それが急にこんな風に弱気を見せられると、流石に慌てる。私はいつも木手くんに慌てさせられてばかりだけれど、それは置いておくとして。
「木手くんて私に怒られるの嫌?」
 前にも似たようなことがあったのを思い出す。木手くんは他者に惑わされない。そんなイメージはいつしか溶けてなくなっていた。
「別に怒りたければ怒ればいいと思います。不愉快なら言いなさいよ。ただですね……」
 そこで木手くんは言葉を切った。その先を口にするのを逡巡するかのように。言葉を探して躊躇う彼の姿は珍しくて、私は急かさずにただ次の言葉を待っている。
「怒られるのは構いませんけど……嫌われたくないんですよ」
 静かな教室でもなければ、聞き逃してしまいそうなほどの小さな声だった。
「……言わせるんじゃありませんよこんなこと!」
 辞書に載っていそうなほどの逆ギレだった。
 私はといえば言われた言葉の内容を噛み砕いて理解するにつれ、じわじわと頬に熱が集まっていく。とんでもないことを言われた。多分。いや絶対に。
 木手くんは言うだけ言ったら気が済んだのか、すっきりした顔でため息をついている。私をこんな風にしておいて? 一体どうしてくれるというのだろう。きっとどうもしてくれないんだと思うけど。
「木手くんは動じないよね」
「あなた今の俺を見ててそれ言います?」
「自分と比べるとそう思うの」
「それはそうですよ」
 木手くんも納得の私の動揺だった。
「あなたね、自分だけが翻弄されてるみたいな口ぶりですけど、俺も大概振り回されてますからね」
「そうなの?」
「そうですよ。覚えてなさいよ」
「そんな捨て台詞みたいな……」
 あんまり人に「覚えていろ」と言われたことがない。あんまりというか、多分木手くん以外には言われることがないんじゃないだろうか。そんな気がする。
「なんかね、色々慣れてる気がするんだよね」
「随分含みをもった言い方するじゃないですか」
 木手くんはどこか不満そうな顔をするけど、やっぱり木手くんは慣れている。
「私とか簡単に手玉に取られちゃうし」
「あなたが手玉に取りやすいんですよ。気をつけなさい。俺以外にも狙っている男がいないとは限らないんですからね」
「木手くん私を狙ってるの?」
「………………ええまあ、命とかを」
「命はちょっと困るかな……」
 少なくとも今はまだ木手くんと過ごす人生を謳歌していたい。木手くんは数秒無言で頭を抱えると、おもむろに起き上がって咳払いをしながら復活した。
「そうですね。慣れてますよ」
 そしていつもの澄ました顔でそんなことを言う。相変わらず立ち直りが早い。そういうところも含めて、やっぱり木手くんは動じない人だった。
「何しろ沖縄の海で鍛えられてますからね。金髪美女に声をかけて楽しい時間を過ごしてますよ。あとはですね――」
 木手くんの言葉がそこで途切れた。私はといえば「金髪美女」「楽しい時間」辺りの単語が頭をぐるぐる回って反応ができない。頭の中では木手くんとばいんばいんの金髪美女が波打ち際で楽しく戯れていた。私には見せたことなんてない笑顔で、木手くんは楽しそうに笑う。
「ちょっと」
 木手くんと金髪美女が砂浜に並んで座って夕焼けを眺めている。
「ねえ、聞いてるんですか」
 その内いい雰囲気になった木手くんと金髪美女は、そのまま熱いベーゼを――。
「……聞かないとキスしますよ」
「キ、っ!?」
「聞こえてるんじゃないですか。無視するのはやめなさい。俺の心が傷ついたらかわいそうでしょうが」
「木手くんの心も身体も傷つかないでほしいけど、やっぱり木手くん海で金髪美女とキスしてたぁ……!」
「は!?」
 木手くんの慌てたような大声も、今の私には響かない。だってもう私の頭の中では、木手くんと金髪美女が大変なことになっているのだ。
「木手くんが金髪美女と船の上で……!」
「船の上で何させられてるんですか俺。いえそうじゃなくてしてませんよそんなこと!」
「だって金髪美女が」
「何回金髪美女って言うんですか」
「木手くんのせいだよ」
 私の頭の中を木手くんと金髪美女のラブロマンスでいっぱいにした張本人なのに。
「やっぱり木手くんはうちなーの海で金髪美女とバカンスで酒池肉林なんだ」
「おかしな語彙ばかり身につけて……」
 読書習慣のせいですか? と胡乱な目を向けられたけど、別にそんな酒池肉林な本は読んでいない。
「全く。俺は気軽にホラ話もできないじゃないですか」
「ホラ話」
「真に受けないで話半分に聞きなさいよ」
「木手くんの話は全部聞いちゃうんだからそのつもりで騙して」
 木手くんは「やれやれ」なんて肩をすくめているけど、この場合やれやれと言いたいのは私なのでは? そんな当然の疑問も、木手くんには通用しない。
「半分だとどこまで信じたらいいの?」
「……」
「熱いベーゼまで?」
「そんなわけないでしょうが」
「船の上?」
「大海原には出てません」
「じゃあどこ」
 いつもはこんな風にせがんだりしない。でも私だってたまには少しくらい拗ねる。それが木手くんにも伝わっているのか、木手くんはぎゅっと眉根を寄せつつも口を開いた。
「……金髪美女と熱いベーゼと船でバカンスと酒池肉林」
「ほとんど全部じゃない……!」
「――以外が本当です」
「ほとんど全部嘘なの!?」
 悲鳴からツッコミへと軽やかに移行させられた。話半分どころの騒ぎじゃない。
「失礼な。真実だって多少は混じってますよ」
「真実成分の方が少ないのはどうかと思うけど、そうなの?」
「覚えてないんですか?」
 さっきまでの憮然とした様子から、また少し別の不機嫌さがプラスされる。覚えていない、とは。
「海で声かけたじゃないですか」
 絶句した。木手くんが何を言っているのか理解した。だって、でもそれって。
「私なの……」
「だからそう言っているでしょう?」
「言ってないよ」
 私のどこが金髪美女だというのか。美女じゃないとかいう以前にそもそも金髪じゃない。
「……金髪が好みって話?」
「またややこしい方向に持っていきますねあなた」
「だって」
「以前も言いましたけど、髪型や髪色で人を好きにはなりませんから好きにしてなさい」
「なら金髪にしてもいいってこと?」
「平古場くんとお揃いになって面白くないからやめなさいよ」
 どんな言葉よりも効果があった。面白くないのか。そうか。ふうん。
「にやにやするんじゃありません」
「平古場くんの金髪が好きで私に真似されたくないんだ! って泣かれるよりはよくない?」
「そこまでわかってなかったら、さすがの俺も怒りますよ」
 わりと気軽に怒っている気がするけれど黙っていた。私だって別に木手くんにわざと怒られたい願望は持っていないわけだし。
「それで、機嫌は治ったんですか」
「……うん。治らされちゃった」
「なんですかその言い方。いいですけど」
 木手くんが呆れたように笑う、この瞬間が好きだと思った。呆れてため息をついて少しの間があいて、私を見る目が一瞬とても優しくなるから。
「――帰りますよ」
 何だかすごく手をつなぎたい気持ちになったけど、口に出すことはなかった。



 校舎のすぐ側に海がある光景に、最近ようやく少しずつ慣れてきた気がする。最初の頃は海を見るだけで毎回ちょっとテンションが上がっていた。それが今や。それだけこの土地に頭と身体が馴染んできた証拠だと思うと少し嬉しい。その理由の大半は、今隣を歩いている木手くんなわけだけれども。
「見なさいよ」
 歩きながら木手くんが指差した海岸は、今日はとても静かだ。海岸荒行という、何か恐ろしげな響きのあれがないからだ。木手くんたちは私には想像もつかないような方法でテニスの練習をしている。
「これのどこに金髪美女がいるっていうんですか」
 さっきの話の続きだった。木手くんなりの弁明なんだと思う。
「もっと観光地のビーチに繰り出したりとか、そういう時に……?」
「……」
「ちょっと困らせてみたくなっただけです。ごめんなさい」
 無言の圧力がすごかった。主に目力。たぶん木手くんはその流し目だけで人の息の根を止められる。
「止められませんよ。俺を何だと思ってるんですか」
 木手くんのことを何だと思いたいのか、そんなの私が一番わからない。木手くんのことを表す言葉は、どれを選んでもしっくりこない。私の語彙力じゃ足りない気がする。どれだけ言葉を尽くしても、きっと自分が満足できない。
「とにかく、わかりましたね」
「木手くんと金髪美女にロマンスは生まれなかったってことだよね」
「それはそれで語弊と誤解がありそうなんですけど、今日のところはもうそれでいいです」
 木手くんの譲歩によって平和的解決がもたらされた。足取りも軽くふわふわする私を、木手くんはもの言いたげに見下ろした。
「どうしたの?」
「あなたの機嫌がいいのは結構なことなんですけどね」
「うん?」
 木手くんと帰れるし、木手くんと金髪美女の間には何もなかった(多分)し、私が不機嫌になる要素は残されていない。だから返事の声もどこか弾んでいた。現金だなと我ながら思う。
「あなたが機嫌を損ねた理由って、俺と金髪美女とのありもしないロマンスを想像したせいじゃないですか」
「ありもしない金髪美女とのエピソードを持ち出したのは木手くんだけど、まあそうだよ」
 そもそもの話を持ち出すとややこしくなるのでやめておいた。
「あなたの嫉妬ってわりとわかりやすいですよね」
 ずざ、と足元から音が響く。地面と靴底が擦れて派手な音をたてた。
「俺が表彰された時も」
「思い出さないで!」
「無理ですねぇ」
 木手くんの気分がよくなる時だって充分わかりやすい。特に私をいじめる時とか。そうはっきり「嫉妬」と口に出されると、どうあがいても自分の感情を自覚させられる。否定できない。だって私はどうしたって嫉妬していた。ここで意地を張って「別に嫉妬なんてしてない!」と言い張れる私ではなかった。そんな心にもないことを言って、万が一にも木手くんに嫌われたくないからだ。
「そんなことで嫌いやしませんけどね」
「ほんと? ヤキモチなんてやいてませんって言い張ってもいい?」
「でも妬いてますよね?」
「うん」
 結局あっさり頷く私を見て、木手くんが吹き出した。笑うなんてひどい。鮮やか過ぎる口車に、一瞬で乗せられた私も。
「いいんですよ。あなたはずっとそのままでいなさいね」
「それじゃずっと木手くんに笑われ続けるじゃない」
「俺が笑ってたら、あなた喜ぶじゃないですか」
「笑われてるのが私じゃなければもっと喜ぶよ」
 恨みがましい口調になる私を見て、木手くんは更に笑う。それを見たら「木手くんが楽しいならいいや」と思ってしまうところがもうだめだと思った。私が恥ずかしいだけだし、それで木手くんが笑ってくれてたらそれで。
「俺の隣の席が嬉しくて、俺に構われるのも嬉しくて、何があっても俺の味方で、俺のいうことをよく聞いて、俺に叱られるのが嬉しくて、俺が他の誰かと何かあるんじゃないかと嫉妬して――ねえ?」
「ねえって言われても」
 ひとつひとつは誤魔化せても、こうやって羅列されると我ながら、その。
 これだけのことがあってなお、最後の一歩を踏み出せない。決定的な一言から逃げ続ける私に、木手くんは珍しく焦れたように呟いた。
「いっそのこと告白される現場でも見せつけてやればいいんですかね」
「される側で確定なんだね」
「これでもモテるもので」
「それはわかる。すごく」
 優しくて強くてかっこよくて自分を貫いている人。自分の選んだ道を進むと決めている人。まだ十数年しか生きていないのに、既に未来を見据えてその先へ歩き出している人だ。見ていて眩しいくらい。太陽を直接見ちゃいけないって習ったことがあるけれど、私にしたら木手くんだって真夏の太陽よりも眩しかった。そんなの絶対もてる。
「わかるのに?」
「のに……?」
 圧をかけられているということだけがわかった。その先に求められているものから目をそらす。都合が悪くなった時の私の悪い癖だ。今まできっと何度も木手くんは見逃してくれていた。だけど。
「……誰かに先を越されても知りませんよ」
 ひゅ、と喉から変な音が出た。たぶん呼吸に失敗したからだ。けほけほとむせる私の目に涙が滲んだ。でも多分これは息が苦しいからじゃないんだと思う。だってそんな。でも確かに考えてみれば。
 ゆっくり夜に近づいていくこの時間が好きだった。黄昏時ってちょっと淋しく聞こえるけど、私の隣を歩くのはいつも木手くんだったから、誰ぞ彼とは問う必要がない。それに一日の間で唯一、確実に二人で過ごせるのがこの時間の帰り道だったからだ。
 思えば私と木手くんのあれこれはどれも偶然に助けられていて、私から何か積極的に動いたことなんてほとんどなかったように思う。だからこんなになるまで放っておいてしまったのだろうか。どうやって事態を進展させたらいいのか知らないままで、ここまでやってきてしまった。
 ここより先は私が選ばないと先に進めない。いつまでも立ち止まっていたら。進むのも怖いし立ち止まったままでいるのも怖い。だって、ずっとこの場所に立っていたらきっと木手くんは「誰かに先を越されてしまう」のがわかっていたから。
 木手くん本人の口から告げられた言葉の威力は流石だった。ぼんやりとした「誰か」と木手くんの未来が像を結びそうになる。
「きてくんが」
 喉の奥にひっかかったみたいな声が出る。
「木手くんが選んだ人なら、祝福しようって思うの」
「……それで?」
「相手がどんな人でも、木手くんがその手を取るのなら、どんな人でもいいと思うの」
「続きがあるんですよね?」
 全てを見透かしたみたいに木手くんは言う。驚くほど静かな瞳と声で。私の中から言葉をすくいだすように。木手くんが選ぶのなら誰でもいいけど。
「だけど、でも」
「うん」
「誰でもいいけど、全員やだ……」
 今の私はきっと、世界で一番ひどい顔でひどいことを言っている。
 もっと暗くなっていたらよかった。私の顔なんか見えなくなるくらいに。立ち尽くしたまま私たち二人の足は止まったまま、水平線の向こうへ沈んでいく夕陽の最後の明るさだけを頼りにこの場所に立っている。
「なんて顔するんですか……ああ違いますよ、そういう意味ではなくて」
 まだ私が何も言わない内から、木手くんが慌ててフォローする。すごく困った顔をしていた。木手くんにこんな顔をさせるくらい、今の私はひどいことになっている。
「嘘ですよ。嘘です。誰にも先なんて越されません。だから泣き止みなさい」
「まだ泣いてない……」
「今にも泣きそうじゃないですか」
「ギリ……」
「我慢しなさい。泣かれると困るんですよ」
 どこからか取り出したハンカチが顔に押し付けられる。タオル地のそれは水分をよく吸うだろうから助かるけど、よそのお家の洗剤の香りに混じって木手くんの匂いがして、余計に泣きたくなった。
 真夏に洗濯をして真っ白なシーツを干すことがある。そのすぐ側に立った時の洗剤の清潔な匂い。あれに包み込まれるとどうしてか泣きたくなって、でもそんなところを見られたら何を言われるかわからないから、いつも目の奥に力をこめて涙がこぼれないようにしていた。
 今日は木手くんのハンカチの助けを借りて、泣いていないことにしてもらう。だって、木手くんを困らせたくなかった。
「俺が俺の意思であなたのこと泣かせるならいいですけど、不意打ちで泣かれると焦るじゃないですか」
「木手くんも焦るなんてことあるの」
「俺を何だと思ってるんですか」
 彼が背負っているものの大きさと、それを当然のものとして受け止める姿。それを見ていると時折忘れてしまいそうになる。だけど木手くんは、生まれてからまだ十数年しか経っていない、私と同い年の男の子だった。
「……ありがと。落ち着いたかも」
「かもなんですね」
「うん。ハンカチ洗って返すから持って帰っていい?」
「別に構いませんよ。どうせ帰ったら洗うんですから」
「でも」
 逡巡する私の手から、木手くんはハンカチを取り上げた。一瞬触れた指先に身体がすくむ。こんな時に木手くんの手や指先の感触を思い出したらだめだ。今だってもう私は立っているのが精一杯なのに。
「歩けないんですか? 背負ってあげましょうか」
「背中で気絶されたくなかったらやめておいた方がいいよ」
「どういう脅し文句です?」
 今の私が木手くんとそんなに密着できるわけがない。それこそ意識を失わない限り。
「わかりましたよ。ほら」
 だというのに木手くんは、何の前触れもなく私の右手を掴む。悲鳴じみた声が私の喉から飛び出しても、気にするそぶりすら全く見せずに。
「き、木手くん、きてく、待っ」
「待ちません。ただでさえ待ちくたびれてるのに、これ以上待たされるなんて冗談じゃないですよ」
 言葉の意味を噛み砕くと藪から蛇どころか巨大ハブが飛び出してきそうで、私はおとなしく手を引かれて歩くしかない。
「ごめんね、暗くなってきちゃった」
「それは別にいいです。送りますから。一応言っておきますけど、あなたに拒否権はないです」
 悪いよとか大丈夫とか、そういった言い訳を最初から潰すのは木手くんの優しさなんだとだいぶ前に気づいた。
「ありがとう。木手くんがいてくれると暗くても安心だし、一緒に帰れる時間が長くなるの嬉しい」
「…………その素直さを少しでいいので別の場所にも振り分けてもらえませんかね」
「別の場所っていうと」
「勇気とか思い切りとか駄目でもともととか当たって砕けろとか、そういうやつですよ」
「砕けて粉々になりそうで……」
「何をどうしたらここまで来て弱気になれるんですか!?」
 木手くんは怒りつつ、それでも私の手を離そうとはしなかった。その代わりにぎゅっと力がこめられて、絶対に逃さないという強い意志を感じる。力がこもっていなくても私は自分から手を離したりはしないだろうけど、強く掴まれているのが心地よかったので黙っていた。



 すっかり暗くなってきた帰り道は、ぬるい風と波の音が遠くに聞こえるだけでとても静かだ。なんとなくお互い無言のままでただ歩く。その空気が心地よくもあったのだけれど、空を見上げた私の口は気づけば彼を呼んでいる。
「木手くんて星に詳しい?」
「何ですか急に。まあ、ある程度は」
「私はね、月の側にあるやつを見付けたら全部宵の明星ってことにしてる」
「あなたは理科が苦手なんですね」
「否定はしない」
 指さした上空はもうほとんど藍色に染まっている。その中で肉眼でもひときわ目立つ小さな光は、月以外に私が探せる数少ない星だった。
「ニーヌファブシくらい覚えておきなさいよ。見つけやすいですから」
「にぬふぁぶし」
「北極星です。動かないからあなたでも覚えやすいでしょ」
 木手くんの右手が指し示した先に、大きく光る星がある。天の北極。いつか木手くんが眩しく見上げていたのは、きっとあれだったんだと今更わかった。
「北極星が好きなの?」
「好きとか嫌いで考えたことないですね。ずっとそこにあるから落ち着くんですよ」
 そう言っていつかの夕暮れと同じような顔をする。その表情を見ていると何だかまた目の奥がぎゅっとなってきて、多分こういうのを「切ない」と呼ぶんだと思った。
「……どうしました?」
「え、あ。ごめん。ぎゅってしてた」
 気がつくと木手くんの左手を握りしめていた。これではさっきと逆である。
「別にいいですよ。握ってなさい」
 力を抜こうとしたタイミングで、こんな時ばかり優しい声を出す。――嘘だ。最近の木手くんはなんだかいつも優しい。声を聞いているとどうにかなってしまいそうで、私は慌てて頭上の月を見上げる。
「お月見の時期ってお団子だけじゃなくてけんちん汁を食べるものだと思ってたんだけど、沖縄はまだ暑かったね」
「その代わりフチャギは喜んで食べてたからよかったじゃないですか」

 少し前のお月見のことを思い出す。
 白いお月見団子しか知らない私の前に現れた、謎の食べ物フチャギ。別に謎でもなんでもなかったし、お団子に小豆をまぶしたそれは今まで見たことがない外見をしていたけど、大変おいしかったのでまた食べたい。お月見を毎月やればいいと思う。
「もちもちしてておいしい」
 とフチャギにかぶりつく私を見て、木手くんは微妙な顔をしていたっけ。
「もちもちは惹かれ合うんですかねぇ?」
 などと失礼なことを言っていたけど、もちもちのフチャギに免じて許してあげることにした。私の頬をつつく木手くんが、あまりにも真面目な顔をしていたし。木手くんはなかなか食べずに私をつついてばかりいるので、取ってあげようと思って小皿を手にした。
「食べたら?」
「いいんですか?」
 むに。と頬をつまむ木手くんの指先に力がこもって、言わんとしていることを理解した。
「そっちじゃなくて」
「かじったら柔らかそうなんですよね」
「それはどうも!」
 このまま放っておいたらいつか本当にかじられてもおかしくない。私は自分のほっぺたを守るため、木手くんに小皿を押し付けた。
 そんないつもの日常の話だ。

「知らないことがたくさんあるけど、知りたいって思うの」
「そうですか」
「木手くんがいつも丁寧に教えてくれるからだよ」
 知らない言葉とか、わからない風習とか。そういったことのひとつひとつを呆れるでもバカにするでもなく教えてくれるから、私はこの場所にいたいと思うのだ。
「別にそれくらい大した手間でもないですからね」
 あからさまに照れた様子が私の笑みを誘う。それを忌々しそうに見下ろす木手くんは、何か思いついたらしい。一瞬にして悪い顔になった。
「月見といえばですけど」
「うん」
「あそこに大変見事な月がありますよね」
「あるね。宵の明星(仮)も」
「金星は今はいいんですよ。それであなた、あの月を見てどう思いますか?」
「月? うん、きれ……」
 そこで木手くんの目論見に気づく。
 私は完全に沈黙で抵抗した。
「どうしました?」
「……」
「まさか知らない……? いつも本を読んでいるのに……?」
「読書する人間が全員『月が綺麗ですね』って言うわけじゃないからね!?」
「なんだ。知ってるんじゃないですか」
 つまらなそうに木手くんは前に向き直る。油断も隙もない。本当に。こういうあれはその、こんなうっかりぽろっとではなくてしかるべき心の準備と体調管理をして、それで段階を踏んで――。
「そろそろ諦めなさいよ」
 それはそれで正論だったので、私は何も言い返せなくなった。

「ところで本当に月が綺麗だなって思った時は、何て言えばいいんだろうね?」
「一緒にいて月が綺麗に見えるような相手なら、もうとっくに好きなんでしょうから何言ってもいいんじゃないですか?」
 めちゃくちゃな理屈だけど妙に説得力がある。いつもの木手くんだった。

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