体内に蓄積された魔力が空になったとき、人体に与える影響は様々だ。回復のために眠るのか、四肢に力が入らずに脱力してしまうのか。はたまた命を落としてしまうのか――それらは人によって異なる。
 無論、「魔力を失った」という証として出てくる変化も様々だ。
 彼にはそれが毛髪に顕著に現れただけ。暗く、光に当たればほんの少しだけ濃紺に染まる黒い髪が、まるで色が抜け落ちたように真っ白に染まる。雪のように、白紙のように、――遣いのように。
 それに、少なくとも彼女は身内の面影を見出だして、やはり血筋なのだと思った。兄の友人に全く以て似ていないと思っていた外見も、性格も、しっかりと受け継いでいるのだと。
 ――そうして事を終えたとき、ふっと意識を失う姿を見て、彼の妹が悲鳴のようなものを上げてから、ハッとしたのだ。

 ――何故、極端に魔力を磨り減らしたのだろうか?

 すうすうと規則正しい寝息を立てている顔を見やって、ラニットは小さく息を洩らす。豪邸とも取れる広い家に、各々に与えられた部屋の広さは十分なほど。必要最低限のものしか置かれていない部屋だからか、ほんの少しだけ寂しく思える部屋で、彼は眠り続けていた。
 魔力の回復方法が眠ることであるのは、遺伝なのか否か。ラニットには分からないが、メアの魔力が着々と回復しているのを実感する。
 あれほど白く染まってしまった癖のある髪が、根本から黒に戻りつつある。その現象が真新しく、不思議だと思えるほど。彼女のように初めから白髪である人間には、彼のような現象がほんのり興味深かった。

 あの日以来、メアは一向に目を覚ます様子を見せずにいた。事の顛末を知っているラニットは、彼らの家を訪ねて度々様子を窺っている。普段なら体を鍛えるのに使っている時間も消費して、だ。
 初めこそ家に伺うのも憚られていたが、彼の妹がどうしても来てほしい、とせがむものだから断れずにいた。
 白い髪に天真爛漫な少女のような彼の妹は、ラニットのことを――正確にはニュクスの遣い全員を――いたく気に入っているようで、出会っては犬のようにはしゃぐ姿を見掛ける。それが純粋に愛らしく、彼女もまた、慕われることは満更でもなかった。
 ――そんなネアが、あれ以来ぎこちない笑みばかり浮かべるものだから、気持ちが落ち着かなかった。寝不足なのか、目元にはうっすらと隈が残り、あれだけ綺麗だった肌も、髪も、酷く傷んで見る影もない。
 それがどうしようもなくいたたまれなくなって――、定期的に顔を出すようになったのだ。

 彼らの両親、クレーベルトとノーチェは街へ買い物に行くと言って留守を頼まれた。特別用事のない彼女はネアの面倒も見るという名目で頷き、彼の部屋で膝を抱えるネアの様子を窺う。
 どうしようもないほどに心配そうな顔をする少女に、ラニットは疑問すらも覚えてしまった。
 話によればあと数日もすればすっかり元に戻ると、彼らの両親は言ったのだ。特にクレーベルトは自分が眠りによって魔力を補う体質の生き物であるため、「何となく」眠りが終わる時期が分かるのだそうだ。
 呼吸も安定していて、顔色も悪くはない。黒い髪も戻ってきていて、見ているだけのラニットでさえも「もうすぐかな」と思えるほど。

 それなのに――妹のネアだけは、いやに不安そうな顔をし続けるのだ。

「……ね、お話ししよ」

 あの笑顔が一切浮かばないのはやはり寂しいものがあった。
 何の気なしに彼女はネアに声を掛け、顔を覗き込む。両親から受け継いだ紫と空の色に浮かぶ三日月が、不安そうな色を湛えたままラニットを見た。
 数秒の間を置いて、少女は緩く微笑む。「お話ししよ」――と、同じ言葉を紡いだが、ぎこちない笑みだった。
 ――とはいえ、話題がないのもまた事実。膝を抱えたままネアはラニットの顔を見つめるが、彼女はそうっと視線を逸らしてしまう。
 「共通の話題」を静かな部屋で懸命に考えた。戦うときに使う思考を、人の為に働かせるのはあまり慣れない。その中で思い付くものと言えば――、彼らの両親のこと、だろうか。特に一族として昔から交流のあるノーチェのことでも話せば、自ずと興味を持ってくれるに違いない。
 ――けれど、こんなにも大人しい少女が、何かに興味を持つなど思えなかった。

「…………」

 話そうと言った手前逃げ出すことなどありはしないが、どうにも唇から言葉が紡げない。
 慣れない沈黙と空気に「気まずい」なんて思いながらも唇を尖らせていると、傍らのそれが小さく動いた。

「……ラニおねーちゃんは結婚とかしないの……?」

 静寂を切り裂いたのは、ポツリと呟かれたネアの小さな声だ。
 唐突な話題にラニットは僅かに目を見開き、え、と言葉を洩らす。内容が内容なだけに戸惑い、間抜けな声が洩れてしまった。彼女は夜の瞳をぱちぱちと瞬かせ、頭を捻る。
 その様子を、ネアはじっと見つめていた。言及はない。催促もない。ただ、彼女の返事を待つよう、じっと返事を待っていたのだ。

「……女だからね。憧れるけど……」
「けど?」
「自分より弱い人は嫌かなぁ……」

 誤魔化す理由もない。ラニットと思ったことをそのままネアに呟くと、少女は「そっか」と言った。続けて「年齢とか気にしないの?」なんて訊いてくるものだから、彼女は軽く頭を捻って「強さに年齢は必須じゃないよ」なんて答える。
 ただ、ニュクスの遣いとして生きている自分より、頼れるような男であれば少なくとも年齢という壁は気にもならない筈だ。
 ――そう言って、ネアの考えを読み解くようにじいっと見つめていると、少女は小さく「望み薄かなぁ」と独り言を洩らした。
 聞き取れなかったわけではないが、如何せん小さく、聞き間違いでもあったのかと思うほどの呟きだ。堪らずラニットが「え?」と口を洩らすと、ネアが抱えていた膝を放す。

「お兄ちゃんね、ラニお姉ちゃんのこと好きなんだよ」

 そう言いながら少女はラニットの顔を柔らかく見つめた。先程の鬱蒼とした表情よりはいくらか持ち前の明るさを見せているものの、やはりどこか暗いところがある。
 しかし、そんな仄暗さよりも、ラニットには頭を殴られたような衝撃が与えられた。
 唐突に告げられた言葉に彼女は言葉を失う。好き、とは一体どういった意味なのか。単なる好意から来るものなのか。一族――というよりは、親戚付き合いのような感覚で、「姉」や「妹」としての感情に程近いのか――なんて何度も考えた。
 「好き」にも色々な意味がある。彼らを妹や弟として見ている彼女は、それが姉弟関係のようなものだと決めかけたが、立て続けにネアが唇を開く。

「異性としての好き、ね」
「……そ……っか」

 足早に予想を崩されたラニットは、詰まりきった言葉を吐き出すようにポツリと返事を溢した。そうして未だに意識を失ったままの彼を横目で見やって、ネアの言葉が本当のものなのかどうか――じっくりと吟味を繰り返す。

 信じていないわけではない。彼らは血を分けたたった二人の兄妹だ。共に生まれ、共に育ち、時折感覚を共有することのある双子だ。
 その片割れがまっすぐ目を見て言うのだから間違いはないのだろうが――如何せん、彼の表情があまりにも変わらないので俄には信じがたい。
 そういった意味で好きだというのなら、些細な言動にすら現れてしまうものだ。頬が赤らんだり、気を遣ったり――「この人は自分のことが好きなのかもしれない」と思わせる要素がひとつでもある筈だ。
 ――だが、その要素が彼には欠けているのだ。まるで何かを失ってしまったかのように、虚空を見つめ、無表情のまま黙りこくっているのだ。

 それらに些細な変化が加わっているのかどうかなんて、ラニットには到底理解し得ない。彼女にとって彼は「兄の友人の息子」という立場であり、異性として見るには少し違ったような気がした。

「……それ、言ってもよかったの?」

 ――それでも否定するつもりもないラニットは、ほんのり沸き立つ疑問をネアにぶつけた。すると、少女は小さく笑って「よくないかも」なんて言い、兄の顔を見る。相も変わらず静かで、親に似た綺麗な顔立ちをしていた。
 「でも、私が言わなきゃ、お兄ちゃん言わないから」そう確信しながら呟かれたであろう言葉は、すっかり落ち込んだようなものだった。

「……まあ、遣いになった所為で見た目はもう変わってないけど……二人からしたら私はおばさんだから――」
「年齢なんてもの、好きっていう気持ちがあると何も気にならないんだって」

 育った環境も、年代も、まるで違う。――彼がラニットに好意を明らかにしないのは、そういった点においてあまりにも大きすぎる壁があるからだろう。
 ――そう決めつけたものの、彼女の言葉を遮ってネアは唇を開いた。年齢など、あってもないようなもの。いくつになっても人を好きになるものだと、本で読んだことがあるそうだ。

 しかし、ネア曰く彼が好意を口にしないのは「資格がないから」だという。

 ――ほんの少し寂しげな瞳が小さく床を見つめた。何かあるのかと思い、ラニットもまた視線の先を追うが、あるのは触り心地のいい赤黒い絨毯だけ。それを一点のみ見つめている少女は、どこか迷いを抱えたような面持ちで「小さい頃ね、」と語る。

 齢十にも満たない頃、知らず知らずのうちに人拐いに遭ってしまった。むさ苦しく、血の気の多い男が何人もの子供を部屋に押し込んで、体の自由を奪う。暗く、冷たく、地下室のような場所で「不要」と判断された子供は容赦なく切り捨てられた。
 メアとネアは恐怖に苛まれながらも、ただ助けを待ちわびていた。
 ろくに目もつけられなかった理由は、両親から受け継いだ魔力と力が彼らにとって有益だったからに他ならない。
 都合のいいように扱い、従え、気に食わなければすぐに手をあげる。許されない筈の常識が、そこでは当たり前のように繰り広げられていて、次はいつ自分の番が訪れるのかと体を震わせていたのだ。
 十分な成長を遂げていられれば力付くで抜け出せたであろう状況だった。
 ――しかし、二人は十歳にもなっていない単なる子供だ。十分な力もなければ魔力の扱い方もろくに知らない。ただ、向けられる目に耐えるように勇気を振り絞るしかなかった。
 幼少期の彼は酷く活発的だった所為か、痺れを切らしたように「早く出せ」と言い放った。
 当然、子供に声を張られて許していられるほど気の長い男達ではない。燃えるような怒りが灯る瞳を小さなメアに向けたが、当初彼自身も相応の覚悟をしていた。殴られる為の心構えは誰よりもできていた筈なのだ。
 ――その矛先が、当時大人しかった妹に向けられるとも思わずに。

「……私が殴られたの、お兄ちゃんは自分の所為だって思ってるみたいで」

 私はもう気にしてないんだけどね。――そう言って笑うネアに対してラニットは唇を閉じたまま。話に聞いた男達は奴隷商人にも似たような存在だろうか。純血のニュクスの遣いでもなければ何の罪もない子供達を拉致、監禁――暴行を加えたことにほんのりと苛立ちを覚える。
 そんなラニットを他所にネアは少しずつ明るさを取り戻し、「そういうときにノーチェとベルが来てくれてね! 格好よかったの〜!」と声を張った。憧れと尊敬、感動のような口調に彼女の頬が僅かに緩む。
 これを期に強くなりたいと思ったのだと少女は言った。純血には程遠い存在であろうが、純血に至るための足止め程度にはなれるだろうという考えを持ってのことだ。
 そんなこと気にしなくてもいいのに、と口を突いて出た言葉が、ネアに降り注ぐ。すると、少女は照れ臭そうに笑って「これが私達の決めたことだから」と言った。聞こえは悪いが、己を犠牲にしてでもニュクスの遣いの為に時間を費やせることが、嬉しいのだと言ったのだ。

「それでね、あれ以来お兄ちゃんは笑わなくなっちゃって……性格も変わっちゃったみたいで。だから私が……片割れわたしがいっぱい笑うの」

 今ではもう癖になっちゃった、とネアは言った。ほんの少し寂しげな表情に見えるのは強ち間違いではないのだろう。過去にあったことが今に影響しているのは酷く不愉快ではあったが、どうにもラニットには慰めの言葉も見つからない。
 ――何か、何かしてあげられることはないだろうか。
 顔を顰めて言葉を詰まらせていると、徐に少女は手を下腹部に添えて「だから、」と再び言葉を紡ぐ。

「子供が生めない体になった私に、お兄ちゃんにはいっぱい幸せになってほしいの」

 兄思いでしょ、とネアは笑った。反面、ラニットは少女の言葉に息をするのも忘れてしまっていた。
 子供が生めない体になった――それは、初めからそうであったわけではなく、何らかの原因によって「そうなってしまった」口調だった。それは、小さかった体に及んだ暴行は、少女の体に消えない傷を背負わせてしまったことに対する裏付けだ。
 この事実を知っているのはそう多くはないのだろう。同じ女ではあるが、ラニットにはネアの痛みは理解しきれなかった。
 それでも少女は数回瞬きをしたあと、何かを思い付いたように「あ、」と言葉を洩らした。そうして気持ちが沈みかけているラニットを置き去りに、彼女の手を取り、「もしよかったら協力してほしいの!」と迫る。

「え、なっ……何を……?」

 突然のことに彼女は目を丸くしていると、少女は我が物にした目映い笑顔のまま緩く笑い、お願い、と呟く。

「一回だけでいいからお兄ちゃんとデートしてほしいなあ〜!」

 ――ネーニアの言葉に、ラニットは遂に考えるのを投げ出した。

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