18:どうやら恋していたらしい



 忘れたふりをしながらも、一秒だって頭から離れない。
 自分にそんな器用な真似ができるとは思っていなかったけど、やらざるを得なかったと言うか。
 だって「それ」を思い出させる存在が、週に五日すぐ隣にいるのだ。忘れようにも忘れられない。
 あれから木手くんが私を呼ぶ度に、一瞬間があくようになったのは気のせいだろうか。名字にさん付け。木手くんはいつも丁寧に人を呼ぶ。それは私相手の時もそうだった。ただ一度きりの例外を除いて。
 木手くんに名前を呼ばれた。あの一瞬をどうやっても忘れられずにいる。
 今日も木手くんはいつも通りに私を呼んだ。いつも通りじゃないのは、その内容の方だった。
「放課後に少し、時間をもらえますかね」
 改めてそんなことを言われるのは初めてだった。私の放課後の行動パターンはほとんど木手くんに把握されていたし、用事があればスマホに通知が届く。それをわざわざ改めて「時間をもらえますか」と言われるからには、もういつもと違う何かが起きるのが確定しているようなものだった。
「駄目ですか」
「駄目じゃない。待ってる。教室でいい?」
「構いません。どこでも」
 まだ昼休みなのに。今からの数時間、一体どんな気持ちで過ごせというのだろうか。わざとだとしたら木手くんはひどいし、わざとじゃなかったとしてもひどい。どちらにせよ私の頭の中はその一言によって容易くめちゃくちゃにされてしまった。
「木手くんはひどい」
 私の恨み言はほんの小声だったのに。
「あなたも大概ですよ」
 どこか拗ねたような声の木手くんから、短く返答がある。聞こえていたらしい。
 こうして私は木手くんで頭をいっぱいにされたまま、午後の授業を受けることになったのだけれども。
 ――集中なんてできるはずもなかった。



「――そろそろはっきりさせておいてもいいと思うんですがね」
 開口一番、木手くんはそんなことを言った。
 夕暮れの教室は相変わらず誰もいない。もし誰かがいたとしたらきっとどちらかが「場所を変えよう」と言っていただろうから、手間が省けて助かったとも言える。私にとっては時間稼ぎができなくなった、とも。
 私達の窓際の席。今日は少し風が強くて、カーテンがはためいていた。廊下に面した教室の前後の扉は開け放たれていたから、そこをぬるい風が通り抜けていく。
 立ち上がった木手くんは、窓に近づいて外を眺めている。黙ったまま言葉を探そうとしているようだった。私から何かを口にすることなんてできそうもなくて、私もただ口をつぐんでいる。
 風で揺れるカーテンを、木手くんが手際よくまとめて束ねた。木手くんはいつもてきぱきしている。人をまとめたり、指示したり、自分ですぐ行動に移したり。私にはそのどれもがうまくできなくて、いつも感心したようにただ見つめてしまうのだった。感心とか感動とか――多分「憧れ」も入っている。
 私の憧憬は木手くんに伝わっているのだろうか。いつも面倒をかけてばかりだけど、結局のところ木手くんはいつの間にか私のすぐ側へやってきて、何もかもを解決してくれる。
「まったく」
「困った人ですね」
「俺がいなかったらどうするつもりなんですか」
 私が助けてもらって「ありがとう」と告げる度に、返ってくる言葉は大体決まっている。どれも呆れた口調のようでいて、未だに私は見捨てられずに生きていた。感謝の気持ちならいくらでも口に出せた。口にしないと伝わらないと思ったから。そう、口にしないと。
 しばしの無言の後、木手くんは再び口を開く。
 少し厚くて小さくて、でも形の良いそれから紡ぎ出される言葉を、もしかしたら私は既に予想していたかもしれない。
「――俺と一体どうなりたいの」
 それは私達の形を変える、決定的な一言だった。

 いつからかと聞かれたら、たぶん答えは出せない。
 出会ったあの日のようでもあるし、初めて助けてもらったあの日でも、図書館からの帰りのバスだったようにも感じる。
 いつの間にか木手永四郎という男の子は私の日常に滑り込んで、そして全てを奪うふりをしてまるごと包んでしまった。手を伸ばしたらもしかしたら掴んでもらえるかもしれない、そんな自惚れと願望が混ざったあれこれで、最近の私はずっとおかしい。
「一言で言うのは難しいし、うまくまとまらないんだけど」
「いいですよ。時間はあります。全部聞きますから」
 全てを口にするのは、難しい以上に恥ずかしかった。でも木手くんが逃げ道を塞いでしまうので、私は言葉を探すしかない。もしかしたらその行為すら、私への優しさだったかもしれないけど。
「木手くんは、名前で呼ばれるのは嫌な方?」
 私が疑問を口にすると、木手くんはほんの少し目を見開いた。
「質問の答えにはなってないんだけどね」
「構いませんよ。手間がかかるのは承知済ですからね」
 ひとつひとつ解決していきましょう。木手くんはそんなことを言った。私達の人生からすれば、出会ってからの日数なんてほんのわずかだ。でも私にしてみたら人生で今まで経験したこともないようなことばかり起こったし、考えたこともなかったことで頭を悩ませている。それをほんの少しの問答ではとても形にできそうにないという私の弱音にも、木手くんは付き合ってくれると言った。その優しさにいつも救われている。
「それであなたが気になってる名前ですけど、人によりますね」
「うん」
「あなたになら特に不快ではないと思いますよ」
 私の質問の形から、木手くんは私の求めている答えを見つけ出してしまう。求めていて、言われたい言葉を。私が欲しいものをわかっていても、いつもの木手くんなら私がちゃんと口にしないと与えてくれない。これは多分木手くんが私を甘やかしている。
 それに背中を押された。
 この前のことを思い出す。夕暮れの中、海に沈む太陽と頭上にくっきりと見え始めた群青色の空と、木手くんの笑う表情と、たった一度だけ呼ばれた自分の名前。
 私の中に器があって、木手くんはそれに毎日水を注ぐようにして色んな感情を流し込んだ。その器にあの日、最後の一滴が落ちた。どれか一つが特別なんじゃなくて、それがたまたまあの日だったんだと思う。たぶんあの時をやり過ごせたとしても、こうして木手くんに注がれ続けていたら、そう遠くない未来に私は同じようになっていた。
「木手くんに名前を呼ばれてどきどきした。もっと呼ばれてみたいって思った。木手くんも同じだったらいいのにって。実際呼ぶのは無理なんだけど、呼んでみたいし呼ばれたいし、呼び合うような仲になれたらって」
「何で無理なんですか。呼びたければ呼べばいいでしょうに」
「たぶん心臓が止まって死んじゃうと思うから」
「止まりやすい心臓ですねぇ……困るんですけど」
 木手くんも困るかもしれないけど、おそらく一番困っているのは私だ。木手くんの側にいると、日に日に私はおかしくなっていく。でも決して離れたいわけじゃなくて。
「離しませんしね」
 いつかのように木手くんは言った。とんでもないことばかりを口にして、私の心臓を鍛えようとしているみたいだった。スパルタ教育ってこういうことを言うんだろうか。
「俺が何かを言う度に、死にかけられてちゃたまらないんですよ。それで、続きは?」
 促された続きは更に口にしづらい。でも絶対に逃してもらえないことはわかっていたから、私は緊張で乾燥し始めている唇を舐める。
「仲良くなりたいし、こうやって話して時間を消費することを、好ましいとまではいかなくても嫌がられない存在でありたい」
「俺たちは仲良くなってなかったんですか」
 木手くんの表情が歪む。それがまるで傷ついたみたいに見えて、慌てて首を振った。そういう意味ではなくて。じゃあどういう意味かって言われると困るんだけど、でも木手くんが今思っているようなことでは絶対になくって、だから。
「今よりもっと、っていう……そういうやつかもしれなくて……」
「断言できたら許してあげます」
「今よりもっと仲良くなりたいです」
「よくできました」
 恥ずかしくても不安でも、私がきちんと思ったことを口にできると木手くんは満足そうに頷く。多分これを見るためなら、私は何度羞恥に焼かれても構わないんだろうなと思った。
「あなたに使う時間を浪費だと感じていたら、俺はこんな風になってません」
「こんなふう?」
「自覚があるかないか知りませんけど、おかしくなるのが自分だけだと思わない方がいい」
「木手くんもおかしくなる?」
「おかげさまで、めちゃくちゃですよ」
 あなたのせいでね。責任を取れと睨む目線もうめくような声も、こんな時なのにひどく甘く響いた。
「その年で己の願望と欲望をきちんと言語化できる人間は珍しいです」
「その年でって。同い年なのに」
 おそらく褒めてくれているんだろうけど、木手くんはたまに難しいものの言い方をする。
「話は戻りますけど、それであなたは俺とどうなりたいんですか」
 木手くんの言葉が核心を突く。仲良くなりたい。そんな曖昧な表現で逃してくれる気がないことを、私に教えるようにして。
「その願望は肉体的接触を含むんですか? それとも――ただ俺と友情を育みたいだけ?」
 木手くんに対して、友情を感じている。それは間違いなくそうだ。木手くんも同じだったらいいなと思う。問題は私の方にそれだけではないあれこれが、次々と生まれてしまっていることだった。友情だけじゃない、言葉にできない色んな感情が、木手くんといると日に日に生まれて大きくなって、私はもうめちゃくちゃになってしまうのだ。でもそれは私だけが抱えていれば済む話だったのに、何故か今こうして聞き出されている。
 ――木手くんが試合相手を見据える前に、ラケットのふちを指先が撫でる。
 これからボールを打ち据える道具を、自分の身体の一部にするみたいに。その長く骨ばった指先の動きは、これから起こるであろう現象とは裏腹に、おそろしく優しく見えた。
 ラケットを撫でて、敵に視線を移す。流れるようなその視線を、コートの外から何度も見ていた。絶対に私を見ることがない瞳で試合相手のことだけを見据える姿。それを見ていると格好よくて切なくて、色んな感情が混じって泣いてしまいそうだった。
 これまでのことを思い出す。
 指先が触れて、その腕で包み込まれて、手をつないで歩いた。今思えばとんでもないことをしていたけれど、その時の自分は目の前にある現実を受け入れるだけで精一杯で、頭の中も木手くんで埋め尽くされていた。触れた経験のどれもこれもが、今になって明確に私に想像させる。
「木手くんのあの指先が、あんな風に私に触れたら。きっとその時は今度こそ心臓が止まるかもしれない」
 ずっとそう思っている。
「試してみます?」
 こちらに手のひらを向けるようにして木手くんは言った。
 私がうなずかない限り、きっと木手くんはもう二度と私に触れることがない。それをわかっている。あくまでも選択肢を私に委ねるやり方は、優しさと逃してくれない宣言のどちらも含まれている。
「もし私の心臓が止まらなかったら、その時は?」
「どういう仲になりましょうか」
 木手くんの目が優しく細められた。まだ眼鏡のレンズ越しにしか見たことがない。いつかその先の瞳を、何も通さずに見る日がくるだろうか。
「一緒に考えてくれる?」
「いいですよ」
 視線も声も、私の身体の芯を甘く震わせる。それでようやく私は唇をひらくことができた。
「……試してほしい」

 骨と筋肉と脂肪と血管と皮膚。同じものでできているはずなのに、木手くんの手は私のものとまるで違っていた。大きさも、指の長さも、爪の形も。短く整えられた爪は、几帳面な木手くんらしさがよくわかる。少し荒れた指先からは、過酷な練習の日々も。その指先がゆっくりと、まるで焦らすみたいに私へと伸ばされた。
 いつもの授業中と、距離は対して変わらない。それが向かい合って座っているだけでどうしてこんなに緊張するんだろうか。視線が絡み合うと呼吸が止まりそうで、緊張を通り越してどうにかなりそうな私を見て、木手くんは小さく笑う。
「ゆっくり息して」
「うん……」
「別に今唇を奪おうってわけじゃないんですから、大丈夫ですよ」
「くち、っ」
 吸って吐いて、ゆっくり繰り返そうとしていたのに、木手くんのせいで連続で息を吸ってむせた。けほけほ咳き込む私の背中に一瞬手のひらが触れて、すぐに離れた。触れるのを躊躇われたことに一瞬淋しさを覚えて、そんな風に思った自分にもう一度驚いた。
「そんな顔しないで。試した後でなら背中くらい撫でてあげますよ」
「その時にはもう咳してないかもしれないし」
「拗ねないでくださいよ。かわいいじゃないですか」
 前に同じことを言われた時には木手くんは慌ててなかったことにしようとしたのに、今は撤回してくれない。夕暮れの教室に二人きりという空気がそうさせたのか、木手くんの中で何かが変わったのか。後者だったらいいのにと贅沢にも思った。
「白いですね……全然違いますよ」
 木手くんは自分の手と膝の上に置かれたそれとを見比べて、小さく息を吐いた。いくら日焼け止めを塗っていたところで、沖縄の太陽は容赦なく肌を焼く。屋内にこもりがちな私と、テニスコートや海岸で日々汗を流している彼とでは違っているのも当然だった。
「――ぁ」
 口から勝手に小さく声が漏れた。少しかさついた指先が、とうとう手の甲にそっと触れる、その感触のせいだった。
「皮膚も薄い。血管が透けてるんじゃないですか?」
 ほんのり青い色味を、木手くんの指先が辿るみたいにして撫でる。くすぐったい。私が身体を竦ませるのが面白いのか、木手くんの左手はゆっくりと何度もそこを行き来させた。
 指の付け根の骨が出っ張っているところ。そこをくるくると撫でられると変な感じがする。嫌じゃない。嫌じゃないけどおかしくなりそう。
 もうやめてゆるして。そんなことは口に出せなかった。口にしたら木手くんはやめてしまうだろうと思ったし、そうしてほしくなかったということは、私はやめてほしくもないし許さないでほしいんだと思った。
「こんな爪をして、ちょっとぶつけたら剥がれそうで怖いです」
 薄くて小さくて割れやすい、あまり形が良いとは言えない爪を、一枚ずつ木手くんの指先が撫でていく。こんなことになるならもっと、やすりで形を整えたり磨いてつやを出したりすればよかった。だって、こんな風に大事なものみたいに触ってもらえる日がくるなんて思わなかったから。
 手の甲から爪の先まであますことなく撫でられて、もう充分だと思った。自分の右手は半分くらい木手くんと同化してしまったに違いなくて、彼の指先が離れていった後も、じわじわと感触が残ったまま私を苛んだ。
「何を油断してるんですか?」
 笑い混じりの声が聞こえた。その時の私は確かに油断していて、木手くんの指先を名残惜しそうに見つめていた。慌てて視線を上げた先には、唇の片側を歪めるようにして笑う木手くんの姿。よくない予感がした。木手くんがこういう風に笑う時には大体その予感が当たる。
「油断っていうのは」
「これで終わりだなんて思ってないでしょうね?」
「ちょっと思ってた」
 思ってたというか、これ以上何があるのか想像もつかないというか。
「この程度の男だと思われていたとはね。舐められたものです」
 どの程度なのかがわからないし、木手くんを侮ったりもしていない。
「まだ先があったりとかする?」
「当たり前でしょう」
「当たり前なんだ……」
 多分ここで私が音をあげたら、木手くんは許してくれるんだと思う。一通り罵るふりをしながら「仕方ないですね」とため息をついて。それが予想できるからこそ、私は後に引かなかった。
「じゃあ続き」
「いいんですか?」
「してほしいから」
「……今のは狡いですよ」
 自分の意志で、木手くんの指先を求めた。
 左利きの木手くんが向かい合って私に手をのばす時、大抵の場合私の右側に触れることになる。利き手同士が塞がるのは何だか特別な気がした。
「木手くんが左利きでよかった。ありがとう」
「利き手を感謝されたのは流石に初めてですね」
「おそろいなのも捨てがたいんだけどね。私が左利きで木手くんが右利きのパターンとか」
「それだと授業中に肘が当たって邪魔でしょうがないでしょうね」
 言われて初めて思い至る。それを考えると、今の席の配置は神様が気を利かせてくれたに違いないんだと思った。
「知らない神とやらにあなたの感謝を横取りされるのは面白くないんですけど」
 横取りという単語と、らしくもなく拗ねた様子をあらわにする木手くんの様子がおかしくて、喉の奥から笑いがこみ上げてくる。息を漏らして笑う私を見る木手くんは、当然反撃に打って出た。
「ん、ッ」
 忘れたふりをしていた熱が途端に戻ってくる。私の右手首を、木手くんの手がぐるりと掴んでいた。前にも同じようなことをされていたから平気だと思ったら、全然平気じゃなかった。
 ただ掴まれているだけで緊張してしまうのに、それどころか木手くんは親指の腹で手首の内側を撫でた。血管が浮くそこを何度も。執拗に。
「なんで、そんなとこ」
「やわらかそうで、触ったら気持ちよさそうだったので」
 言葉を失った。そんな理由を真正面からくらって、私がどう思うかわからない木手くんじゃないのに。
「ええ。あなたがどう思うか大体予想ができた上で、わざと言ってますよ」
 知っていた。これが木手永四郎という人間だった。
 確か身体の中で「首」がつく部位には太い血管が通っている。手首の内側だって例外ではなくて、そんないかにも急所と言わんばかりの場所を撫で回されているという事実と、彼がそうしている理由。その両方を浴びせかけられた私は、身動きひとつ取れない。
「そんな急所を丸出しにしている方が悪いんですよ」
「手首はしょうがなくない!?」
 悲鳴まじりの声をあげながらはっと気づく。木手くんの両手首。
「まさかそのリストバンドって」
「どう思います?」
 答えを与える気のない木手くんは、私が困った顔をするのを見てとても楽しそうに笑う。そして手も離してくれないままだった。
「今更ですけど、嫌ならいつでも言いなさい」
「本当に今更だよ」
 嫌でも離しません。少し前に言われた言葉だ。でもきっと今の木手くんは、私がそんなことを言えないと知っている。だからこれはわざとだ。木手くんはひどい。心の中で恨み言を吐く私にもきっと気づいていて、笑みを浮かべたままでいるところとかが特に。
「もしかしたら最初で最後の機会かもしれないのでね」
 別に木手くんが望むなら、いつでも好きなだけ触ればいい。それを口に出せるくらいなら、私はこんなにも長い間、己の感情に振り回されたりしなかった。
 嫌ならいつでも。最後の機会。思ってもないことを口にしながら、木手くんは指先を滑らせる。手首の筋と血管を撫でていたそれが、腕の内側に移動していく。止める手段なんて、ひとつも持っていない。
「何をどうしたらこうなるんですか」
 陽に当たらず白いままのその場所は、筋肉とかそういったものとは無縁で、柔らかな肉だけが存在していた。
「やわやわすぎてくすぐったい、んだけど」
「やわやわ?」
「力加減が」
 手の甲の時よりも、手首の時よりも、木手くんの触り方がずっと優しい。指先が離れていきそうになる度に少しだけ力がこもって、その度に私の身体は勝手にびくびく震えてしまう。恥ずかしい。なんとかしてほしかった。
「強くしたら弾けて破れそうで」
「破れないよ」
 前から思っていたけれど、木手くんは私の皮膚を脆弱に見積もりすぎていると思う。皮膚だけじゃなくて、骨とかバランス感覚とか、身体能力の全体を。
「だってあなた、脆弱で柔弱で惰弱じゃないですか」
 ぜいじゃくとじゅうじゃくとだじゃく。
 弱のバリエーションを三つも使って罵られた。どれもこれも否定できない自分が悲しい。
「木手くんと比べたらしょうがないでしょ……」
 もごもごと口ごもりながらも、一応抗議らしきものをする。多分一般人の中に放り込まれている限りは平均的だと思う。きっと。希望的観測を込めて。
「弾けて破れたら木手くんに縫ってもらうからいいよ」
「責任重大すぎません?」
 それでも木手くんは手を離そうとしなかった。たぶん責任をとってくれるということでいいんだろう。こういうことは思い込んだ者の勝ちだった。
 いいですけどね。聞こえるか聞こえないかの声量でつぶやかれたそれも、自分に都合の良いように考えることにした。
 木手くんの指先は何かが吹っ切れたようだった。くすぐったかった腕の内側から、するすると上がってくる。肘の裏側を通り越して、このままどこまで。焦る私に気づいたのか、制服の袖口の直前で止まった。
 二の腕の皮膚が怖いくらい過敏になっているのを感じる。でも木手くんは、衣服に包まれた内側にはほんの少しも触れようとしなかった。むき出しになった手と腕と、それから。
「今はまだここまで」
 木手くんによってはっきりと線を引かれる。もし私が先を望んだとしても、木手くんが頷くことはない。そう思った。今のままではこれ以上進めないし今更戻ることもできなくて、私は途方に暮れて木手くんを見上げることしかできなかった。
「なんですか、そんな顔して」
 叱咤するような口調で、表情と声ばかりがどこまでも優しい。頬に伸ばされた指先が、想像していた感触よりもずっと優しい力加減で、掠めるように一瞬だけ触れて離れた。
 あの指先が触れたら、心臓が止まると思っていた。
「どうですか?」
「……止まりそうだけど、かろうじて」
 ――あの指先が触れることなんて、あるはずないと思っていた。

 私の返事を聞き届けた木手くんが、ゆっくり口を開く。
 眼鏡の奥の瞳が細められて、夕焼けを背にしているから表情がよく見えない。影になった表情から、唇が音を紡ぐのだけをじっと見ている。
「   」
 その唇から飛び出した自身の名に、今度こそ私の心臓は――魂が、落ちてしまった気がする。
 何も言えずに固まったままの私を見て、木手くんは首をかしげた。
「今日は返事をしてくれないんですか」
 声に微笑が混じっている。人の気も知らないで。いや、知っているから木手くんはこんな風なんだと思った。なのに私が落とした魂は、ふらふらと木手くんに引き寄せられていく。見えるわけないけどそう思った。
「魂が、落ちたから」
 私の言葉に木手くんが一瞬動きを止める。
「木手くんがしばらく持ってて」
「魂ってそういう仕組みでしたっけ」
 私もわからないけど、木手くんならきっとなんとかしてくれる。私の魂だって、木手くんが持っていてくれたら喜ぶだろうし。
「いいですけどね。今マブイグミを頼まれても困りますし」
「いや?」
「いいえ。それだけで止まらなくなりそうなのでね」
 それはそれで私も困るので助かった。困る? いや困らないかもしれないけど。とにかく今はそういうことにしておきたい。
「それで、返事は?」
「え? あ、はい――なんでしょうか」
「何で敬語なんですか」
 おかしそうに敬語の木手くんが笑う。あらたまって両手をぎゅっと握って膝に乗せて、緊張しているのが丸わかりだからそのせいかもしれない。
「まあ今のは呼びたくて呼んだだけなので、用事はないんですけどね」
 くらくらする。木手くんの言葉のひとつひとつの破壊力のせいで。自分の名前なんて物心ついた時から当たり前に自分の側にあって、意識したことなんてなかったのに。相手によってこんな威力があるだなんて聞いてない。名前を呼ぶだけで相手を好きに操る能力をもっているなんて、木手くんはもしかしたら人ではないのかもしれない。
「人間ですよ」
 呆れた木手くんの半眼も今はありがたい。さっきまでの空気のままだったら、私はあともう何秒ももたなかっただろうから。
 鈍い音が教室に響いた。木手くんの座っている椅子の脚と床が擦れる音。座ったまま椅子を移動させた木手くんが、さっきよりも少し近くなる。
「え、なに、何。どうしたの」
「そんなに慌てられると、期待に応えたくなりますねぇ」
 私が何を期待していると言うのか。思う存分慌て放題の私を見て、木手くんが何かを企んでしまう。もう一度手を伸ばされたらどうしよう。それとももう一度名前を呼ばれたら。頭の中に、ありとあらゆるパターンの困らされ方がよぎっていく。でも木手くんが口にしたのはそのどれとも違っていた。
「あなたの番ですよ」
「……何が?」
 察しが悪くて申し訳ないけれど、何を求められているのか見当もつかなかった。木手くんはなぜか機嫌がよさそうで、何だかちょっとだけ嫌な予感がした。
「名前ですよ。呼びなさい」
 ――今度こそ私の思考は完全に停止した。
「あの、あの」
「構いませんよ。どんな言い訳も口実にも付き合ってあげます」
 慈悲深い口調も声も、今の私にとっては何一つ安心できるものではなかった。
「その全てを論破してあげますからね」
「木手くん、優しくない……!」
「俺を優しいといつも言ってくれるじゃないですか」
 悲鳴まじりの私の泣き言も、木手くんはするりと受け流してしまう。こうなった場合、私に勝ち目などほんの少しだってありはしなかった。
 夕暮れの教室に二人きり。気がつけば太陽はかなり傾いて、そうすれば暗闇に閉じ込められてしまう。その時まで逃げおおせたとしても、きっと木手くんは逃してなんかくれない。それだけはわかっていた。
 だから結局、この日。
 私の口から「えいしろう」の五文字が出せるまで、夕焼けの教室から出ることは許されなかったのである。



「引き止めた責任をとってあげます」
 別に気にすることはないのにと思ったけど、木手くんがこういう言い方を選ぶのはわざとだ。その奥の本音を思うと顔が勝手ににやけるし、一緒に帰りたいのは私も同じだったので素直に頷いた。
 散々辱められても、やっぱり一緒がいい。週に五日、たまに休日にも顔をあわせているのに、離れがたいと思うのはどうしてだろうか。たぶん私はもうその理由を理解していて、それでも気づかないふりをする。往生際の悪さにだけは自信があった。
 木手くんの方も一度だけもの言いたげな視線をよこすと、後はいつも通りに戻ってしまった。私が理解しているくらいだから、察しのいい木手くんなんて勿論とっくに気づいているに違いない。それでもお互い最後の一線を超えずに口をつぐんだままでいる。暮れかけた太陽と空が作り出すグラデーションの下、私達はことさらゆっくりと歩いた。
「前から思ってたんだけどね」
「何をですか?」
 まだ頭の中でまとまる前に口を開くせいで、中途半端なところで一度言葉を区切る。そんな私に木手くんは毎回律儀に返事をしてくれた。何がですか。どうしましたか。その相槌に背中を押されるようにして、私は焦らずに次の言葉を見つけることができるのだ。
「木手くんて私の名前知ってたんだね」
 冗談めかした口調で言いながら、本当はものすごく緊張していた。だというのに木手くんは心底呆れたと言わんばかりの顔でため息をつく。
「今更何を言うんですか。当たり前でしょう」
 木手くんは当たり前だと言うそれは、私にとってはかなり特別に響く。
「あなただってクラスメイトの名前くらいは覚えてるでしょうに」
「下の名前まではなかなか……」
 ただでさえ人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。夏休みの終わりと同時に一気に増えた知り合いは、私の頭を混乱させるには充分すぎる。
「同じ名字の人が多くてややこしいんだよね」
「あなた俺の名前は知ってたじゃないですか」
 忘れようにも忘れられない。あの海のことを思い出す。
 木手くんほど印象の強いひとはそうはいないから、きっとあの出会い方をしていなくても私はすぐに彼の名を覚えたんだろうけど。
 あの時、木手くんは私に「木手永四郎ですよ」と名乗った。その声や表情までも覚えている。自分からあんな大胆な真似をしたのは初めてだったから、たぶん私はずっとあの時の木手くんと海岸の光景を覚えているんだと思った。
 木手くんはもう忘れてしまったかもしれない。何で私が木手くんのフルネームを覚えているのかも、いつ覚えたのかも。それならそれで構わなかったけど、やっぱり少しだけ淋しい。かといって自分からあれを蒸し返すことなんてできそうになくて、私はやっぱり何事もなかったふりをする。
「木手くんのなら知ってるよ……特別だからね」
 曖昧にごまかしながら、どこか拗ねた声が出た。特別な感情を持った相手だ。忘れようにも忘れられない。
「なるほどね」
 納得しているんだかいないんだか、曖昧に頷く。そこから数秒間があいて、ぽつりと吐き出すみたいな声がした。
「俺と同じですね」
 ついでのように吐き出されたそれは、私の鼓動を一度だけ大きく跳ねさせた。
「……そんな顔しないでくださいよ」
「しないでって言われても、木手くんのせいだよ」
 あまりのことに、一瞬今度こそ本当に止められたのかと思った。息の根とかそういうものを。胸の真ん中辺りがどくどくと痛い。魂だってきっと島を一周して戻ってきて足元に落ちた。あのままどこかに行ってしまっていたらどうしてくれるつもりだったんだろうか。
「落ちた私の魂が木手くんに引き寄せられる習性があるからいいようなものの……っ」
「どんな習性ですか」
「拾ってくれたら二割あげるね」
「ずっと繰り返してたら、その内ほとんど俺のものになるじゃないですか」
 木手くんといる限り、私の心臓も息の根も止められ放題だし、魂は頻繁に落とすことになるんだろう。それでも彼の隣というこの場所はどうしても離れがたくて、秤にかけて私は木手くんの隣を選ぶ。
 今はまだ、その理由さえ口にできないままで。

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