小さくても稀に聴こえてくる歌。私はそれを頼りに何度も居場所を突き止めて、彼を遊びに誘ったことだろう。
 
 事実上、齢十六を迎えたとき、灯籠屋敷から迎えが来た。丁度両親が家を空けていて「行ってきます」の声も掛けられなかった少女は、振り向くこともせず彼らの背を追い掛ける形で島へと赴く。
 白い髪に花が咲く深海の瞳。周りとは一風変わった人間であることを、齢十で成長が止まった少女は理解する。
 周りは和服を着たような人間――閻魔様と謳われる存在が数多く居た。自分の故郷では全く見掛けなかった分、酷く新鮮な気持ちだったことを少女は覚えている。
 息を吸えば仄甘い空気が肺に積もった。瞬きをすれば太陽に煌めく若草と、青い空が瞳に映る。自分に与えられた使命、世界を脅かす存在については十分に理解しているつもりだが――どうにも精神年齢は止まってしまったようだった。
 新しい環境下で、視界に映るものたちがあまりにも新鮮で、少女は目を輝かせる。
 寂しい、という感情を忘れたわけではない。そんな思いに囚われていては先へは進めないのだから。父や母に別れを告げることは叶わなかったが、使命を果たすことで間接的に両親を救えるなら、前向きになれる心持ちをしているのだ。

 ――強いていう不安なら、友達ができるかどうか、だろう。

 灯籠屋敷へ招かれた後、与えられた自室で少女は頭を悩ませていた。如何せん、周りの閻魔とは違って、自分の身なりが酷く浮いているように思えるのだ。
 着物のような和服ではなく、花のように咲いた洋服。色も白く、名前の響きなど、比べるまでもないほど。このような違いが浮き彫りになって、周りとの距離が縮められないことが、少女にとって大きな不安だった。

 ――そんな不安も杞憂となる。

 紹介――というよりは屋敷に来てから数日目にして、気になっていた閻魔に少女は「ねえ、」と声を掛けた。

「ね、私、フロルネージュって言います。あなたは一人なの?」

 数十センチ高い背が微かに丸められる。軽く落ちた黒髪に、僅かに微笑みを浮かべている青年に、少女は勇気を振り絞って声を掛けたのだ。
 少女の問いに彼は肯定を示すように小さく頷いた。もしかしたら、少女が見掛けていたときにだけ一人でいることが多かったのかもしれない。少女の問いに現状一人であることを示していただけかもしれない。
 ――それでも、今の少女には彼の答えが何よりも嬉しかった。
 少女は落ち込みかけていた表情に花を咲かせると、「よかったぁ」と言った。直後に口を手で覆い隠し、「よかったはよくないかも」なんて言って、彼に謝罪の意を示す。頭を下げて「ごめんなさい」と言えば、彼は気にしていないと言いたげに首を横に振った。
 話をすることができない不便な人なのだろうか。
 ちらりと上目で彼の顔を見るが、その表情はただ薄ら笑みを浮かべているだけ。生憎表情を読み取ることはできないのだが、その事実が、少女にそれとなく確信を抱かせる。
 ああ、この人の無表情はこれなんだ。
 仮面で顔を隠すように存在している作り笑い、というよりは、もっと体に染み着いたような感覚を少女は得た。昔から人一倍聡い子、なんて言われていたのが随分と懐かしく思えるほど、少女の胸は高鳴り続ける。
 初めて話す相手に対する緊張感が、少女の喉の奥に詰まり続けた。

「あ、あの、あのね……私、あの……最近こっちに来たばっかりで、」

 話し相手がいないなんて言えば、目の前の青年は嗤うのだろうか。
 よかったらお友だちになってほしいなあ、なんて言ってみれば、彼は小さく「ともだち」と呟きを洩らす。

「え、あ! お喋りできるの!?」

 驚きと興奮。喉につっかえていた緊張感など吹き飛ばすほどの勢いに、少女自身が驚きながらも彼に迫る。
 閻魔特有の成長の停止が未だに来ていないのか、いくらか高い背はほんの少し驚くように体を仰け反らせた。
 喋れないこともないと彼は曖昧に告げると、少女の瞳がキラキラと輝く。意思疏通が簡単にできるのだと知って、子供特有の好奇心が抑えられないのだ。

「あなたは何てお名前なの?」

 彼の様子など露知らず。少女は彼に対して詰め寄ると、青年は小さく答える。

「……しゃうがい」
「しゃうがい?」

 彼の答えを少女が繰り返す。名前の響きからして、彼の名もまた少女のものとは違うのだろう。
 「どうやって書くの?」と試しに問い掛ければ、彼は懇切丁寧に少女へと教えたが、いまいち理解している様子もない。控えめな眉を顰めて小難しそうな表情を浮かべる少女に、彼は小枝を一本手に取って地面へと向ける。
 地面に掘られた「清」と「骸」の文字に、少女が「これでしゃうがい?」と問えば、彼は小さく頷いた。

「ほぁ〜! 格好いいお名前だねぇ、清骸!」

 格好いいねえ、だなんて言葉を何度も繰り返し、少女は花のように笑い続ける。初めから呼び捨てなんて厚かましいことかと思ったが、彼、清骸からの指摘は飛んでこない。そのことをいいことに、少女再び「清骸、」と名前を呼ぶと、高揚した頬を向けながら「一緒に遊びませんか!」と彼に言った。

◇◆◇

 歌が聴こえる。
 晴れ渡る日の下、廊下を駆けながら少女は耳を澄ませる。拙い、低い声色の歌を頼りに廊下を駆け回った。道中忍や鬼種に会って注意を受けたものの、「ごめんなさい」と言ってから走り回ることも少なくはない。
 どこにいるんだろう。少女は呟きながら走り回ると、少しずつ歌声が近くなってくるのが分かった。きっと、こっち。そう思って走れば走るほど、人気の少ない場所にまで来てしまっていて、時折心細く思えてしまう。早いものであれから数年経った今でも、少女の胸には寂しさが残っていた。
 ――それでも折れない気持ちでいられるのは、仲良くしてくれている同種がいるからだろうか。
 駆け回った後、一際大きく聴こえてきた部屋の襖を開けて、少女は大きな声を放つ。

「清骸〜! 見付けた!」
「……おねえちゃん」

 ぽつりと呟かれた言葉に、少女は「おねえちゃんだよ!」と笑う。

 以前、年上の筈の彼に少女の方が年上のような発言を繰り返した結果、どうやら彼には兄がいるらしい発言を受けた。
 兄様、と呼ばれた拍子に少女が振り返ったが、背が伸び続ける彼の顔を見るには一苦労で。首が痛くなるなぁ、なんて思いながらも、少女は「違うよぉ」と言う。

「知らないの? お兄さんは男の人、私は女だから強いていうなら、お姉ちゃんなんだよ!」

 一向に成長しない胸を張って、少女は笑った。私の方が年下だけどね、と後に付け足された言葉は、彼にとって何の意味も成さないようなもの。歳など関係なく少女を「おねえちゃん」と呼べば、少女は深海の瞳を瞬かせてから「おねえちゃんだよ〜!」と言った。

 以来、彼は少女のことを姉と慕い、少女の後を雛鳥の如くついて回る。大抵は少女が遊びに誘って彼は付き合わされているようなものだが、彼自身文句のひとつも溢したことがない。
 そんな清骸を少女はいたく気に入っていて、何をするにも彼と一緒の光景を想像し続けた。パフェを頬張るのも、晴れた日に外で駆け回るのも、相手に迷惑かもしれないと思いながら。
 歌が聴こえた日なんかは、少女が彼を探し当てる所謂かくれんぼなんてものを楽しんでいて、彼を探し当てた際には必ず「見付けた」と言うようになった。
 そんな少女の気持ちなど露知らず。彼は少女に手を引かれてゆっくりと日の下へ下りる。縁側を越えて踏んだ若草にはほんの少し、露が煌めいていて目が痛む。同様に少女の髪も、光に当てられて輝いて見えるのを、彼は気にせずに半歩後ろで付いて回った。
 「今日はどこに行こうか」そう言って足軽に歩く少女に対して、清骸は無言を返す。どこでもいい――そう言ってもらえているようで、少女は不安もなく歩を進めることができる。
 露が輝く草木や花を眺めてお茶でもしようか。それとも最近案内してもらった和菓子が美味しい店に向かおうか。「清骸は和菓子が似合いそうだね」なんて笑って言う少女に、彼は微笑んだまま「そう」と呟く。
 どこに行こう、何をしよう。
 そうしている間に少女の歩幅は少しずつ小さくなっていって、しまいには肩で息をする始末。はあはあと乱れた呼吸が聞こえてくる頃、彼はゆっくりと少女に手を伸ばす。

「わ! あ、えへ、ありがとう!」
「……疲れたら言って」

 露骨に疲労が見え隠れしている少女の体を、清骸は軽く持ち上げて片腕で抱き抱える。すんなりと持ち上がった自分の体と彼の顔を見比べて、「大きくなったねぇ」なんて少女は口を洩らした。
 十六になる前から止まってしまった少女の体は、十六を越えた彼に軽々と持ち上げられてしまった。そのことが何気なく嬉しく思えたと同時に、こうして置いて行かれるのだろうという寂しさが、少女の胸に募った。

「ん〜……きれいなもの見たいから、お花とか見に行こうよ」

 片腕に抱かれながら少女は遠くを指差して笑う。寂しさなど気付かないように。青い瞳が、彼が頷くのを見届けたあと、遠くの空を見つめた。
 それを、微笑んだままの彼に見られてしまっていたようで、不意に彼が「……何かあった?」なんて囁くように呟く。

「何で?」
「…………何となく……?」

 彼の不意の質問に少女は疑問で返すと、彼もまた曖昧な答えを返した。
 何にもないよ、なんて言って何食わぬ顔をする少女ではあるが、何もない――こともなかった。

 数日前に無理を言って家族の様子を見てもらった結果が手紙として報告された。一人娘だった少女は家族が寂しがってないか、無事であるかの確認をしたかったのだ。
 結果は――何とも言えないものだった。少女の存在を上から掻き消すように、見知らぬ子供が少女の両親と仲睦まじく暮らしているという旨が、手紙には記されていた。その子は閻魔ではなく、純粋な人間で、彼らの愛情を十分に注いでもらえる資格を持っていた。
 幼い少女にその事実は酷く苦しく、もらったそれを手元から落としたのを、少女は今でも覚えている。かさりと畳の上に落ちた紙切れ。胸のうちを表したかのような雨の音。なくなった自分の居場所を求めるよう、嗚咽を洩らした。
 そんな少女に追い討ちをかけるように、契約した鬼には首元を強く噛まれる事態に見舞われる。
 吸血で成される契約だと重々承知の上ではあったが、強烈な痛みに耐えられるほどの精神力と、忍耐力なんてものは持ち合わせていない。じりじりと焼けるように痛む傷に、少女はただ涙を溢す。
 討伐に出る度に褒美として同じように飲ませろと、鬼は得意気に言っていた。
 閻魔である少女にザイは触れられない。ザイを気絶させられるのは鬼種だけ。苦戦の末に求められるのが血肉ならば、応えるべきなのだろう。
 ――ほんとうに、そうしなきゃいけないのかな。

 ――なんて個人的な事情を、慕ってくれる彼に打ち明けるなど、厚かましいにも程がある。隠せている自信はないが、少女は胸のうちが見透かされたような気がして、思わず唇を閉ざす。
 何でもないと言った割には良い顔もできない。こんな姉を、彼は見限ってしまうのだろうか。
 そんな不安とは裏腹に、彼は小道を歩きながら「そっか」と小さく呟いて、それ以上に言及はしてこなかった。
 見限られたか、それとも平気だと思われたか。
 どちらにせよ彼は少女の遊びに付き合ってくれるようで、少女を抱えたまま綺麗な景色を求め続ける。そんな彼にいつまでも甘えていられないと、青い瞳が軽く俯いていた。

◇◆◇

 数百年が経った夕暮れ時。たった一人で小道を歩く少女の傍らに、清骸の姿はない。討伐の関係によりいつからか会うことも少なくなった二人は、遊びにも出掛けることはなくなった。
 燃えるような赤い空が少し悲しく見えるなどと思っては、少女は小石を蹴り上げる。コン、と小さな音。つまらない、とぼやく少女の声。清骸にもやむ終えない事情があるのだと思ってはいるのだが、いかんせん少女は友達の作り方が分からないのだ。
 いつしか年齢は三桁を越え始めたが、置き去りにされた体と精神は一向に大人へと変わる気配もない。たった一人の、自分を姉と慕う弟とまた話ができることを、ただ望んでいるだけだった。
 少しだけ叱ってほしいと思っていた。数百年の間に自分が足手まといになってしまった討伐で、契約していた鬼を数回亡くしてしまったことを。どうにも鬼に対して運がなかったが、その中には心優しい者もいた。
 ――全員もれなく亡くなってしまったのだ。足手まといな自分を、同じ閻魔として少し、叱咤してもらいたかった。

「えっ」

 ――そんな少女に伸びた手がひとつ。無防備な少女の手を掴んで、強い力で少女の体を引っ張り始める。
 くんっと体が倒れるような感覚。咄嗟に手を引き戻して足を踏ん張ったが、敵わないところを見れば相手は男であり、大人でもあるのだろう。

「な、なに……」

 振り返って見たその顔は、笑顔だか無表情だかも分からなければ、鬼か人間の類いなのかも判別がつかなかった。ただ分かるのは自分より遥かに背が高いこと。そして、弧を描く口許から、鋭利な八重歯が覗いたことだった。
 ぞくりと背筋を走る悪寒。なくなった筈の首の傷が、ずきりと痛み始めたような気がした。
 唯一の話し相手の存在がいかに大きかったのかを少女は実感する。話をして、遊んで、気を紛らせていた時間が、今まで抑えていた鬼に対する恐怖を押し殺してくれていたのだろう。
 それが、今になって腹の奥底から這い上がるように背筋を這う。血の気が引いて、手足が冷たい。喉が渇く。目の前が夕日と相まってチカチカと瞬いて、息が止まる。
 引っ張られる体が抵抗もなく、向こうへ。痛みが、体へ。目の前の景色が揺れる。ゆらゆら、ぐらぐらと。

 だれか――

 ――ぱちんと音が響いたような気がして、少女は瞬きを繰り返す。気が付けば少女は自分の部屋にいて、柔らかな布団をかぶり、体を隠している。動悸は速く、呼吸は乱れたまま、汗が染み付いて気持ちの悪い服を、くしゃりと握り締める。
 自分がどういった経緯で部屋へ戻ったのか、少しも記憶がなかった。ただ分かるのは、酷い喉の痛みと強い恐怖。居場所をなくした挙げ句、誰かも分からない人物に何かをされそうになった、という事実が少女の思考を狂わせる。

 喉が痛い。血は出ていないのに、呼吸ができない。どうして私はこんなことに巻き込まれてしまっているのだろう。
 こんな目に遭うなら閻魔様になんてなりたくなかった。変な目で見られたくなんてなかった。親のたった一人の娘として生きていたかった。目の前で誰かが死ぬのを見たくはなかった。
 大きくなりたかった。もう誰にも置いて行かれないように。

 もうなにもみたくない。いたいのはいや。ひとりぼっちもいや。おとなになりたい。おとなになれない。だれにもしんでほしくない。もうみたくない。みたくない。いや。

 ――そうして、彼女はゆっくりと目を覚まし、朝日が昇る空を見つめた。深海の瞳に、()が移ろう。

「清々しい朝ですね」

 何の気なしに、彼女は独りごちた。

◇◆◇

「――清骸?」

 懐かしいと思ってしまったその面影に、彼女は落ち着いた声色で名前を呼んだ。最後に見た日よりもいくらか背が伸びたように見えるが、暫く目にしていなかった所為で感覚が鈍った可能性もある。そもそも人違いの可能性だってある。
 声を掛けるべきではなかっただろう。
 そう思い眺めていた景色を上から下へと下ろしかけると、不意に頭上から機械的な声が彼女へと降り注ぐ。

≪おねえちゃん。久し振りだね〜元気にしてた?≫

 顔を上げれば昔見たものと同じ笑みが向けられていた。
 首が痛い。――なんて思って見ていると、彼は思い立ったように膝を曲げて、彼女との目線を合わせてくる。こんなにも差が開いてしまった彼女を、相も変わらず姉だと、彼は言った。
 その事実に彼女は小さく微笑みを浮かべる。彼は変わっていない。流石に雛鳥のように後をつけてくることはなくなっただろうが、微笑みで飾った無表情も、言葉の柔らかさも、何ひとつ変わってはいなかった。
 変わったのは彼女の方だろう。それを察してか、彼は首からぶら下げている端末から、言葉を紡ぐ。

≪どしたの、その表情。おねえちゃんも怪物になりたくなった?≫

 そうしたらお揃いだね、なんて、冗談で言っているのかも彼女には分からない。ただ、このやり取りが妙に心地好くて、彼女は「そうね」と呟く。

「怪物になりたいのかもしれない」

 本気か、冗談か。それすらも自分で判断ができないまま紡がれた言葉に、彼がほんの一瞬だけ、驚いたような気がした。

≪なれるといいね、お互い≫

 彼はもう、自分の唇を開くことはないのだろうか。出会った頃、顎が可笑しくなるから、なんて理由で話をしようと持ち掛けたのを、彼女は覚えている。それが今では見られないものだから、ほんの少しの心配を胸に、彼女は彼の頭に手を伸ばした。

「かわいい私のおとうと。あなたは、『私』の『おとうと』でいてくれたら、……嬉しい」

 ゆっくりと黒髪を撫でて、ちゃんとお喋りもしてね、と口を添えれば、彼は「……うん」と答えた。

 安心感がある。だから私は、子供でいられる。――なんて少し、大袈裟な話でしたかね。

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