16:魂の在処



 水筒の中に冷たいお茶を入れていても、ジュースが飲みたい時がある。それが学生というものだ。よくわからないけど多分。
「また適当なことを言って」
 眉をしかめるのは、トレイにいつものゴーヤづくしDXと食堂のお茶を乗せた木手くんである。今日は比嘉ソバは無しだった。その代わりに茶碗――というかどんぶりにご飯がてんこ盛りになっている。三校対抗戦というのは彼にとってよほど重要なものらしい。早食い競争に何故そこまで……? と疑問をもたないでもない。でも誰しもその人なりの譲れない何かがあるものだし、あえて突っ込むでもなく私は静観することに決めた。テニスでも何でも、木手くんが頑張るものは応援したかったからだ。

 本日は食堂で売られているパンと自販機で売られていたジュースを選択した私は、空いている席を適当に探す。座席には余裕があるので窓際を選んだ。空も海も、比嘉中の窓の外は大体景色がいい。
「空いてますよね。座りますよ」
 私の他に誰も座っていないテーブルを顎で示して、木手くんは向かいに座る。私が「どうぞ」と言うのと同時だった。
「俺が口出す権利はないんですけど、栄養バランスを考えなさいよ」
「炭水化物と糖分と……糖分」
 チョココロネと袋にいくつか入った小さなサーターアンダギーとカップのジュース。氷が浮いているからもたもたしてると薄くなるけど、私はこの炭酸の抜けかかった飲み物が好きなのだ。
「脂肪もです。たんぱく質とビタミンはどこに行ったんですか」
「今日はやりたい放題のご飯が食べたい気分だったの」
「自暴自棄になるのはやめなさいよ」
 いつもは母の作ってくれるご飯や自分でどうにかした料理らしきものを食べている。食堂の定食とかも。だけどちゃんとした食事を続けていると、たまに何もかも忘れてぱーっとやりたくなるのだった。それがたまたま今日のお昼で、木手くんに見つかったこのタイミングだったというだけで。
「んー、じゃあ」
 椅子の脚が床に擦れて鈍い音をたてる。立ち上がりかける私を見て、木手くんは軽く目を見開いた。
「どこへ」
「あっち。サラダでも買ってこようかなって」
「あ、ああ。そうですか。そうですね、それがいいです」
「先食べててね」
 それだけ言い残して私は売り場へ引き返す。適当なミニサラダを取って席へ戻ると、木手くんは律儀にも手を付けずに待っていた。
「わ、食べててよかったのに。ごめんね冷めちゃう。早く食べよ」
「……そうですね。いただきます」
「いただきます」
 両手を合わせて箸を持つだけのことでも木手くんは様になる。姿勢がいいからだろうか。見習いたくて、私も意識して姿勢を正した。
 ひと口ふた口と口に運ぶ、木手くんの食べ方は綺麗だ。小さめな唇に規則正しく運ばれていく食べ物はきっと幸せだと思う。私みたいに好き嫌いもないんだろうし。
 しばし無言で咀嚼していた木手くんが「あの」と重々しく口を開いた。思いつめたような顔をしている。どうして。定食に何か問題でもあったのだろうか。
「前も聞きましたけど、俺がこうやって口を出すのは不快ですか」
 予想もしない質問だったので一瞬思考が止まる。不快? 不快とは一体。
「何が……?」
 心当たりがなさすぎてそんな答えしか返せない。木手くんの前では頭の回転が良い女を装いたいのに、いつもうまくいかなかった。
「ですから、さっきみたいなやつですよ。あなたの食事内容とか、栄養バランスがどうのとか」
「ああ」
 ようやく理解ができて頷いた。
「不快じゃないよ」
「本当でしょうね」
「木手くんが……あー、うん。なんでもない。うん、ちっとも不快じゃない」
 変なことを言いそうになって、慌ててごまかした。それでごまかせたとも思わないけど。だって木手くんの眼鏡の奥の目が、すぅっと細くなったから。経験上、そうなると全てが終わりだった。
「歯切れが悪いじゃないですか」
「たまにはそういうこともあるの」
「俺が見逃すと思います?」
 思わないです。
 木手くんはそれ以上なにも言わないけれど、その目が「早く白状して楽になりなさいね」と告げていた。こんなことで以心伝心になりたくなかった。
「木手くんがね……」
 ぼそぼそと口ごもりながら言葉を紡ぎ出す私を、木手くんは辛抱強く待っている。食堂のざわめきに紛れてしまえばいいのに、彼の耳はいつも私の言葉を正しく受け止めた。
「木手くんが私に何か言う時って、私のこと考えて言ってくれてるんだよね。それがわかるからちょっと嬉しいの。怒られてるのに何言ってるんだって話なんだけど」
 栄養バランスを取りなさい、とか。お母さんみたいだと思うけど、私の母はそういうことを言うタイプではないから新鮮だった。多分親や先生に同じように言われたら、こんな風に素直に聞いたりできないだろうから、木手くんが特別なんだと思う。
「あとこれも怒るかもしれないけど、木手くんに構われると嬉しいって……いうか……」
 やっぱりもう少しでいいから取り繕ってから話せばよかった。頭の中に浮かんだのをそのまま口にしたら、こんなに恥ずかしいことになると思わなくて。
 流石に呆れられたんじゃないかとちらりと目をやると、木手くんは口にゴーヤの切れ端を運ぼうとした状態のままで静止している。
「……俺に構われるのが嬉しいんですか」
「そうはっきり言われると恥ずかしい……」
「はっきり言ったのはあなたじゃないですか」
 その通りだったので頷いた。ぐうの音も出ない。
 俯く私に、木手くんが細く息を吐く音が聞こえた。
「ならいいんです」
 そう言って食事を再開する木手くんは、どこか安堵しているように見えた。その顔を見ていたら、――あ。と瞬間的に理解する。
「ねえ木手くん」
「なんですか」
 いつも通りの澄ました顔で食事を続ける木手くんに、私は浮かんだ疑問をそのままぶつけた。
「さっきの木手くん、私が怒ったかと思って心配した?」
「っぐ、ん」
 飲み込むタイミングに被ってしまったようで、あまり聞いたことのない声がした。慌てて私が差し出したお茶をひと口飲んで、木手くんはじろりと私を睨めつける。きっと出会ったばかりの私であれば震え上がるようなその表情も、今の私はほんの少しだけその頬が染まっていることに気づいてしまう。
 席を立とうとした時の違和感を思い出す。多分そういうことでいいんだろう。
「私怒らないよ」
「まだ何も言ってません」
「万が一怒ったとしたって、勝手にどこかに行ったりしないし」
「だから何も言っていないと言ってるでしょうが」
「ね、元気だして。これあげるから」
「別にへこんでませんけど!?」
 袋に入っていたサーターアンダギーをひとつ取り出して、木手くんのお皿に乗せる。デザートにどうぞ。
 さっきまで私のものだった、今は木手くんのサーターアンダギーを木手くんはじっと見つめている。しばし無言の時間が流れた。
「サーターアンダギーに罪はないですしね」
 それが照れ隠しだということがわかったので、私の口角はわかりやすく上がる。そう、いつだっておいしいものに罪はないのだ。
 お互いにまあまあ羞恥責めの痛手を負ったことは忘れて、私達の平和な昼食は再開した。
「ねえ見て、チキンサラダ」
「チキンサラダですね」
 茹でたささみをむしって生野菜に盛り付けた、ごく普通のサラダである。さっき追加で買ってきた。
「たんぱく質とビタミンだよ」
 ほめて、とねだる私に、木手くんは半眼になる。
「そんなことでいちいち褒めてたら、いくら褒めてもキリがないでしょうが」
「いちいち怒られたいし、いちいち褒められたいの」
「あなた何でもいいんですか?」
「木手くんになら、わりと」
「本心だからたちが悪いんですよね、あなたの場合」
 苦虫を噛み潰したような顔をしているけれど、彼が噛み潰しているのはニガウリである。ため息まじりに小鉢の中身にフォークを突き刺して、私のサラダへとトッピングする。
「うあ」
「なんですかその声。ご褒美ですよ。受け取りなさい」
 ゴーヤづくしDXについてくる小鉢の中身はもちろんゴーヤだった。薄切りのおひたしを選んでくれたのはせめてもの慈悲だろうか。私のチキンサラダに添えられた緑の歯車は、彩りを加えるのに一役買っている。
「少しずつ克服するんでしょう?」
 その約束を持ち出されると弱い。だって木手くんとした約束は、どんな小さなものでも大事に持っておきたいからだった。それが好き嫌いの多い私にはそこそこのダメージだったとしても。
 ゴーヤソフトは食べられたんだから大丈夫。あとこれは木手くんが私にくれた「ご褒美」なわけだし。
 味覚に対して精神面で立ち向かおうとするのが果たして得策かはわからなかったけれど、それでも今日の私はゴーヤを口にして飲み込むことに成功した。
 ダイレクトな苦味すら、木手くんに与えられたものだと思えばなんてことない。
「……でもやっぱり、苦い」
「鍛えてあげますよ。いくらでもね」
 口の中は苦味に支配されているのに、耳に流し込まれる声ばかりが甘かった。



 放課後、私はまた別の自販機の前で佇んでいた。
 普段は一日にジュースを二杯飲むことはない。でも今日は昼ごはんの時に苦さを味わったわけだし、甘味で上書きしてもいいんじゃないかなと思ってしまったのだ。
 こちらの自販機には紙パック飲料が並んでいる。小さい四角で、ストローがくっついているやつ。夕暮れのこの時間には人の気配もほとんどなくて、どれにしようか好きなだけ悩むことができた。
 定番のミルクティーかな。でもやっぱりいちごミルクもいい。シークヮーサーのジュースもしっかり並んでいる辺り、さすが沖縄比嘉中だった。
 酸味プラス甘みより、やっぱり今は甘さにだけ支配されていたい。決めた。今日の気分はミルクティーだ。
 お財布から小銭を取り出そうとして、一瞬油断したんだと思う。いや私はわりと普段からぼんやりして暮らしている方だけど、この時はいつも以上に警戒というものを根底から忘れていた。だから。
「何をしてるんです?」
「――――――――!」
 耳元で背後から囁かれた低い声に、声にならない悲鳴をあげたのも無理はなかった。
「ちょっと、大丈夫ですか」
 いつになく慌てた声が聞こえる。その正体は言うまでもなくて、振り向いて誰だかわかるのと同時に腰がくだけた私を、木手くんの腕が受け止めた。
「き、……っ」
「ええ、俺ですよ」
 言葉にならない私の声も、木手くんは正しく理解してくれる。
「すみません。そこまで驚かれるのは予想外でした」
「心臓が止まるかと、思っ……」
「心臓が止まったら死ぬじゃないですか。頑張って動かしなさい」
「それくらい驚いたの」
「ああ、そういうことですか」
 私を正面から支えたままの木手くんは、納得したように頷いた。
「魂を落としてしまったんですね」
 たましい。小さく口にした言葉の意味を理解するよりも、木手くんが動く方が早かった。
「一人で立てますか?」
 私が頷くのを確認して、木手くんの手が離れていく。そのまま両手が何かをすくい上げるように動いて、私の胸元にそれを戻すような仕草で手のひらを向けた。触れるか触れないかの微妙な距離は熱だけを私に伝えて、止まりかけた心臓は今度はたちまち早鐘を打つ。
「きてく……」
 最後まで言う前に、暖かなものが私を包んだ。
 腕が。背中に。木手くんの。
 頭に浮かぶ単語のひとつひとつを理解するにつれ、私の心臓は今度こそおかしくなった。背の高い木手くんは身をかがめるようにして私に覆いかぶさって、その両腕で包み込んでいる。
 何が起きているのか、理解することを脳が拒んだ。だって、理解してしまえばとても正気ではいられないと思ったからだった。木手くんは私を両腕とその身体で包んだままで、何も言わずにただじっとしている。後頭部と背中。そのどちらにも木手くんの手のひらを感じた。身動きひとつとれなくて、それどころか呼吸だってうまくできない。自分の吐息が木手くんにかかってしまうのも、鼓動の音が聞こえてしまうのも恥ずかしくて。
 ――とん。とん。
 宥めるように木手くんの手のひらが私の背中を軽く叩く。撫でるみたいな力加減で。頭の上の方で、身動ぎする気配を感じた。すう、と小さく木手くんが息を吸い込んで、私の耳元に囁いた。
「――まぶやぁ、まぶやぁ、うーてぃーくーよ」
 おまじない。呪文。最初に思いついたのはそんな言葉たちで、私が何も言えずにいる間も木手くんは同じ文字列をもう一度繰り返した。私を落ち着かせるように、あの低くて甘くて静かな声で。
「……おまじない?」
 声を出したら離れていってしまいそうだったから、おそるおそるみたいな声になった。予想に反して木手くんの腕は私の後頭部と背中に回されたままだったし、木手くんの唇は私の右耳のすぐそばにあった。それはそれでまずい。すごくまずい。でも自分から「離してほしい」なんて言えるはずがなかった。だって木手くんに嘘はつけなかったからだ。
「マブイグミです」
「まぶいぐみ」
 木手くんの教えてくれる知らない言葉を、いつものように繰り返す。多分私は木手くんと出会ってから、知らない言葉をいくつも覚えたと思う。彼と会わなかったら、多分ずっと知らないままで過ごしていたはずの言葉たち。知ることができてよかったと今は思う。
「さっき、驚いて心臓が止まると言っていましたね」
「うん」
 正直、今の方がよほど止まりそうだったけど、私の心臓はいつもよりもずっと早く動いていた。心臓の鼓動の数は一生分が決められているという話を聞いたことがある。なら、私はこのまま木手くんと過ごしていたら早死にしてしまうんじゃないだろうか。でも木手くんと出会わずに長生きするよりも、短命でいいから側にいたかった。
「何を考えてるんです?」
「明日死んでもいいからこのままでいたいと思ってた」
「……それは、その……随分情熱的な思考回路をお持ちのようですね」
 木手くんの言葉が耳元で囁かれて、自分が思っていたことをそのまま口に出してしまったことに気づく。その内容はなかなかにとんでもない代物だったし、木手くんの反応をこれ以上知るのが怖い。なかったことにするかここから逃げるか、どちらかしかないと思った。なのに木手くんはそのどちらも許してくれない。
「聞かなかったことに」
「すると思いますか?」
 思わないけども。
 ならばと身じろぎした身体は、驚くべき力強さで腕の中に閉じ込められたままだ。
「こら、どこへ行くつもりですか」
「顔を見られずに済むところへ……」
「このままでいた方が顔が見えませんよ」
 そうだけどそうじゃない。
 もぞもぞとうごめく度に腕の力が強くなっていくような気がして、諦めた私はとうとう脱力して木手くんのされるがままになった。それに気づいて納得したのか、木手くんは腕の力をほんの少しだけ緩めてくれた。
「そんなことを言うから、驚いて俺の方がマブイを落としてしまうかと思いましたよ」
 木手くんがまた私の知らない単語を口にした。マブイ、と小さく繰り返すと、耳元で「魂ですよ」と囁かれる。木手くんにそうされると、身体の芯が震えるみたいにぞくぞくする。つまりさっきからずっとそうだという話なのだけれども。
「うちなーでは、驚いた時に魂を落としてしまうことがあるんですよ」
 心臓が止まる、ではなくて魂を落とす。
 落としてしまった魂を元に戻してあげるのが、さっきの「マブイグミ」なのだと木手くんは言った。確かに、さっき木手くんが私の胸の前で何かをすくい上げるような仕草をした。あれが私の落とした魂だったんだろう。
「木手くんはいつも私を助けてくれるね」
「そもそも脅かしたのが俺ですけどね」
「でも、ありがとう」
 木手くんの白いシャツ。いつか前にも視界がこんな風になったことがある。あの時も木手くんが助けてくれたんだった。
「……驚かせてすみませんでした」
 その声がいつになくしゅんと落ち込んで聞こえたものだから、途端に私は慌てる。
「木手くんのせいじゃないし」
「どこからどう見ても俺のせいでしたけど」
「うー……じゃあ、木手くんなら驚かせてもいいよ」
「フォローしてくれるのはありがたいんですけど、めちゃくちゃなこと言いますねあなた」
「木手くんの元気がなくなるくらいなら、多少のむちゃくちゃはすることにしたの」
「なんですかその決意は」
 誰もいない放課後の廊下でよかったと思う。傍から見たら何をしているんだという話だった。それに、今も私は木手くんに抱きすくめられたままなのだ。
「私の落とした魂は、木手くんが戻してくれるでしょ?」
「……他に任せるのは気に食わないので、そうですね」
 素直に「うん」とは言ってくれない木手くんの、それでも最大限の肯定である。
 でもこんな戻され方をしたら、せっかく戻してもらった魂も、すぐにまた落ちてしまうんじゃないだろうか。
「そうしたらまた戻してあげますよ。あなたの落とした魂は、俺が何度でも戻してあげます」
 きりがないと思った。でも木手くんが「気に食わない」と言ったからじゃないけど、私も他の人にこんな風にされるのは無理だった。だったら、もう。
「最初から木手くんが持っててくれた方が、危なくないかもしれないね」
「いいんですか。俺みたいなのに魂を預けて。何に使われるかわかりませんよ」
「悪いことに使われるのなら木手くんがいいの」
「悪いことに使わないと言わないところが、俺をよく理解していますね」
 木手くんはたまにこうやってわざと偽悪的なものの言い方をするけれど、実際の私は優しくされて、助けてもらって、甘い顔をされてばかりだ。だから私の魂も、木手くんの側にいたがると思った。
「ね、木手くんの魂は落ちた?」
 先程の「俺の方がマブイを落としてしまうかと思った」という言葉を思いだした。
「どうでしょうね? ……試してみますか」
「いいよ」
 棒立ちで抱きしめられたままだった両腕を、木手くんの背中に回す。白いシャツの背中は、彼の体温で手のひらに熱を伝える。さらりとした生地の感触と、両腕を伸ばした先にある固い骨の感触。翼の名残みたいな肩甲骨を撫で下ろすようにしてから、背中の真ん中辺りをぽんぽんと優しく叩いた。
 誰にもこんなことをしたことはないから、勝手がわからない。だけどせめて優しく響くように。
「まぶやーまぶやー?」
「うーてぃーくーよ、です」
「うーてぃーくーよ」
 木手くんの教えてくれる言葉を繰り返す。身長差があるから、木手くんがかがんでくれない限り後頭部にまで手が届かない。つま先立ちになってしがみつくように手をのばす私に、木手くんが小さく笑う気配がした。恥ずかしい。恥ずかしいというか、くすぐったいというか。つまりそういうやつ。
 しばらく繰り返していたけれど、これっていつまでこうしていればいいんだろうか。木手くんはおまじないを唱えてからもしばらくの間はとんとんしてくれていたので、私も同じようにしていたけれど、具体的な時間がわからない。
「――戻ってきた?」
「そうですね、おそらくは」
 木手くんの声はずっと落ち着いている。私ばかりが焦って困惑しているようでいたたまれなかったのだけれど、こうして木手くんの背中に手を回していると何故か落ち着く。心音が重なるみたいな気がした。
「じゃあ、」
 離れなくちゃ、と思った。
 おまじないの理由がなかったら、木手くんにこうしていていい理由がない。木手くんにこうしていてもらう理由も。ふたつの口実を同時に失った私は木手くんの背中から腕をほどいた。木手くんもきっと同じように離れていくと思った。だけど。
 最後に一度、きつく抱きしめられた気がする。
「――木手くん?」
「帰りましょうか」
 最後に強く全身に感じた腕の力を、まるでなかったことにでもするように。木手くんは至っていつも通りの表情と口調で言った。



 この時感じた熱を、忘れた方がいいのかと思っていた。
 考えてみれば日常生活で驚くこと――それも魂を落とすくらい――なんてそうそう起こりそうもなかったし、あれを人前でやるのもやられるのもまずい気がした。理由はうまく形にできなかったけど、なんとなく。
 あの時はきっと、誰もいない放課後の校舎という場所がそうさせた。
 私はそう結論づけた――のだけれども。
「甲斐くんと平古場くんがいる」
「俺が呼んだんです」
「呼ばれたさあ」
 放課後、お手洗いから戻ってきたら教室に甲斐くんと平古場くんがいた。呼んだのが木手くんということは、テニス部の用事なんだろうなと思ったら予想通りだった。
「ぬーんちわんが裕次郎を……」
「甲斐くんが逃げるせいですよ。恨むなら甲斐くんを恨みなさいね」
「わんのせいじゃないさー!」
「前科があるんですよ。数え切れない程ね」
 これだけの会話で大体の事情と力関係が理解できてしまう。甲斐くんを木手くんのところまで連れてくるため、巻き込まれた平古場くんはどこまでも不満そうだった。
「今日こそ書類の書き方くらい覚えてもらいますよ。ついでに平古場くんにもね」
 木手くんの眼鏡が光ったように見えたのは、多分私だけじゃないんだろうな。甲斐くんと平古場くんも小さく悲鳴じみた声をあげている。
「あ、机使うよね。私の使ってていいよ」
「ありがとうございます」
「裏切り者ー!」
「やさやさー!」
 一人分の感謝と、二人分の罵倒をいただいた。しかしながら私の判断基準の全ては木手くんになってしまっていたので、プラスマイナスで木手くんが勝つ。何しろ木手くんは最強なのだ。
 すっ……と両手を合わせて二人の健闘を祈る。
 あんまり邪魔していても悪いし、私はさっさと帰ろう。図書館に寄って本でも借りて――と放課後の予定をたてている時だった。
 低く響き渡るような音が聞こえる。そう思った瞬間、立っている床が軽く揺れた。固定されていない机や椅子の脚ががたがたと音を立てて、足元がふらつく。
 地震かな。最近あまりなかったけど、震度二か三くらいだろうか。
 幸い、揺れ自体はすぐに治まった。久しぶりだからびっくりしたね――そんなことを言おうと私が口を開くよりも先に、大きな声がその場の空間を切り裂いた。
「逃げますよ!」
 今まで聞いたことがないほどの叫び声の持ち主は、私が間違えるはずもない。立ち上がった木手くんが、私を見据えていた。
「え、逃げ、何、え」
「早く!」
 強く手首を掴まれた。木手くんは焦っているのか顔は青ざめて、汗が滲んでいる。完全にパニックを起こしていた。
 揺れ自体は大したことがなさそうだし、本震も今のところない。避難するにしても今の木手くんの勢いで外に飛び出したらその方が危ないと思った。
「木手くん、大丈夫だから落ち着い、」
「落ち着いてる場合じゃないでしょう! 地面が揺れたんですよ!」
 いつかの避難訓練の時に、冷静に生徒たちを導いた姿はどこにもなかった。私の力では木手くんをどうすることもできない。宥める方法も。恐怖でパニックを起こしている人の落ちつかせ方なんて習ったことがない。今までの義務教育では一度も。
 私の方までパニックを起こしそうになって、ひとつだけ。たった一つだけど思いついたことがある。今の私が知っているのは、これだけ。
「――木手くん!」
 掴まれた手首もそのままに、両腕を木手くんへと伸ばした。私の唐突な動きに驚いたのか、手首が解放される。そのまま背中に腕を回して、全身でぶつかるみたいになったけどとにかく抱き寄せて、首の後ろを抱えて私の首元に木手くんの頭を抱え込んだ。
「木手くん、まぶやーまぶやー」
 そうやって、彼が落とした魂を返してあげる。
「うーてぃーくーよ……」
 覚えていてよかった。木手くんがあの時に私にもやらせてくれたおかげだった。こんなに早く役に立つとは思わなかったけど。
「………………」
 さっきまで声を荒げていた木手くんがおとなしくなった。私に抱え込まれたまま、肩の辺りに頭をうずめている。木手くんの呼吸が私の首の辺りをくすぐった。その感触に思わず軽く身をすくませたけれど、今木手くんを離すわけにはいかない。
 少しずつ彼の呼吸が静かなものになっていく。魂を戻すだけじゃなくて、落ち着かせるために私は背中を撫で続けていた。
「揺れおさまったよ。大丈夫」
 普段は大きくて広い背中が、こうして私に撫でられていると驚くほど小さく見えた。この背中にどれほどのものを背負っているのか、私にはまだわからない。それでもこんな時くらいは彼の背中を支える者でありたかった。自惚れだけど、そう思う。
「落ち着いたら今日はもう帰ろ?」
 部活の用事があることはわかっていたけれど、今の木手くんを見ていたら残してはおけなかった。
「地面が揺れるんですよ」
「うん」
「ありえないでしょ」
「わかる。私も怖いよ、地震」
「随分落ち着いてるじゃないですか」
「たまたまだよ」
「なんですかそれ」
 顔をうずめたままで、木手くんはすねたような口ぶりで地震への不満を撒き散らす。こればかりは私にどうしてあげることもできなかったので、ひたすら背中をとんとんと叩くことしかできなかった。
 そのまましばらくそうしていたら、木手くんの身体がびくりと震えた。もしかしてまだ怖いだろうか、もう一度腕を強く巻きつけ直そうとしたら、木手くんが口を開いた。
「――――――あの」
「ん? なあに?」
「つかぬことを伺いますが、あの二人は?」
 言われて初めて思い出す私もひどいと思ったが、木手くんの言葉にようやく周囲を見回した。何しろ木手くんしか見えていなかったのだ。
 教室の中は無人だった。何人か残っていたはずのクラスメイトの姿もない。誰もいないよと告げると、木手くんは深く深くため息をついた。ならいいです、と口ごもるように言って。
「……にふぇーど」
 ありがとう、と小さく木手くんは呟いた。
 いつもの堂々とした話し方とはまるきり違う、小さな声だった。



 翌日、木手くんに会うよりも早く、朝から甲斐くんと平古場くんに会った。
「おはよう」
「おー」
「はいさい」
 軽く手をあげる二人とは別のクラスだ。廊下で別れようとした私を、二人は軽く引き止める。
「あー……なあ、昨日のやったーだけどよー」
「裕次郎、やめとけ」
 引き止めたわりには二人とも何かはっきりしない。それでも「昨日のお前達」という言葉から導き出されるのは私と木手くんしかいなくて、私はなるほどと頷いた。
「ああ、マブイグミ? 木手くんが教えてくれたんだよ。それで覚えたの」
「は?」
「はっさ」
 ぽかんとした顔の甲斐くんと、引きつった平古場くんの顔。対象的な二人に首をかしげると、続けて甲斐くんは口を開く。
「マブイグミ? ドカドカ叩かれて痛いやんに」
「どかどか?」
 今度は私がぽかんとする番だった。噛み合わない会話に二人して首をかしげる。その空気を切り裂いたのは、今度も平古場くんだった。
「裕次郎!」
「ん?」
「わったーは何も聞かなかった。何も見なかった」
 どことなく青ざめたその顔は、昨日の木手くんよりも憔悴している。
 まだ納得いかない様子の甲斐くんの背後、見慣れた姿を見かけて口を開こうと――した瞬間、すぐ側に木手くんが現れた。え、速い。何今の。何がどうして。
 私が疑問を口にするよりも早く、平古場くんが甲斐くんの腕を引いてその場を立ち去るよりも早く。木手くんの静かな声がその場を支配する。

「――おはようございます。君達……何を話していたんです?」

「なんでもないです」
 三人分の声が綺麗に揃った。
 木手くんがそれで納得したかどうかは、言うまでもない。

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