14:だから彼らは私のヒーロー



 放課後になっても木手くんが教室にいる。
 大抵授業が終わるとテニスコートに向かうはずの彼の姿が珍しくて、なんとなく私も自分の席を離れがたい。
「帰らないんですか?」
 当然不審に思ったのだろう、木手くんがこちらを向いた。
「邪魔?」
「いいえ」
 短いやり取りでこの場にいることを許された気がして、私は椅子に座り直す。木手くんは机の上に色んな書類や冊子を広げていた。テニスの雑誌もある。
「別に部室で見てもいいんですけどね。何かと騒がしいので」
 三年生が引退すると、次は木手くんたちの代が部の中心になる。木手くんはきっと来年の部長になるんだと思った。
「そうですね。その予定です」
「やっぱり」
 テニス部の部員たちは、みんな木手くんを信頼している。彼を中心に団結した絆には、敵なんてないんじゃないかと思う。
「それなら苦労しないですけどね」
 苦笑する木手くんも、同じように部員たちを信頼していることを知っていた。古武術道場の仲間たちを彼自らテニス部に引き入れた、以前そう教えてもらったことがある。
「そういえば、木手くんて私にテニス部に入れとは言わなかったよね」
 出会ったばかりの頃を思い出す。
 委員会や部活動を決めかねている私に、木手くんは「部活動は必須じゃない」と教えてくれたのだ。結局あの後私はどこにも入部することがなかったし、わりと自由な放課後を過ごせているのもそのせいだ。
 代わりに委員会には勧誘めいたことをされて、木手くんの手先として動くことをほのめかされたわけだけれども。結局それも後になって撤回されてしまったし。
 確かに私のような人間が下についていたって、木手くんの役に立つとも思えなかったから、木手くんの判断は結果として正しかったわけだけれども。
「テニスがやりたかったんですか?」
 意外そうな顔をされた。そうだろうなと思う。別に身体を動かすのが嫌いというわけじゃないし、体育の授業でやった時はそれなりに楽しめた気がする。でも自分が部活に入ってテニスをやろうとは思わなかった。自分でボールを追いかけるより、私はもっと魅力のあるものを知っていたからだ。
「ううん。木手くんのテニスを見てる方が好き」
「そ……うですか。それはどうも」
 一瞬言葉に詰まりながら、木手くんは続けて言った。
「うちはマネージャーも力仕事ですから、どちらにせよあなたには向きませんよ」
「コート整備とか、ボール運びとか?」
「二十キロの錘の整備とか、崖の上への岩運びとかです」
「木手くんてテニス部だったよね?」
 そういえば、私はテニスコート以外での彼らの練習風景をあまり見たことがない。いない時もあるから、そういう時はきっと他の場所で練習をしているんだろうなと思っていた。一番最初に会ったあの時も、海岸で朝練があると言っていたし。
 確か、古武術道場での練習もあるって言ってたっけ。木手くんたちはテニスの練習だけじゃなくて、色んなことをしている。
「それで勝てるのなら安いものです」
 勝利のために手段を選ばない。その決意はひどく鋭利で痛々しいほどだったけれど、それでも私はそんな彼を見ていたいと思うのだ。彼の絶対的な味方として。
「うん。木手くんが戦うのをずっと見てるね」
「……ありがとうございます」
 一瞬だけ言葉をためらったのは、多分ほんの少しの照れがあったんじゃないかなと思うのは私の自惚れだろうか。最近ほんの少しだけ、木手くんがどんなことを考えているのかわかるようになってきた。そんな気がする。
「それに、俺は共に戦う仲間には甘い顔できませんからね」
「甘い顔……うん、されてる」
 木手くんの言葉を繰り返しながら、これまでの日々を振り返った。思えばよく見捨てずにいてくれたものだと思う。木手くんにお世話になったあれこれを思い返すといたたまれない。
「自覚があるようで何よりです」
「その節は大変お世話に」
「その節はって。まるで今後は世話にならないみたいな言い方ですね」
 呆れ混じりの言葉に、これからは大丈夫! と胸を張――れたら良かったけれどもそんな自信はない。
「できない約束をしないところに好感がもてますね」
 木手くんのフォローが優しい。多分そういうところだ。私が日々木手くんに頼るようになってしまうのは。
「人のせいにしない」
「だってね、私が困るとするでしょ? そうすると大体いつも木手くんが側にいるんだよ。それでどうしたのって聞かれるでしょ? そうしたら、ねえ」
「ねえじゃないですよ」
 何で木手くんは私が困る時にいつも側にいてくれるんだろう。タイミングがいいのかな。彼にとっては逆かもしれないけど。そういえば木手くんに相談して、突き放されたことがない。それくらい自分でどうにかしなさいとか、俺にばかり頼らないでとか。
「自力で無茶して被害が拡大されるのは見てられないですし、その辺の人間にやたらと頼ってるのを見るのは面白くないんですよ」
 多分私は木手くんが思っているよりは人に気軽に何かを頼めたりする方じゃない。別にクラスのみんなと距離をとろうとしているわけじゃないし親切にしてもらってるけど、私に一番構ってくれているのはきっと木手くんだと思う。
「木手くんにだけ頼ってるのならいい?」
 私の疑問に木手くんは嫌そうな顔をした。
「悪いって答えないのを知ってて聞くんじゃありませんよ」
 表情は苦々しくて、声だって嫌そうで、なのにどうしていつもこんなに優しく響くんだろうか。
「面倒見がいいよねえ……お兄ちゃんだからかな」
「世の中のにーにーが全員そうじゃないと思いますけど。というか俺だって別に誰彼構わず世話を焼いて回ってるわけじゃないんですけどね」
「そうなの?」
 木手くんの周りには彼を慕って頼りにしている人がたくさんいる。部活でも委員会でも。それは木手くんの人柄と人望のなせる技だと私は思っていた。
「何でもかんでも俺が手出しできるわけじゃありませんから。俺の手に余る範囲はそれぞれ自力でやってもらってますよ」
 人に与えられた時間は平等で、そして有限だ。誰でも一日二十四時間。私のように気楽に暮らしている人間も、木手くんのような多忙を極めている人間も同じだった。
 木手くんが私を助けてくれる時、その時間を私のために使わせている。それを今更ながらに自覚した。いくら誰にとっても同じだとは言っても、木手くんの時間と私の時間が同じであるはずがないと思う。なんというか、密度とか濃度とかそういうものが。
 それを考えると――
「またろくでもないことを考えてるでしょあなた」
 思考を切り裂くようにして、木手くんの言葉が割り込んできた。机の上に並べていた書類を放り出して、頬杖をついてこちらを見る木手くんの顔。呆れたようにため息をついている。
「なんでわかるの」
「わかりやすいからですよ」
 そんなに付き合いが長いわけじゃないのに、木手くんはいつも私の頭の中を見透かしたように言葉をかけてくれる。それは大抵の場合私の必要としているものだったから、思わず手を伸ばしそうになるのだ。いつも。
「俺が突き放す相手も抱え込む相手もその内容も、全部俺が自分で決めてます。それにあなたが引け目を感じる必要はありません」
「私抱え込まれてる?」
「リードをつけるよりも確実なのでね」
 思わず首輪を繋げられた自分を想像した。別につながった先が木手くんなら構わない気がしたけど、それを口にするのは流石にためらわれる。
「あなたあまり自覚がないようなので、言っておこうかと思うんですけどね」
 そこでしばしの間が空いた。木手くんは逡巡して、言葉を選ぼうとしているようだったので黙って続きを待つ。私にできることなんてそれくらいだと思ったからだった。
「俺が世界を滅ぼしても味方になるなんていう相手、そうそういるものじゃないんですよ。もしかしたらいるかもしれませんけど、面と向かって言われたのは初めてです」
 それはいつかの約束で、今も私が心の奥底に持っているものだ。しまいこんだまま胸の中でじわじわと溶け出して、身体の中に浸透していく。
「俺がこれからやろうとしていることは、人に咎められることかもしれません。でも後には引きません。俺が自分で決めたからです。そういう状況での絶対的な味方がどれほど得難い存在か、あなたわかりますか」
 ゆるく首を振った。私になんてわかるはずがない。まだ十数年しか生きていない目の前の男の子が背負ったものを、正しく想像することすら。
「――救われてるんですよ」
 それでもその言葉は、私の中の大事な場所に確かに刺さった。そして溶けて混じって、もう二度と出ていかない。
 他に誰もいなくてよかった。夕暮れの教室に木手くんと二人取り残されながら、私は心の底から思った。今の自分の顔を木手くん以外の誰にも見られたくはなかったし、今の木手くんの言葉を誰にも聞かれたくなかったから。彼の言葉も口にした時の表情も、全部私だけのものにしたかった。
「何か言いなさいよ」
 不満そうな口調で木手くんが言った。多分照れ隠しなんだと思う。そういうことがわかるようになってきたのが嬉しい。
「たぶんね、嬉しいのが頭と身体を埋め尽くして、言葉がうまく出てこないの」
 与えてもらうばかりの自分ではなく、何かひとつでも木手くんにあげられるものがあればいいと思っていた。
「嬉しいんですか。俺が俺の都合であなたを側に置いておきたくて、それで手を回して離れていかないように画策してるのが?」
「木手くんてわざとそういう言い方するけど、私もうそれがどういう意味なのか、なんとなくわかるんだよね」
「どういう意味も何も、そのままの意味ですけどね」
「一緒にいようって言われるの嬉しい……」
 だから今もじわじわと頭の奥がしびれるように熱い。頬とか耳とか、早い話が顔全体が。
「……わかるんだったら解読してわざわざ言わなくていいです。恥ずかしいので」
 私の方こそ恥ずかしいわけだけど、予想した言葉を訂正されなかった幸福の方が勝った。頬が勝手に緩んでどうしようもなかった。木手くんは「しまりのない顔して」とかなんとか小声でぶつぶつ言っていたけど、今の私にはこういう顔しかできないのだ。諦めてほしい。
「理解したようなので、テニス部に入って役に立つとか立たないとか、そういう話はなしです」
「うん」
「あなたが他の部員の世話を焼くことを考えたら、しにわじわじするのでね」
「しに、なに?」
 聞き慣れない言葉だった。意味を教えてもらおうとしたけれど、それよりも先に耳に飛び込んできた言葉で、私はそれどころではなくなってしまう。
「俺の側にいたいだけならやめておきなさい」
 見事私は机に撃沈した。頭を抱えこむ私の横から、小さく漏れ出た笑い声が聞こえる。笑われている! 抗議しようかとも思ったけど、今は木手くんの顔が見られない。
「こっち向きなさいよ」
「むり……」
「どうして」
「見透かされてて恥ずかしいの!」
「ああ。いいですね。よく見せなさいよ」
 いいわけがあるか。
 机に突っ伏した姿勢のまま、首だけを左側へと向けて恨みがましい視線を向ける。当然木手くんはその程度の私の視線なんて軽く受け流していた。
 木手くんの視線はいつも私をまっすぐに射抜く。別に何を言われるわけでもないのに、そうされると私は身動きひとつ取れなくなった。まばたきするのも惜しくて、木手くんの顔をじっと見つめている。しばらく無言でそうしていると、彼の目元が不意に緩んだ。そんな時はいつもの鋭さが影に隠れて、ひどく優しい目つきになるから、私はいつも落ち着かない気持ちにさせられた。
「ね、それ見てもいい?」
 私はわかりやすく逃げた。木手くんはそれを悟っているのか一瞬物言いだけな視線を私に向けたけれど、それ以上突っ込むことなく「どうぞ、好きなだけ」と机の上を明け渡してくれた。その優しさ(たぶん)に助けられた私は、椅子ごと移動して机の上を覗き込んだ。
「これ、今年の大会の記録?」
「そうですよ」
 比嘉中の「九州地区敗退」という事実が示されたトーナメント表を、木手くんの指が軽く叩いた。来年こそは。言葉にしなくてもそれが伝わってくるかのようだった。
 九州地区だけではなく、全国の戦いの記録がそこにはあった。来年に向けてデータを集めて対策を立てるのだと木手くんは言う。
「九州の獅子楽はもう偵察済みですからね。来年は問題ないです」
 全国大会のトーナメント表にも名前がある学校だった。きっと強豪なのだろう。でも木手くんがそう言うのだからきっと来年は勝てる。そうに決まっていた。
 九州地区大会に名を連ねている学校で、私が知っているのは比嘉中だけだった。他の地区――例えば関東大会なら知っている学校名があるような気がして、書類の山から見つけ出した。
「――あぅ」
 トーナメント表を見るなり悲惨な声を上げた私に、木手くんは訝しげな顔をする。
「何かありましたか」
「地元の学校が関東大会に出てたんだけどね」
「あなたの前の?」
「ううん。名前を知ってるだけ」
 同じ県内というだけだ。関東大会なのだから名前があったっておかしいことはない。それでも一枠だけの地元の名前を見つけたら、母校でなくても応援したくなるではないか。でも。
「一回戦で負けてた……」
「そういうこともあります」
 木手くんも一緒になって私の手元を覗き込む。あみだくじみたいにトーナメント表をたどる私の指先は、くるくると一回戦の辺りを撫で回した。
「なるほどね」
 木手くんは何かに納得したように頷いて、小さく学校名を口にした。私の地元の学校と戦って、勝ち上がった名前を。
「なら来年全国でわったーがそこに勝ちます。それでいいでしょ」
 なんでもないことのように私に告げる、その声も眼差しも至って真剣だった。
「わったー比嘉中は、来年全国に行きますから」
 木手くんは当然のように言い切った。それは疑いなんて一ミリも混ざっていない、純度百パーセントの自信だった。
「こういう大会って、組み合わせ抽選とかあるんじゃないの」
「あっても勝ちます」
 あまりにも堂々と言い切られてしまったから、木手くんならできるんだろうなと納得した。前も思ったけど、木手くんの言葉には魔法がかかっているんだと思う。
「そうだね。木手くんなら引き当てられそう」
 それを聞いた木手くんが、軽く目を見開いた。意外そうに。木手くんが自分でそう言ったのに。
「いえ……あなた、俺たちが全国に行くことは疑ってないんですね」
「だって木手くんがいるもん」
「俺は今年もいましたよ」
「来年は木手くんが主将でしょ? じゃあ大丈夫」
 木手くんじゃなくたって、私にもこれだけは言い切れる。
「うちは二十六年、九州止まりですよ」
「木手くんがそれを突き破るんだね」
 快挙だねと告げると、木手くんは珍しく私から目をそらした。
「俺のことを何だと思ってるんですかね……」
「私のスーパーヒーロー」
「やめなさいよむずがゆい」
 あの目にまっすぐ見つめられると、いつも言葉に詰まるのは私の方だった。でも今は木手くん(たぶん照れている)があちらを向いているから、普段より言葉がなめらかに口から溢れ出した。
「悪の大魔王と言ったりヒーローと言ったり、忙しい人ですね」
「勇者にとって倒すべき敵でも、モンスターにとっては悪の大魔王様がヒーローなんだよ」
「あなたモンスターなんですか?」
 どちらが正義かなんて、その人の立場によって変わるし、正しさのあり方も違う。私には木手くんが絶対無敵の正義だったし、きっとそれが揺らぐことはない。正義の味方が木手くんを倒すというのなら、正義の味方が私の敵だった。
「大げさな話になってきましたね……いいですけど。そうですね。あなた俺の味方ですからね」
「そうだよ。記憶喪失になってもそれだけは忘れないでね」
「できればでいいんですけど、そもそも記憶喪失にならないように祈っててくださいね」
 確かに。まだ出会ってそんなに経っていないけど、木手くんとの思い出はもういくつもできてしまった。どれもひとつだって忘れたくないあれこれを、木手くんも覚えていてくれたらいいと思っている。
 いつか大人になって、中学校の思い出がおぼろげになったとしても、今日この瞬間こうして話したことを覚えていたい。過去を回想する大人の自分を想像したら何だか泣きそうになったけど、流石に変な心配をかけたくなかったから我慢した。
「うん、祈ってる」
 木手くんの記憶だけじゃなくて、色んな願いを全部こめた。今言えば気づかれない気がして。
「あなたは全国行きを疑ってないでしょうけど――指切りでもしますか」
 そんな私の静かな祈りを、とんでもない言葉が切り裂いた。見上げた私はよほどおかしな顔をしていたのだろうか、目の前の木手くんが小さく吹き出した。何だか最近、私は彼に笑われてばかりいる気がする。その笑顔は決して嫌いじゃなかったから、例え自分が笑われているのだとしても構わなかったけど。
 ――嘘をついた。本当は「嫌いじゃない」ではない。木手くんが笑う顔は好きだ。
「頭の中が忙しい様子ですが、大丈夫ですか」
「あんまり大丈夫じゃない」
「でしょうね。嫌なら無理にとは言いませんけど」
「私が嫌じゃないのわかってて言ってるでしょ」
「ええ、わかってて言ってますよ」
 悪びれもしない。すました顔で「どうしますか」と追撃される。とんでもない爆弾を落としておきながら、判断を私に放り投げるのは勘弁してほしかった。だってそんな。ねえ。
「木手くんの小指と私の小指が絡んで、きゅってするんだよね?」
「きゅっとするの意味が俺の想像で合っているならそうですね。それが指切りですから」
 想像すると死んでしまいそうになったけど、木手くんはたぶん私ほど深い意味で捉えていない。来年全国に行く。その約束をわかりやすく形にしようというだけで。
「………………する」
「そうですか。じゃあ俺の小指とあなたの小指を絡めてきゅってしましょうね」
「木手くん!」
「すみません。わざとです」
 何ひとつ謝罪になっていない「すみません」をいただいた。恥ずかしい。何から何まで木手くんに振り回されて翻弄されるのが。でもこうやっているといつも木手くんが楽しそうだったから、それを嬉しいと思ってしまう私はもうだめだった。
 おそるおそる差し出した小指はするりと絡め取られるようにして、木手くんに捕まった。軽く何度か振りながら、それを見つめて彼は口をひらく。
「来年の全国行きと、あと何か他にも約束しておきます?」
「うーん……木手くん何か私に約束してほしいことある?」
 木手くんの指は私のそれよりも長くて骨ばっていた。男の子の指だと思う。あまり力を入れずにいるのは、たぶん私を気遣ってくれている。そんなに柔らかく触れなくても、私は壊れないのに。
「そんなに簡単に言っていいんですか? 嘘をついたら針を千本飲まされるんですよ」
「こわい」
「ついでに指切りげんまんの『げんまん』は拳骨一万発です」
「死んじゃうやつだね」
「死なすやつですね」
 高笑いをあげながら私の喉に針を流し込んでいく木手くんを想像した。それも、わりとリアルに。あんまり痛くないといいなと思う。
「変な想像してますよね」
 木手くんが嫌そうな顔をした。勘がいいのか私がよほど表情に出ているのか、もしくはその両方なんだと思う。
「……いいですよ。別に針を飲まなくたって」
「拳骨は?」
「それも特別に見逃してあげます」
 特別という言葉に鼓動が少しはやくなる。最近いつもそうだ。木手くんの言葉の端々に過敏に反応して、一人で戸惑うのも。
「じゃあ、してほしい約束って?」
 もしも万が一私が約束を破ったとしても、木手くんは私に針を飲ませないし殴りもしないだろう。でも彼が望んだ約束なら、私の全てをかけてでも守ってあげたいと思うのだ。
 気づけばいつまでも繋いだままだった小指に、ほんの少し力がこもった。それでも私がほどこうと思えば容易く振りほどいてしまえるほどの力で。だから私の方からも力をこめる。
 木手くんはほんの少し目を細めて、低くて甘い、私の耳とか脳とかいろいろなものを溶かしてしまう声で呟いた。
「来年の夏まで、いつもみたいに俺のことを見ていてください」
 囁かれた言葉が、耳から全身に広がっていく。脳で理解するよりも、身体に浸透していくようだった。
「それだけでいいの?」
「ええ、充分ですよ」
 木手くんのことをいつも見ている。
 それは隣の席だからというだけじゃなくて、きっとこの先席替えがあっても私は教室の端から木手くんを探すだろうし、クラス替えがあったとしたら廊下の先でもテニスコートでも、きっと会いに行ってしまうのだと思う。
「来年の夏になったら、また一年分更新させてね」
「……いいですね、それ」
 指切った、と言わずに私たちの指切りは終わった。ほどかれていく小指が熱を失って、それだけで少し空虚な気持ちが胸に広がる。あの熱に慣れてしまったらだめだと思った。そんなことになってしまえば、私はもうこの先の人生で何に触れても足りないと思うだろうから。

 ――翌年、私の地元の学校は関東大会で同じ中学と戦って、同じように一回戦で負けてしまった。
 そして本当に比嘉中は全国大会の緒戦でその中学と戦って勝利することになるのだが、それはまだ先の話だった。

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