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その日は仕事が早めにきりあがり、すこぶる私は上機嫌だった。出先での用事を片付けて直帰するかと考えながら歩いていると、ぐうとお腹がなる。
脚を止める。あたりを見渡す。ヘルサレムズ・ロットの中でも私が来る頻度の低い地区だ。せっかくだからここらで何かを食べて帰るのも悪くない。
そういえば。
このあたりにうまいトラットリアがあるという話を以前誰だったかに聞いた気がした。たしか、この通りをぬけた先の角を曲がったところだ。他にめぼしい店も見当たらないし、思いつかず、誰に聞いたのだったか思い出せないままに私はその店へと足を勧めた。
「あ」
角を曲がって、トラットリアの門の前に、見知った顔が立っていた。
「ハリー?」
きょとんとした顔で私を見る顔に傷のあるスーツの優男。
――ラリーのトラットリアはへルサレムズ・ロットでも指折りだよ、お勧めだ。
そうだ。この店のことを楽しそうに、自慢げに、話していたのはこの男だった。めんどうごとのたびに顔をあわせる疫病神。反射的に愛銃とあたりの気配を確認してしまう。視線をすばやく動かしたが、通りは静まり返ったまま。肩をすくめる。
「待ちぼうけとは珍しいわね、アイスマン」
その呼び方やめてくれよ、といつもの軽口を叩いているが、何だかいつもより覇気にかける。
「あんたが先に私を“ハリー”って呼ぶのをやめたら考えてあげるけど」
「つれないなぁ」
声をかけるだけはかけた。無視して通り過ぎるほど薄情でもないが、「どうかしたの?酷い顔よ?」と気遣ってやるほどに親しいわけじゃない。
らしくない顔をした男に片手で挨拶し、そのまま横を通り過ぎ本日の晩餐にありつこうと門をくぐったところでようやく異変に気がついた。
「残念、閉店したんだ」
つい、最近ね、と無感動な目で真っ暗な店を男は眺めている。
「そりゃ、お互いついてなかったわね」
この男が絶賛したということは、味の保証はばっちりだったはずだろうに。まぁ、この街ではよくあることだ。日々、新しいものと古いものが生まれては消えていく。ここがHLになる以前から、そういう場所だ。
わずかな不運に、気を落としていても仕方ない。結局気まぐれで新規開拓なんてしようとしたのが馬鹿だった。そう思いなおして、くるりと私は行き先を反転させる。
「じゃ、他をあたるわ。あんたもそんなとこで凍り付いてないで、いい夜をね」
すれ違いさまに肩をたたく。そのまま男の視線がついてくるのがわかったが、これ以上係わり合いになるつもりはなかった。なかった。繰り返すが、私はこのあと一人で、“一人で”、行き着けのダイナーへと向かうつもりだった。昔ながらの、顔見知りが営業している、少しばかり小汚いが、それでも居心地のいいダイナーで、たいしてうまくもないコーヒーで、ジャパン贔屓のマスターのつくる似非日本料理を食べる。それからレンタルショップをひやかして、そんな週末を送る予定だったのだ。
結論からいうと、それは確かに実行した。
一人では、なかったけれど。
***
「……なんで、あんたが、そこに、すわってるの」
「これ、うまいな」
私の行きつけのダイナーの、私の指定席の隣に、どうしてお前がいるんだアイスマン。そしてなんともぬけぬけと食事をしている。
「ちょっと、それ私が注文した料理よ!」
いい夜を!なんて声をかけるんじゃなかった!と私はダイナーのカウンターで頭を抱えた。
「そっちは何だい?酒?少しもらっても?」
「ポール、お願いだからこの店でいっちばん高い酒もってきてくれる?お代は隣の男が払うそうだから」
店長のポールは「おまえさんのコレかい?」なんて親指をたててくる。やめてくれ、たのむから!「そう見えるかい?」とか勝手に会話はじめないでくれ。
「こんなところで油売ってないで、HLの天秤を保ちに夜の街をさっそうと暗躍しに行きなさいよミスター・バットマン」
「君が追いかけてきてくれるならねゴードン刑事」
「いっておくけど、それは褒め言葉よ。わたしの言ったことは嫌味だけど」
「勿論、褒めてるさ」
やってられない!胡散臭い笑顔を酒の肴にするはめになるなんて、今夜はほんとについてない。
ポールが出してくれた酒を一気にあおる。
「ぬるい!」
「普段なら出さない酒だぞ?冷やしてない冷やしてない」
「そういうところがダメなのよポール!」
「嫌ならよそへいくんだな」
「……高い酒が台無しだわ」
きんきんに冷やして飲むのが最もうまい最高級酒だというのに、生温かいそれに溜息がでる。何から何までケチがつく日はあるものだ。せっかく、ゆっくりな週末なのに出足でつまずいた気分だ。
ぱきん、と耳慣れた音がする。瞬間、ひやりとした冷気が這い上がるのを感じて反射的に私は銃をぬいた。
「ハリー」
「なによ、ポールの店でやらかしたら殺すわよ」
銃口を眉間につきつけたまま、睨みつけてやる。
「せっかくのいい夜なんだ、物騒なもんは無しでいきたいね」
男のしせんが促す先に、視線を送る。
「ああ」
にやりと、口の端をあげて私は笑った。
「なんだ、いい仕事するじゃない、“アイスマン”は伊達じゃないわね。お礼に鉛玉いる?」
銃をあげて、片手でよく冷えた酒を一気に煽った。
「“最高に物騒で、最高に良い女”」
「は?」
「さっきポールがそう言ってた。泣かしたら殺すぞって脅し文句つきでね」
愛されてるね、とカウンターに頬杖をついて男は言う。
「勘違いを助長させるようなこと言ってないでしょうね。」
「勘違い?」
とぼけたように笑をこぼす。ほんとに、たちが悪い男だ。
「ああっ、もういい!今晩は飲む!」
誰がこんな気障な伊達男なんて恋人にするものか。
私の横で感慨にふけるように男が料理を口に運ぶ。
「いいダイナーだなぁ、ここ」
「酒も料理もいまいちでしょ。素直に言いなさいよ、ここでまともなのはコーヒーだけよ」
「うん、ほんとにね」
じゃあさっさと出て行ってくれ。
「ラリーの、パスタを君に食べてみてほしかったな」
「縁がなかったわね」
「ははは」
作り笑い。馬鹿なやつだ。
「最高のダイナーに」
かんぱい、と男は安いワイングラスを掲げた。
***
「ちょっと」
行きつけのダイナーで私は頭をかかえた。
「やぁ、ハリー。君も夕飯か?」
「そこは私の指定席よ」
「知ってる。すぐ隣にうつるよ」
「今すぐ店を出て行くって選択肢はないわけ」
「君が?」
発砲せずに、平手でぶんなぐるに押し留めた私を誰か褒めてくれないかしら。
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