――夢を見た。辺り一面が雪化粧を施したような一面の白。雪かと思えば辺りに漂うそれは、白く輝く花弁だった。まるでこの夢の中だけが真冬に包まれているかのような――不思議な景色だった。
 その場所は外ではなく、一面氷に覆われた建物のような場所だ。お陰でそれが夢だということをはっきり認識していて、早く覚めてほしいと願うばかり。堪らず頬をつねって目を覚まさせようとするが、痛みはなく「つねった」という意識だけがあった。
 氷の館に広がるのは雪――ではなく、花畑。その中心に、少女のような乙女が一人。白い髪に白い花を模したドレス。肌の色さえも陶器のように白く、咲き誇る花と同じよう。長く伸びた柔らかなくせ毛は、どこからか吹いてくる風にゆらゆらと、雪のように柔らかく揺れた。
 一目見て少女だと決めつけかけたが、よくよく見れば既に成人しているかのような見た目をしている。それを咄嗟に乙女おんなと訂正した彼は、じっとその姿を見つめたまま微動だにしなかった。
 女はゆっくりと、まるで眠りから目を覚ますかのように瞼を開く。その瞳の色は青からほんのり紫に移る紫陽花の色。そうして白く輝く花が妙に印象的だ。
 化粧を施しているのかと思えばそうでもない顔が、ほんのり上がる。じっと彼を見つめ、寝惚け眼のような視線を送ってから小さくこう言った。

「笑って」

 ――まるで鈴の音色のような軽やかな声。聞き覚えのあるようなそれに、彼は小首を傾げる。見知らぬ女に対して笑えと言われて笑える彼ではない。踵を返し、そっぽを向いて立ち去ってしまえばこの関係はすぐにでも消え失せるだろう。
 しかし、彼の足は動くことはなかった。夢である所為か、自分の思うようには動けず、その場に立ち止まったままだ。そもそも「これが夢である」という確信を抱いたまま、というのも可笑しな話ではあるが――彼はそれを、気にしないことにした。
 乙女おんなが再び「笑って」と静かな声音で言った。彼女もまたその場を動けないのか、座り込んだまま彼を見つめて言うだけだ。
 ――何の情も湧きはしない。それでも彼は取って張り付けたような笑みを浮かべてやると、乙女は「下手くそね」と呟く。

「でも、好きよ。貴方の笑った顔」

 彼女は何の感情も表に出さないような顔付きのまま、彼にそう呟いた。

◇◆◇

 夢というものは不思議なものだ。風に吹かれるように舞い上がる白い花弁を見つめて、彼は小さく吐息を吐く。今回は外だった。空の色は薄い灰色に覆われているが、やはり地面は一面の白が輝いている。その中で一際存在感を増している乙女の顔は、今日も白い。
 彼はまた意識がはっきりとしていた。今いる場所が夢ではないかのように。手のひらを見つめてみる行動も、何気なく頬をつねる行動も、自分の思うままに取れている。
 それでもやはり、ここは「夢」であると気が付いていた。
 目の前には彼女が今日も居座っている。茫然とした様子で手元の花を見つめ、彼の存在には気が付いていないかのようだ。紫陽花色の瞳はやけに憂いを帯びていて、何かを求めるような視線を一心に花に注いでいる。
 ――不思議な夢だ。
 彼はそう感心していると、彼女は「『わたし』と居てくれて有難う」と呟くように言った。

「――……?」

 一体何のことだか。彼は不思議に思い、遂に首を傾げる。薄い灰の空からほんのり雷の音がした。心なしか、以前見た頃よりは寒さがあるような錯覚がある。

「……小さい子供のように遊びたかったのよ。こんな形で叶うとは思っていなかったけれど」

 彼女が話を進める度、遠くから聞こえる雷の音が少しずつ近付いているような気がした。雨でも降るのだろうか。たとえ夢でも、濡れるのは嫌だと頭の片隅で思っていると、彼女は花から彼に視線を移した。

「お礼が言えて良かった。私は小さく、愛想はないけれど、貴方に感謝はしているの。本当よ」

 紫陽花色の瞳が以前よりも紫が強くなっているような気がする。
 彼女の言葉を置き去りに彼は茫然としていると――ゴロゴロと唸るような雷の音が、頭上から聞こえてきた。

「……こんなところに呼んでしまってごめんなさい。いつの日か、貴方に直接会えることを夢に見ているわ」

 ――彼は一言も発することはなかった。発することができなかった。息を吸うことができても、足を動かすことはできない。その場に固定されている石像のように、ただ茫然と突っ立っているだけ。
 ただ、そうしているだけだったのに――夢の中から追い出されるように、背中が引っ張られる感覚がした。

 遠く、離れていく非現実的な景色の真ん中。「かわいいひと」とだけ妙に親しげに呟いたあと、気を失うように眠る彼女を最後に見た。

 ――以来彼は、その夢を見ることはない。

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花の夢を見る


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