17:ある帰り道



 遅くまで学校に残っていると、たまに木手くんと帰りが一緒になる。別にそれを期待して残っているわけじゃない。あくまで偶然だ。
 家だとさぼりがちな宿題は学校でやってしまえば捗ることに気づいたし、放課後の図書館に寄るのは私の習慣である。そこで時間を過ごしている内に、気がつくと下校時刻の放送がかかってしまうだけで。図書館から閉め出された後、なんとなく教室に足が向いてしまうのもあくまで「なんとなく」だ。他意はない。下校時刻は誰しも平等で、時間になればどんな厳しい部活でも終わらざるを得ない。だから木手くんと私の下校時間が被るのだって、何の不思議もないわけで――などと自分で自分に言い訳をしなくてはならない程度の「偶然」であった。
「あれ、木手くん今帰り?」
「そうですよ」
 夕暮れの教室に現れた木手くんは、テニスバッグを背負って現れる。さすが厳しい部活動を終えた後だからか、日中よりもどことなく疲れて見えた。それでも彼のトレードマーク――だと私は思っている――髪型はきっちりと整えられたままだから、さすがだと思った。
「偶然だね木手くん。私も今帰るところなんだよ」
「そうですか」
 今日はいつもと様子が違った。いつもだったら教室にいるところを発見されるなり、テニスコートを見ている私に木手くんが気づくなりすると「帰りますよ」の一言が飛んでくるのだ。私はそれに頷くだけでよかった。だけど今日の木手くんは「そうですか」の後何も言わなくて、私は途端に戸惑った。どうしよう。これ私が「帰ろう」って言うべきなんだろう、たぶん。でもどうやって? まさか木手くんみたいに「帰りますよ」とは言えない。
「――は、」
 木手くんが小さく息を吐き出すみたいにして笑う。というか笑われた。
「すみません。あなたが困っているのが面白くて」
「悪いと思ってないでしょ」
「わりとね」
「木手くんは正直だなあ……」
 その正直さが今発揮されなくてもいいのに。
「それで、今日の『偶然』のためにどれくらい待ってたんですか?」
「十五分くら……い」
 語るに落ちた。鮮やかなほど。
 机に倒れ込んだ私が恨みがましく見上げても、木手くんは一切気にしない。足取りも軽やかに私のすぐ真横までやってきて、楽しそうな顔で見下ろしてくる。さっき疲れて見えたのはもしかして幻覚だったのかもしれない。
「言いたいことがあるのなら、言ってもいいんですよ」
 こんな時ばかり言いなさい、じゃなくてそういう言い方をする。命令された方が楽なことをわかっていてそうする木手くんは、時々すごく私に厳しい。
「こんなもの厳しい内に入りませんよ。どれだけ甘やかされてるんですかあなた」
 私のことを誰より一番甘やかしている相手が言った。
 もそもそと起き上がって、木手くんを見上げた。テニスバッグを背負い直した左手を意味もなく見つめたりもして。視線をあちこちにさまよわせて言葉を選ぼうとしているのは、きっとバレている。木手くんはこういう時私を急かすことをしない。私が考えて選んだ言葉を、口にするのを待っている。いつもはありがたいその行動は、こういう場合「逃がさない」と同義ではあったけれども。
「木手くんと一緒に帰りたいです」
「……よくできました」
 観念して口に出した願望は、頷きをもって受け入れられた。
「最初から素直に言えばいいじゃないですか。得意でしょうに」
「恥ずかしかったの」
「これが? よくわからない人ですねえ」
 木手くんは不思議そうな顔をするけど、私にとっては一大事だ。今だって断られるパターンを三十八通りは考えた。
「どれだけ断るバリエーションが豊かだと思われてるんですか。わざわざ教室まで来てあなたに言わせて、それで断ったらめちゃくちゃじゃないですか」
「木手くんはわりとめちゃくちゃだし……」
「置いて帰られたいんですか?」
「一緒に帰りたいんです」
 あれだけ逡巡した願望が、今度はするりと口から飛び出した。
「まったく……俺が教室に寄らなかったらどうするつもりだったんですか?」
「あんまり考えたことなかった」
 言われてみれば私が放課後の教室でぼんやりしていると、いつも木手くんが見つけてくれる気がする。
「もしかして部活終わって着替えた後って、教室寄らなくてよかったりする?」
 鞄一式は部室のロッカーに入れてしまうだろうし、考えてみればそんな気がする。だって本当の「偶然」の時、例えば図書館に寄ってテニスコートの前で木手くんに出くわすとか、そういう時は一度教室に戻ったりしないし。
「……」
「木手くんが黙秘権を行使している……」
「違いますよ。どうやってあなたを煙に巻こうか考えてるんです。少し待ってなさいよ」
 煙に巻かれたくなかったので待たないことにした。
「もしかして迎えに来てくれてた?」
「待ってなさいと言ったでしょうが!」
 木手くんがこんな風に声を荒げる時は、それが正解だというしるしだ。あと多分だけどちょっと照れてもいる。照れくささと頬がわずかに染まるのを私から隠そうとして、木手くんはたまにこういう態度になる。
「あなたも大概たちが悪いですよ」
 うめくような低音も、なぜか今は甘く響いた。
「にやにやするんじゃありません」
「嬉しいと顔が勝手にこうなっちゃうんだよね」
 私のことを考えてくれるのが嬉しい。木手くんは気遣いの人だけど、誰にでもというわけじゃないと前に言っていた。こうやって木手くんが私に心を砕いてくれる度に、その中に入れてもらっているような気がして、それが特に嬉しかった。
「やっぱり木手くんは優しいね」
「黙りなさい」
 視線を逸らした木手くんが足早に教室の出口へと向かう。置いていかれそうな速度で。そうではないことを私はもう知ってしまっていたから、ゆっくりと立ち上がって後を追う。
「――帰りますよ」
 いつも通りの声で木手くんは言った。



 沖縄にやって来てから、だいぶ徒歩で移動することにも慣れた。引っ越す前、自転車で街中を縦横無尽に走り回っていた頃とは違った速度で、今の私は生きている。
「あなた自転車乗れたんですか」
「木手くんが私の運動能力をどのくらいに見積もってるのか、今のでよくわかった」
 これでも補助輪が外れるのはまあまあ早かったのに。でも、来年早々学校で受けることになるのであろう体力テストの結果は、あんまり見られたくないなと思う。それこそ百メートル走の結果とか。そんな私でも風になれる自転車は、私の行動半径をぐっと広くしてくれていた。
「市内の本屋さんとか古本屋さんとか、どこも遠くて。歩いて行けないから自転車で巡るしかなかったんだよね」
「バスは?」
「あんまり乗る習慣なかったなぁ」
 一人でバスに乗るようになったのも、ここに越してきてからだった。それも木手くんが丁寧に図書館までのバスの経路を教えてくれたんだっけ。あれから私は休みの日になるとたまにバスに乗って図書館に行く。木手くんとは会ったり会わなかったりだ。
「夏って暑いじゃない?」
「そうですね。当たり前ですけど」
 当たり前のことを言ったとしても律儀に頷いてくれるから、木手くんはいい人だなと思う。
「今は昼間もエアコンつけちゃうけど、昔は昼間一人でいるとあんまりつける気にならなくて、部屋の中が灼熱地獄だったんだよね」
「本土の夏もそんなに暑いんですか?」
「暑さの種類が違うけどね」
 とにかく、家の中に閉じこもっていたら蒸し焼きになりかねなかった。外で涼しい場所といったらどこかお店に入るしかなくて、でも小学生や中学生が涼めるような場所なんてそんなに選択肢があるわけじゃない。
「本屋さんとかぐるぐる順番に回って、夜になるのをいつも待ってた」
 今になって思えば、何も街の中を徘徊していなくたって図書館にでも行けばよかったのだ。自転車の行動範囲にあったわけだし、その発想にならなかったのは不思議だ。
「木手くんに教えてもらわなかったら、今も行ってなかったかも」
「居場所ができたなら良かったですね」
 居場所。木手くんはそんな言い方をした。うん。言われてみれば確かに居場所だ。あの頃の私に教えてあげたかったなと思う。
「木手くんと会ってからだよ」
「何がです?」
 沖縄という土地だけじゃなくて、私の隣を歩いている男の子に会わなかったら、多分私の人生は今とはまた別のものになっていただろうなと思う。
「休みの日に少し遠出してみたり、こうやって誰かと歩いて帰ったりとかも」
 自転車移動が多かったせいか、誰かとゆっくり歩いて帰宅する習慣がなかった。すぐ側のサトウキビ畑も、少し歩けばすぐたどり着ける海岸も、あの頃どちらもなかったけど。
「だからね、こうやって男の子と帰ったりするシチュエーションってちょっと憧れてたよね!」
「同意を求められても困りますけど。ないんですか?」
「ないんですよ……」
 友達と帰ることはあったけど、やっぱりこういうのは特別だった。自分の身に起こるとは思ってなかったし、ここから何かが発展するとも思えなかったけれども。
「いつか私も誰かとあるのかな」
「……何がです?」
 先程と同じ言葉が、ほんの少し温度を失っていたことに、この時の私は気づかない。返事までの間に一拍置かれた空白が、何を意味するのかということにもだ。
 だから私は何も考えずに思ったことをそのまま口に出した。木手くんは「助かる」と言ったこの習性が、この時は完全に逆効果だったと気づかないままで。
「ん? 誰かと手をつないで帰ったりとか、そういうやつ」
 照れくささから、ごまかすみたいな口調になった。いつか誰かと、そんな未来はうまく想像することもできない。
 木手くんの動きはいつもしなやかだ。それを日々実感していたはずなのに、この時の私は何も考えていなかったと言わざるを得ない。だから自分の右手が急に自由を奪われた時も、引っ張られるみたいにして立ち止まった時にも、ぽかんと右側の斜め上を見上げることしかできなかった。
「……すみません。あなたが初めて手を繋ぐ相手が、どこぞの馬の骨かと思うと面白くなかったので」
 手を繋ぐと言うよりも、手首を捕獲されていた。これはまたちょっと特殊な事例だと思いながら、私は自分の手と木手くんの手を見下ろしている。無言の私をどう思ったのか、木手くんは掴んでいた手首を一瞬離し、そしてすぐさま捕まえ直した。今度は普通の手の繋ぎ方で。
 どう返事をしていいのかわからない。そして動いていいのかも。私の足は縫い付けられたように両足とも地面から動こうとしなくて、繋いでいる手も同様だった。動いたり喋ったりしたら、どうにかなってしまいそうだと思った。
 完全に固まった私を見ながら、木手くんは焦れたように言葉を紡いだ。
「嫌なら離しますけど」
 言葉の意味がすぐには理解できなくて、しばらくの時間が必要だった。頭の回転が遅いのは駄目なのに。理解すると同時に私の口は勝手に動いた。
「――いやじゃない」
 まずは絶対にそれだけは言っておかなきゃいけない。そして一度口を開いたら、後はもう止まらなかった。
「嫌じゃない。繋いでたい。ドキドキして死にそう。手に汗かいてる気がする。気持ち悪いって思われたらどうしよう。でもまだ離したくないの。困る……」
 頭の中に次々と浮かぶものを、片っ端から言葉にした。これを聞いて何を思われるだろうかとか、そういったことは全く考えもせずに。
 混乱していたんだと思う。だって喋っている間もずっと私の右手は木手くんの左手と繋がれたままだったから。そんなの、おかしくならないわけがない。自分の脳内の混乱の責任を押し付けて、見上げた先の木手くんの表情は――普段あまり見られるような類のものではなかった。
「……まあ、俺も似たようなものです。それと」
 一旦そこで言葉を切って、しばらく無言の時間が流れる。木手くんが何かを言い淀むのは珍しい。少し前まではそう思っていたのだけれど、最近はよく見るようになったのは気のせいだろうか。
 急かしたりはしたくなかった。無理矢理に聞き出したりすることも。木手くんが私に話したいと思ってくれることを、話したいと思ってくれる時に聞きたい。私にできることなんて待つことくらいだ。
「さっきのは嘘です」
「どれ?」
「嫌なら離しますというやつです」
「ああ」
 確かに言われたのを思い出した。だから私は「嫌じゃないよ」と告げようとしたのだけれど、それよりも木手くんの方が一瞬早かった。
「嫌でも離しません」
 それはなかなかの殺し文句だと思う。木手くんに言われるのに限っては。
「だから嫌じゃなくなりなさいよ」
 わりと、いやかなり横暴に聞こえる言葉も、私が木手くんに言われるんだったら特に問題なかった。だって、木手くんが命令する内容は、私が叶えることができるものだったからだ。
 離しませんという割にゆるく掴まれたままの手が熱い。多分どちらも体温が上がっているのは、この夏空のせいではないことを知っている。
 だから私からも手のひらに力をこめた。されるがままの手に、明確な意思を持って。
「このまま歩きたい」



 木手くんは私のお願いをすぐに叶えてくれて、私たちはそれでようやく帰宅を再開した。そうだった。今は帰宅途中だった。木手くんといると、たまに当初の目的を忘れる。
「ふわふわする」
 何を話していいかわからなくて、そんなことを口にした。
「ふわふわ? 頭の中がですか」
「それもだけど」
 まあまあひどいことを言う木手くんは、私が不満そうな声を出しても気にした様子がない。たぶん本気で拗ねているわけじゃないのがばれていると思った。しかも半分当たっていたし。
 木手くんと手をつないで誰もいない帰り道を歩いて、頭がふわふわしない人がいるだろうか? いやいない。
「木手くんがふわふわさせるのが悪いんだよ」
「俺のせいですか」
「木手くんのせいにしたい」
「構いませんけどね」
 なので存分に木手くんのせいにした。二人の手のひらは大きさも骨の感じも皮膚すらも違って、別々の生き物なんだと私に教える。木手くんは左利きだから、今繋いでいる手でいつもラケットを握っているはずだ。グリップを強く握りしめてボールを打ち込むのと同じ手とは思えないくらい、今私の手を包み込む力は優しい。
「それで、後は何がふわふわしているんです?」
「手首」
「手首?」
 怪訝そうな声と表情で、木手くんは私の言葉を繰り返した。
「いつもリストバンドしてるでしょ?」
 木手くんが両手につけたリストバンドは、汗を吸収するためかふわふわの素材だった。こうやって手をつないでいると、それが私の手首にもあたる。まさかこのリストバンドの感触を、こんな形で知ることになるとは思わなかった。
「ああ……これですか。くすぐったいですか? 外す?」
「ううん。このままでいいの」
 少しずつでいいから、木手くんについて知りたい。私をいじめる時に楽しそうなことも、なのに私のことを一番助けてくれることも、話し方が辛辣なことも、そのくせ声はやたらと甘くて耳から溶かされそうになることも。
 沖縄のことを愛していて、テニスをする時の表情は少し怖い。でもずっと見ていたいと思う。木手くんが許してくれる限り。そういうひとつひとつを知っていく度に、離れたくないなと思う。この土地から、じゃなくて木手くんの側から。多分私は明日南極に引っ越せと言われても、木手くんと一緒ならついていってしまうんだと思った。
「何を考えてるんですか?」
「南極の気候についてとか」
「心ここにあらずって、今のあなたの為にある言葉ですね」
 呆れた声が嬉しいなんて、きっといよいよ私はどうかしてしまった。きっと、いつか呆れを通り越しても見捨てられないとわかっているからだ。
「私の心なんてここにしかないのに」
「……ここ、というのは」
「木手くんの隣」
 南極に行こうが北極に行こうが、木手くんのことを考えている。
 繋がれた手に力がこもって、見上げると苦々しい表情が目に入る。
「ほんといい加減にしなさいよあなた」
 ぎゅう、と強く握りしめられた。痛いよと笑って言ったけれど、本当はちっとも痛くない。木手くんにもそれがわかっているのか、繋がった手がほどかれることはなかったのである。

「沖縄っていつまで夏なのかな」
 夕暮れの夏空を見上げながら、不意に口をついて出た。
「あまり考えたことはないですね」
 沖縄は衣替えも11月だって聞いたことがある。比嘉中の冬服は麻地で、冬服でも薄そうだった。寒くないのかなと思ったけど、多分あれでも充分なほど、この土地の冬は暖かいのだろう。もうすぐ私も初めて袖を通すことになる。セーラー服が楽しみだった。
「沖縄の秋の味覚って何があるんだろ」
「読書の秋じゃないんですね」
「本は別に一年中読めるし」
「それもそうですけど」
 夕方になっても空気は温くて、時折ふきつける風が髪を揺らす。前髪が目に入りそうになる度に咄嗟に右手で払おうとして、繋がれていることを思い出した。
 左手で不器用に前髪を避ける私を、木手くんは多分気づいている。
「離さないで」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
「何か気を遣ってくれそうな気配がしたんだもん」
「どういう気配なんですかそれ」
 離しませんよと言われてようやく安堵する。ああ、でも。
「木手くんも利き手が塞がってるんだよね」
「そうですね。左利きなので」
「今日のところは不便を楽しんでほしい」
「そんなこと初めて頼まれましたよ」
 構いませんけどね、と小さく呟く声を、私の耳はきちんと聞き取る。木手くんはたまに理不尽な命令を私に下すけど、私のよくわからないお願いを、いつもこうやって叶えてくれるのだ。
「木手くんて優しいよね」
「それも言われ慣れてません」
 みんな言わないだけでちゃんと思ってるよ。
 それを口にするのは私の役目じゃない気がしたから、黙って前を向いた。

 沖縄の太陽は海の向こうへ沈む。
 私にとって太陽は、山の向こうへ消えていくものだった。群青と紫と橙のグラデーションはいつ見ても綺麗だ。真昼の海の青さとは対象的なこの色は、私をいつもたまらない気持ちにさせた。
 淋しいのとは少し違う。心細いとも違う。だって今日は木手くんが隣を歩いているし、今この世で一番安全なのはこの場所だ。
 なんとなく会話が途切れた。私にとってその無言は居心地の悪いものではなくて、それは木手くんも同じだったのだろう。二人して黙ったまま、ただ手をつないで歩いた。
 水平線に太陽が沈むのがよく見える場所がある。そこに差し掛かると、示し合わせたわけじゃないのに自然に二人揃って足を止めた。もうすぐ私と木手くんの分かれ道だったから、それを惜しんだのが私だけじゃないといいなと思った。
 木手くんは空を見上げて、私はそれをただ見ていた。
 群青に星が瞬いている。遠くの星を見つめる木手くんは、不意に表情を緩めた。目元の力が抜けると、木手くんは驚くほど優しい顔になる。
 日頃の皮肉さも抜けて、ただ眩しそうに、頭上の空を見上げて木手くんは笑う。いつもは引き結ばれた、少し厚い唇。その両端をわずかに上げて、その目に何を映しているのか私にはわからない。
 それを見ていたら、本当にもうどうしようもなくなってしまった。
 目をそらして俯いた。今何を見ても、私はたまらない気持ちになる。右手の熱が今更のように恥ずかしい。恥ずかしい? たぶん、それともまた少し違う。でも、今これ以上繋がったままでいたら、私は今度こそおかしくなってしまうと思った。
 そっと右手から力を抜いた。そうすると握られている力も抜けたから、そのまま抗わずに手を離す。ずっと繋がったままかもしれない。そんなのは勘違いだったことを思い知った。幻想に浸っていられたら、一生そのままでもよかったけど。
 自由になった右手を持て余したままで、一歩、二歩と足を踏み出した。もしかしたらこのまま離れていなくなっても、気づかれないんじゃないかと思って。三歩目を踏み出そうとして、それで。
「   」
 ――短い音がその場に響いた。
 ざり、と靴底が地面と擦れる音がした。私が足を止める音だった。歩き出そうとしていた私の足は、今は固まったように微動だにしない。
 このまま動かずにいたら、日が暮れてしまうかと思った。夜の暗闇に包まれたら、なかったことになるかもしれない。でもそれはやっぱり嫌だったから、私はゆっくり振り返る。多分これまでの人生で貯めてきた、一生分の勇気を振り絞った気がした。
 振り向いた先にいる木手くんが、口元を手で押さえている。思わず飛び出したと言わんばかりに、どこか呆然とした表情で。
 その口から飛び出したのは私の名前だ。
 木手くんが呼ぶ時にだけ特別になる名字じゃなくて、下の名前。ありふれた、短いいくつかの音で構成されたそれが、木手くんの口から紡がれると何でこんなに特別に響くんだろう。他の誰に呼ばれたって、こんな気持ちになったことなんてなかったのに。
 理由はわからないけど、勝手に涙腺が緩みそうになって、慌てて笑顔をつくった。そうしないと泣いてしまうそうだと思ったから。
「――なあに?」
 この声が、できるだけ優しく響けばいい。

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