11:彼と好みの髪型について



 廊下をぶらぶら歩いていたら、よほど暇そうに見えたのだろう。通りすがりの先生に声をかけられた。
 先生に声をかけられると、別に悪いことをしているわけでもないのに一瞬身構える。なんとなく怒られるような気がして。実際は特にそんなこともなくて、資料室の写真整理をしてくれないかとのことだった。何か用事があるわけでもなかったので、軽い気持ちで引き受ける。普段入ることのない部屋に堂々と入室するのは、ちょっとわくわくするからというのもあったからだ。
 渡り廊下を通りながら、なんとなく窓から外を見下ろした。いるかなと思って。誰かというのは言うまでもない。
 いたらいたで、きっと手を振るのもためらってしまうに違いないのに、それでも私の目はいつも木手くんを探そうとする。いつまでも私の左隣にいてくれるわけではないのに。
 不意に浮かんだ自分の想像から、なんとなく駄目な思考になりそうだった。振り払いながらさっさと資料室へと向かうことにする。こういう時は何か没頭できる作業を与えられる方がありがたかった。

 資料室は普段あまり人が立ち入らないようで、太陽と埃と、古くなった紙の匂いがした。ドアを開け放したまま、まず最初に窓辺に近づいて風を通す。カーテンがはためくのをしばらく眺めてから、それらしき棚を探した。
 段ボールに「写真」とマジックで殴り書きされたものはすぐに見つかった。横に書かれた日付が去年のものだから、多分これでいいんだろう。制服に埃がつかないように注意して引きずり出す。中身は写真とはいえまあまあ重かった。
 箱の中に無造作に入れられていたこれを、どうやって整理したものか。とりあえず何枚かごとにまとめて封筒にでも入れておけばいいと言われていたので、その通りにする。
 機械的に整理していけばいいのはわかっていたが、ついどんな写真か見てしまう。どこかで見たような顔が、今よりも一年分幼い状態で写真におさめられていた。クラスメイトはなんとなくわかるけど、それよりも私の目を惹きつけたのは言うまでもなく。
「何してるんですか?」
「……写真の整理」
 どうして私が木手くんのことを考えていると、いつも現れるんだろう。写真に没頭していたから、ノックの音が響くまで気が付かなかった。開け放したままだったドアに、木手くんの拳が触れていた。
「写真の整理ね」
 私の言葉を復唱しながら入ってきた木手くんは、簡素なパイプ椅子に座る私の隣までやって来ると、テーブルに広げられた写真を覗き込む。
「ちゃんと二階の渡り廊下を通ってきましたか?」
「うん」
 うなずきながら、転校初日のことを思い出していた。
 比嘉中には校舎から資料室へと続く道中にカラクリ渡り通路がある。なぜ誰も止めなかったのだろうか。今もってそれは謎のままだ。
 一般の生徒のために二階に渡り廊下が作られているので、私のような平凡な生徒はそちらを通る。木手くんが学校内を案内してくれた時と同じように。
 たぶん木手くんはあのやたら立派な落とし穴もクリアできるに違いなかったし、今日だってそちらを通ってきたんだと思った。
「今日は俺も渡り廊下を通りましたよ」
「そうなの?」
「急いでいたものでね」
 だからさっき下を見ても木手くんがいなかったのか。と納得するのと同時に、木手くんの「急いでいた」という言葉に反応した。
「ごめんね引き止めちゃった。どこかに用事だった?」
 こちらの棟は資料室くらいしかないはずだけど、木手くんも先生に何か頼まれたんだろうか。
「…………嘘です。急いでません」
 なぜそんな二秒で撤回するような嘘を……。
 私の疑問には当然答えてもらえない。でもその代わりに、木手くんは写真整理を手伝ってくれると言った。正直助かる。だって入学当時からここに通っている木手くんがいてくれた方が、何かと整理もはかどるだろうし。
「仕事が捗るから、俺がいた方がいいんですか?」
「そっちが三割くらいで、残りは木手くんが私を手伝ってくれるのが嬉しいからかなぁ」
「あなた、たまに躊躇とかそういうものをなくしますよね」
「それほどでも……」
「ところで本当に三割ですか」
「……」
「そこで照れるんですか。わからない人ですねぇ」
 呆れたような木手くんは、それ以上深く突っ込もうとはせずに私の隣のパイプ椅子に腰掛けた。助かる。
「そもそも何故撮影した写真をそのままにしておくんでしょうねぇ……考えられませんよ」
 ダンボールから写真を取り出しながら木手くんはため息をついた。
「毎回きちんと整理すれば済む話でしょうに……何であなたがダメージ受けてるんですか」
「木手くんの言葉が刺さりまくっているので」
 自慢じゃないけど(本当に自慢じゃないけど)私は整理整頓が得意な方じゃない。どちらかと言えば、このダンボールにとりあえず写真をばさばさ突っ込んでしまった人の方に親近感を覚えるタイプだった。
「どこの誰だか知りませんけど、親近感を覚えられると面白くないのでやめなさい」
「うん。うん……?」
「まあ流しなさいよ」
 流しちゃいけないような気もしたけど、おそらくこれも深く突っ込んだところで教えてはもらえないんだろうなと思ったので、素直に言うことを聞く。
「……別にこれは他意があって聞くわけではないんですがね。あなた、口うるさく言われるのは不快な方ですか」
「木手くんが見捨てないでいてくれるなら大丈夫だよ」
「別に見捨てやしませんけど。……他意はないと言ってるでしょ」
 私だけじゃなくて、例えばテニス部のみんなとの関係を見ていても、木手くんが何かと指示を飛ばす姿をよく見る。親しい部員がそれに愚痴りつつも、きちんと聞き入れているところも。
「なんかね、木手くんの言うことって聞きたくなるんだよね」
「はあ」
 怪訝な顔をされる。まあそうだろうなと思ったけど、室内には他に誰もいない。他の人に聞かれたらおかしく思われるかもしれないようなことも、言葉にしてしまえるような気がした。
「木手くんにね、なになにしなさいって言われるとそうしたくなっちゃうっていうか、木手くんがしてほしいことを叶えてあげたいなって思うっていうか……なんでなのかな。木手くんの声に弱いのかな。木手くんに弱いのかな」
 うまく言いたいことがまとめられない私の言葉を、木手くんは最後まで黙ったまま聞いていた。
 開け放した窓からはぬるい風が吹き込んでくる。はためくカーテンの隙間から見える空は白と青のコントラストが強くて、この島の夏の終わりはまだずっと先なんだなと思う。私は「窓閉めてエアコンつけようか」と立ち上がろうとした。
「俺がやります」
 掴まれた肩がひどく熱かった。木手くんの手のひらが熱いのか、それとも木手くんに触れられた場所が熱をもつのか。座っていてと言われるまでもなく、私の足からは力が抜けた。
 手際よくカーテンをまとめ、壁際でしばらくエアコンのスイッチと向き合っていた木手くんは、数十秒の沈黙を保った後、私の方へと向き直った。
「俺としては」
 そこで言葉を切って、再び木手くんは口をつぐむ。言いよどむ姿が珍しくて、口を挟まずに続きを待った。無言で見つめる私に諦めたのか、木手くんは小さく息を吐いた。
「声だけじゃなく、俺本人に弱いと助かりますね」
「……そっか」
「そうです」
 なんともむずむずした空気が流れている。こういう場合「先に目を逸らした方が負け」なんて言われるけど、私は即座に敗北した。そもそも木手くんに勝ちたいわけじゃない。逃げるようにぎゅっと目を瞑った暗闇の中、木手くんが小さく吹き出す声が聞こえた。
「なんで笑うの」
「だってあなた。気まずいにしたって目を逸らすとか何かあるでしょう。そんなに無防備に目を閉じて、敵に襲われたらどうするつもりなんですか」
「その時は木手くんが助けてくれるからいいの」
 笑われたのが恥ずかしくて、拗ねるような声が出た。ついでに見上げた木手くんは、一瞬息をのんで。
「……まあ、構いませんけど」
 と目を逸らした。



 ひとしきりむずむずし終わると、ようやく本来の目的を思い出す。そうだ。私は写真整理を頼まれていて、木手くんはれを手伝ってくれるんだった。目的を忘れていたことを詫びると、
「いえ。俺も少し忘れかけていたので」
 などという言葉が返ってくる。二人揃って目的を見失っていたのなら仕方ない。仕方ないということにしよう。
 テーブルの上に広げられた写真の中に、つい探してしまうのはやはり見知った姿だ。具体的に言うと、今現在私の右側の椅子に座って写真をまとめている彼とか。
「わ、ねえこれ甲斐くん? こっち平古場くん?」
 先に見つけたのは、確かに見知った二人のようだ。断言できないのは、私の知っている二人とはだいぶ様子が違ったからだ。裏側を確認すると今年の春の写真らしい。二人とも顔立ちは確かに私の知っているものだったのだけれども、真っ黒な髪をしてカメラに向かって笑っている。
「そうですが」
 そっけなく木手くんが言うからには、確かにこれはあの二人に間違いないのだ。
「黒髪だねえ。あ、でも甲斐くんの帽子は同じ」
「少し前に染めたんですよ」
 なんでもないことのように言うけれど、前の学校であそこまで目立つ髪色にして登校したら、ちょっとした騒ぎになっていたと思う。二人に出会った時には既に今の髪の毛だったから特に気にしたことはなかったけど。
「いきなり髪染めて怒られなかったの?」
「あまり気にしたことはありませんねぇ」
「いいんだ……自由だね比嘉中……」
「あなたも比嘉中でしょ。自由の一員ですよ。よかったですね」
 私は特に髪の毛を染めてみたいと思ったことはないけれど、確かに比嘉中の一員になれたのはよかった。多分自由がなくても同じことを思ったに違いない。その原因は今すぐ隣にいる。
 頷きながら、ある一枚に目が釘付けになった。数ヶ月前の甲斐くんと平古場くんに挟まれて、挑むような目でカメラのこちら側を射抜く姿はきっと。
「……じゃあこっちはもしかして木手くん?」
「そうですよ」
 眼鏡は今と変わらない。唇の片側を皮肉げに上げて笑ってみせる癖も。でも、髪型が。少し長めの黒髪が瞳にかかりそうだった。いつもは全部見える額が見え隠れしている。普段私が見ている、がちがちに固めた髪型の片鱗はどこにもない。
 さらさらしてそう。最初に思ったのはそれだった。触れたら怒られるかな。自分の指の間をこの髪が滑り落ちるところを想像してしまったら、もうだめだった。
「何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「――え、ぁ」
 いつの間にかぽかんと開いたままになっていた口から、ぽかんとした声が出た。
「何も言いたくないから別にいいんですけど」
「言いたいことはある。めちゃくちゃある」
 でもうまく言葉にできそうにない。だってあまりにも衝撃的なものを見てしまった気がするから。こんなさらさらの髪の毛をおろしたままの木手くんは、なんていうか――普通にかっこいい男の子だった。
「普通って何ですか。じゃあ今は――いえ何でもないです。聞き流しなさい」
「え、今は今でめちゃくちゃかっこい――」
 咄嗟に出た言葉で、二人揃って撃沈した。
「聞き流せと言ったじゃないですか……!」
「そうでした……」
 うめくように木手くんは言った。どういう顔をしているかはわからない。なぜなら私も今、とてもじゃないけど木手くんを見られるような表情と顔の色をしていなかったので。
 最近特に思うことが増えたけど、私はもっと物事を考えてから口にした方がいいのかもしれない。木手くんは前に「俺は助かりますけど」なんて言っていたけれど、これじゃ身がもたない気がして。でも木手くんが側にいるとそんな決意はいつもたちまち吹き飛んで、気がついたら頭の中をそのまま口走ってしまうのだ。これはもう私がどうとかよりも木手くんのせいなんじゃないだろうか。
「人のせいにしな……いえ、この場合は俺のせいにしてもらってた方がいいんですかね?」
「すごく答えづらい……」
 何と答えても私の自爆は確定していた。焦って困る私を見ていると、木手くんは逆に落ち着くらしい。私を置いて一人でいつもの調子を取り戻したようだ。ひどい。
「まあいいです。それでその、この髪型に文句があるわけじゃないんですね?」
「ないよ? もちろん」
 初めて会った時も思ったけど、木手くんの髪型はすごく大人びて見える。今はすっかりそれに慣れてしまったし、毎日一時間半もかけてセットしているという彼の髪型にかける情熱も知っていたし、さっき口走って撃沈したのをもう一度蒸し返して自爆することもないんだけど、あえて言うならかっこよくて――目を惹かれる。
「ならいいんですけど――なんでもないです」
 今日の木手くんはやたらと言いかけて止める。すごく気になるけど、そこをあえて「聞かせて」とせがむ勇気は今の私にはまだなかった。もし聞ける日がくるとすれば、それは。思わずありえない未来を夢想しそうになって、慌てて打ち消した。
「木手くんはさ、」
 慌てていたのか混乱していたのか、あるいはその両方か。私の口は勝手に動いた。
「木手くんはどんな髪型が好み?」
 一瞬木手くんの動きが止まった。多分私も。
 何を言ってるんだ。そう思ってももう遅い。一度口から飛び出した言葉はなかったことにならなくて、やっぱりいいですと言ったところで木手くんが納得してくれるはずもない。
「聞いてどうするんです?」
 木手くんの好きな髪型を聞いてどうするか。
 言われた通りの髪型を目指してしまうであろう自分を自覚した。したけれどもそれを口に出せるはずもない。顔に熱が集まって、口を薄く開いては閉じた。
 私はよほど困り果てて見えたのだろう。木手くんは小さく「いいです」と囁くように苦笑した。
「いいですよ。今回は見逃してあげます」
「ありがとう……?」
 何だかよくわからないけど、とりあえず助かったと思った。
「別に髪型で人の好き嫌いを決めるつもりはないです。好きにしてなさいよ」
 後から思えばこの時もまあまあすごいことを言われていたのだけど、この時の私はそんなことに気づかなくて、それよりも頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけた。
「ということは髪型以外に好みがあるの?」
 しまった、というような表情を見ても、私は追撃の手を弱めなかった。
「ね、木手くん」
「あなたね……さっき見逃してあげた恩をもう忘れたんですか」
 忌々しそうに吐き捨てながら、小声で「急に鋭いのはなんなんですかね……」等と呟いている。
 たぶん木手くんは今とても困っているし、困らせているのは私なのだろう。さっき見逃してもらったことを考えたら、きっと私も「やっぱりいい」と伝えるのが正解なのだろうし、そうしようかなと思ったのだけれども、どうしても知りたい気持ちが勝った。
 じっと木手くんのことを見つめてみる。私は木手くんに同じことをされると何だかもうだめで、大抵の場合言うことを聞いてしまうのだ。木手くんも同じだとは思っていないけど。
 そんな私にとうとう諦めたのか、木手くんは深くため息をついた。
「……頭の回転が早い女性ですよ。おバカさんでは話になりませんからね」
 衝撃的過ぎる答えだった。
 そこから先の記憶は、あんまりない。



 その日の放課後。私が向かったのは図書室でもテニスコートの脇でもなく、街の本屋さんである。新刊コーナーを冷やかしながら、POPや帯を見ているだけでも気が紛れた。たまには何か新刊でも買おうかな。平積みにされた文庫本の山の中から、面白そうなあらすじを見つけようと手に取るのを繰り返した。そうしないと、色々昼間のことを考えてしまいそうだったからだ。
 たっぷり時間をかけて好みの本を探し出した。時計を確認すると結構いい時間になっていて、そろそろ帰ろうとレジに向かう。
 その途中の棚で、思わず目に止まった脳トレとかひらめきクイズの本を手にとってしまってから、そういうことじゃないんだろうなとため息をついた。気分転換に寄ってみた場所だったけれど、結局何も忘れられていない。私の頭の中なんて木手くんのことばかりだ。いつも。
 じっと見つめていたって私の頭の回転が早くなることなんてないだろうし、一応ちょっと中身を見てみたりもしながら、いやいやそうじゃなくてと棚に戻そうとする。
 その瞬間を木手くんに見られた。
「き、っ」
 言葉に詰まるのは当然だった。だってもう、木手くんの表情が、もう。
「違う!」
 一歩一歩、私を焦らすかのようにゆっくりこちらへと近づいてくる木手くんは、久しく見ていないほど楽しそうで、機嫌がよさそうで、獲物をいたぶる捕食者の瞳をしていた。
「これは、これは違うの!」
「そうですね。違うんですね」
 迷惑だから店の中で騒ぐのはやめなさいよと宥められる。
 だったらそんな顔で笑うのをやめてほしかった。

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