「ベルお兄ちゃんは好きな人っている?」

 無邪気な声色と爛々と輝く瞳に、男は瞬きをひとつ。突拍子もない質問に数秒だけ考え込むような仕草を取ってから、首を傾げて小さく唸った。

 秋晴れの空。先日は雲ひとつない青空だったが、今日は白い雲が程好く空を覆っている。天気が崩れるような心配はないが、肌寒さが増してきた秋の暦では、憎い筈の日光が少しばかり恋しい。
 その中で今日は外でお茶会をしようという声がかかった。時期が時期ということもあってか、発案者はクレーベルトの向かい側の席でじっと男を見つめる少女、メアリーだ。
 小麦畑のように金に輝く髪は目映く、無邪気な瞳を向けてくるその瞳はあまりにも眩しい。まるでこの世の穢れなど少しも知らないと言いたげなその様子は、クレーベルトにとってはほんの少しだけ苦手だった。
 無邪気であればあるほど、強い感情に呑まれやすい。負の感情を他者から感じ取れる体質の男は、いつの日かこの少女の感情にすらも呑み込まれてしまうのではないかという不安があった。

 あったが――メアリーは男にとってノーチェと並ぶ身近な師範代みうちだ。無邪気な一面が無意識な悪意に向かっていることを知っている男にとっては杞憂になるだろう。

 ――とはいえ、万が一裏切られてしまえば流石のクレーベルトも傷付いてしまうのだが。

「――……何故急にそんなことを?」

 雑念を払い除けるよう、男は質問に質問を返した。未だ少女の面影を残し続けているメアリーは、質問に答えが返ってこないことに腹を立てず、返ってきた質問に「え」と声を洩らす。その反応はまるでこちらに質問が来るなど、予想もしていなかったような反応だ。
 メアリーは一度目を丸くしたと思えば唇をへの字に曲げ、眉を顰める。手元にあるティーカップに口をつけたと思えば徐にちびちびと飲み始め、うぅん、と唸った。
 クレーベルトに対する「何故」に対して、真剣に思い悩む少女に、男は小さく微笑む。たった口許だけで微笑んだだけのそれは、少女に伝わることはなかった。メアリーは終始頭を捻るように唸り、顔を歪め、クッキーを頬張る。
 考えることには糖分が必要なのだろうか――、執拗に口へ運ぶものだから、クレーベルトはメアリーに傍に来るように言った。
 子供は苦手だ。――しかし、それも身内ともなれば話は別。
 呼びつけられたメアリーは椅子から降りたあと、大人しくクレーベルトと隣へと駆け寄った。藤色のスカートにあしらわれた白いフリルが小さく跳び跳ねる。「なぁに」と言った少女の頬は赤く、唇には弾力が見受けられる。将来大人になれば目を惹く美人にでもなるのだろう。聡明になれば世渡りが上手くなりそうだ――。
 ――なんて思いながら、男はメアリーの口許をナプキンで拭った。

「無理に考えてしまうようなら答えなくていい」
「んー」

 クッキーの食べかすを拭い取って、喉を詰まらせないよう紅茶を勧める。メアリーの方にあったティーカップを取り、手渡せば、少女はそれを受け取り勢いよく飲んだ。
 いくら冷めているとはいえ、一気に飲み干すのも体に悪い。男は呆れたように「もっとゆっくり」と言ったが、指摘した頃には既に少女は満足げに一息吐いていた。
 メアリーも負けじとクレーベルトやノーチェと過ごすことがある。下手にノーチェの一面を真似しないで賢く生きてくれるかどうか――、ほんのり心配になってしまった。

「――そう、聞いたの! この間お出掛けしに行ったときにね、『好きな人がいると毎日楽しいよねー』って!」

 唐突にパッと顔を上げながらメアリーはクレーベルトに答えた。その瞳は先程と同じように爛々と輝くものだから、クレーベルトは思わず一瞬だけ動きを止めてしまう。無邪気で、眩しい瞳はやはり少しだけ苦手だった。
 そのまま男はメアリーの手からティーカップを取り、「そうなのか」と呟く。向かい側にあるソーサーにカップを置き、クレーベルトが一息吐くとメアリーは男の傍で「うん」と言った。

「でもその『好きな人』って何だろうって思って。それってお友だちとかじゃないのかな?」

 でもその人たちはすっごくきゃーきゃー言ってたなあ。
 再び眉を顰め、眉間にシワを寄せてむむむ、と唸った。どうやらメアリーの聞いたその話では、街中で女達が黄色い声を上げていたようだ。少女にとって「友達」はそういった声を上げる対象ではないのだろう。
 話を聞く限り男はそれを色恋沙汰であると判断した。――判断したが、男がそれを知ったのはつい最近のことだ。クレーベルトよりも遥かに年下で、未だ少女であるメアリーに何をどう伝えたら伝わるのか、男には分からない。
 クレーベルトに分かるのは、それがただの「友達」に向けるだけの感情ではないということだけだ。

 ――しかし、何故それをクレーベルトに問い掛けたのか。男はその答えをもらってはいない。

「……どうして俺にそんなことを訊いたんだ」

 好きな人の有無をはぐらかしたまま、クレーベルトは再びメアリーに問い掛けた。比較的優しい声色をしているが、顔は相変わらず無表情のまま。普段なら眼帯の下に隠されている金の瞳も、何の感情も湛えることはない。
 しかし、メアリーはそれに恐れることもなく「えっとね」と言うと、緩く笑った。

「ベルお兄ちゃんに楽しくなってほしいからかなあ」

 照れ臭そうにはにかむ笑顔は少女宛らのものだった。
 流石子供と言うべきか。それとも、少女だからそういった思考至るのか。クレーベルトは分からないまま、ほんの少し気持ちが絆される。元より身内のみのお茶会ということで気を張り詰めることなどないのだが、一度ついた癖は取れそうにもなかった。
 クレーベルトはボスだ。メアリーからすれば上司のひとりに過ぎない。部下を手足のように扱い、従え、敵対する者には容赦のない唯一の存在だ。
 そんな男に、毎日が楽しくなってほしいなどと思うなど、お門違いにもほどがある。ボスはいずれ正義の名の下に倒され、存在を失くすだけの、ただの悪役だというのに。

「残念だが、メアリー。俺はもう毎日が楽しいよ」
「あれ、そうなの?」

 漸く柔らかく微笑み、クレーベルトは少女の頭に手を置く。手の冷たさが伝わらないよう、黒い手袋を着けたままの手は、ゆっくりとメアリーの頭を撫でた。
 クレーベルトの言葉にメアリーはポカンと口を開いていたが、クレーベルトに「好きな人」がいるのかと思うと、途端に好奇心が勝る。
 堪らず少女は「好きな人がいるの?」と男に問い掛けると、クレーベルトは数秒の間を置いてから「お前達だよ」と言った。

「俺はお前達が好きだ。他の者ももちろん好いているが、お前達師範代はもっと好きだ。……メアリーは俺のことが嫌いか?」

 いやに手入れの行き届いた髪を撫でながらクレーベルトはメアリーに語りかけた。自分が師範代を好んでいること、毎日が楽しいと思えていること。そのどれもは一切表情に出ることはないが、嘘を吐くような性格ではない男にとって、確かな本音であること。
 生憎メアリーが求める色恋沙汰の類いではないが、あながち間違いではないのだ。
 はぐらかしていたわけではない。しかし、告げる必要性もない。今ではこの回答に満足し始めているメアリーは、「メアリーもベルお兄ちゃん好き!」と声を張り上げて、男の体に腕を回して抱き着いた。

「ベルお兄ちゃんのことが好きだから、メアリーも毎日楽しいんだね〜!」

 少女も少しは理解しているのだろう。街中で聞いたような黄色い声を上げるほどのものではないことを。女達の言っていた「好き」とは多少異なっているものの、毎日の楽しさは負けず劣らず、自分も楽しいと思えていることを。
 抱き着いてきたメアリーがやけに嬉しそうに、甘えてくるものだから、男は胸の奥に温かなものが湧いてくるのを実感した。それが父性本能であることをほんのり自覚しながら頭を撫でていると、「いちおうノーチェも好きだよ」と呟き始める。

「でも、ベルお兄ちゃんの方が上かも」
「……そうなのか?」
「…………やっぱりどっちも好き」

 顔を上げて、ノーチェにはナイショね、と口許に人差し指を当てる。普段仲が悪いとは言い難いが、素直になりきれない兄妹のような態度の二人に、思わず男は笑ってしまう。
 二人だけの「内緒」を約束しながら、まだ戻ってこないねぇ、なんてメアリーが呟いていた。

◇◆◇

「あの頃の私は本当に子供だったなあ」

 思い出を懐かしむよう、メアリーは呟きを洩らした。
 小麦畑のように輝く金の髪。爛々と輝いていた瞳は大人びて、所作のひとつひとつがまさに淑女へと変わっている。幼少期の服装をいたく気に入っているのか、大人になってもなお変わらない服装に、男はほんの少しだけ安心感を抱いた。
 あの話から早くも数年が流れた。クレーベルトは故郷を追われ、女王≠フ国へ降り立った。この世界の住人ではない男にとって、メアリーやノーチェが元いた世界に降り立つことは難しく、すぐには体が慣れることはない。少しずつ時間を積み重ね、体を生者と同じように保つことが、男にできる唯一のことだ。
 そんなクレーベルトに合わせるように生きているメアリーやノーチェには、到底頭が上がらないほど。時の流れにすら乗れず、成長していくメアリーを他所に、クレーベルトは一切外見が変わらなかった。
 ――化物たる所以。元より死者が生者と同じように生きることなど不可能だ。
 それなのに彼らは、相変わらず男と同じように過ごすものだから、込み上げてくるものがある。感動か、それとも涙か。人間のように感情を持つことに、クレーベルトは小さく微笑んだ。
 以前と何ら変わりのない――しかし、以前よりは表に出てきた表情に、メアリーは小さく笑う。

「ベルお兄ちゃんも思うでしょ。あの頃の私、小さかったなぁ」

 ティーカップをソーサーに置いて、いつぞやと同じクッキーを一口。サクサクとした食感を持つ芳ばしいそれに、「うん、美味しい」と彼女は笑う。少女でなくなったとはいえ、その顔にはあどけなさの残る笑みが浮かんだ。

「俺からすれば今でも小さいな」
「それは言い過ぎだよ〜」

 白いテーブルに肘を突いてメアリーは頬を膨らませる。そういった言動にこそ少女の一面が隠れているということに気が付いていないのか、それともわざとなのか。どちらにせよクレーベルトにとって、メアリーは子供のひとりだった。

「あの話を蒸し返すということは、理解したのか?」

 ふてくされたように頬を膨らませるメアリーを他所に、クレーベルトはミルクティーを飲む。自分好みに仕立てあげたそれに舌鼓を打ちながら、クッキーに手を伸ばすと、メアリーが「そうだな〜」と言う。

「少なくとも、ノーチェがいるベルお兄ちゃんに訊くことじゃなかったような気がする」
「ははは」

 少女は大人へ。知らなかったことも知り、容姿もすっかり変わってしまった。胸のうちに潜む悪意は相変わらず姿を変えることはないが、表だって出てくることは少なくなった。影のように密やかに、相変わらず「友達」はメアリーに従い、静かに命を刈り取る。
 彼女のような存在は暗殺によく向いている。無邪気な笑顔で対象の警戒心を解き、気を抜いたところで「友達」の仲間入りを遂げる――随分と聡明になったものだと、男は感慨深く思えた。
 あの場所にいたらもっと役に立てただろうに、だなんて思うのは、元ボスの性ゆえか。
 チョコチップクッキーを口に運び、咀嚼をする。今日も相変わらずの晴天で、あの頃のように程好い日光が差し込んでくる。緑から赤へ移り変わる木々を横目にじっとメアリーを見れば、多少の変化もクレーベルトには分かった。

「『好きな人』は分かったか」

 何の気なしにそう呟いてみれば、メアリーは軽く頷いた。

「分かったよ。確かに毎日が楽しい。些細なことも嬉しく思えちゃうもん」

 ほんのり想いを馳せるように空を仰ぎながら、メアリーは背筋を伸ばす。嬉しいやら楽しいとは言っているものの、その表情はどこか思い悩んでいるようだった。

「ただなぁ、どうしても悩んじゃう。どうやったら伝わるかなとか、離れないでくれるかなとか。お友達みたいな目には遭わせられないから……」

 うぅん、と唸りながら眉間にシワを寄せる姿は幼い頃と変わらず。ほんの少し顔立ちが整った程度で、クレーベルトの感情も、向ける気持ちも揺らぐことはなかった。
 その姿も、様子も、メアリーにとっても何ら変わりのないボスのままで、彼女も確かに安堵を胸に抱くのだ。
 だからこそ、軽率に「どうしたらいいかなぁ」と問い掛ける。男がまともな思考を持っているかも定かではないというのに、一心に愛を受けている当の本人がどのような思考を持っているか知りたいという好奇心だけで、メアリーはクレーベルトの様子を窺った。

「ベルお兄ちゃんは多分、何の心配もいらないんだろうね」
「まさか。心配だらけさ。いつだってあれが離れることを想像するよ」
「そんなことある?」
「あるかもしれないだろう?」

 笑いながらポツリポツリと話していく男のそれは、向こうでは全く見たことのない顔だった。心配と、不安。愛しさと寂しさが入り交じったような、妙な顔付きだ。人間ではないというだけで常につきまとう不安に、いつも押し潰されそうになるだなんて聞いて、メアリーは「ふぅん」と生返事をする。
 やはり到底思えないのだ。不安に駆られているなど。余裕綽々といったように、テーブルに肘を突いてほくそ笑む男が、いつまでも恐怖に苛まれているなどと。
 「じゃあ離れるんなら手離しちゃうの?」そう試しに呟いたメアリーに、男はよりいっそう深く微笑みを浮かべる。ほんの一瞬、男の両目に獣のような鋭さを見た。

「俺が易々と手離すと思うか? 俺は頭の先から爪の先まで捧ぐ覚悟だ。故に、あいつの頭の先から爪の先まで――血肉も、骨も、全て俺のものさ」

 こんなにも愛されて、こんなにも自分を駄目にしたノーチェには、それ相応の対価を払ってもらわないとな。
 そう言って笑うクレーベルトに対して、メアリーもくつくつと笑い、「そうだねぇ」と言うのだった。

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