鬱陶しい梅雨が明けたのは、つい先日のことだ。
 重苦しい鈍色の空が一変して、白い雲と青い空が広がっている。じわじわと蝉が鳴き喚き、日光はこれでもかと言うほど大地を照らしてくる。室内の体感温度など、外に比べれば何てことないのだろうが――換気のために開けられた窓から、生温い風が吹いて頬を撫でた。
 夏休み前の登校も残すところ十数日。与えられる課題の数は量を増したようだが、気にするまでもない。――そんな話題を繰り返すのが、クラスの連中なのだから、彼は小さく、気が付かれないように溜め息を吐いた。
 暑い夏の季節。高校だというのに存在する、人気でもある水泳の授業は、今回彼の授業内容にはなかった。午後イチで鳴り響いたホイッスルの音に、どこかのクラスが水泳の時間を楽しんでいるのかと思いを馳せる。

 じりじりと灼熱の太陽が大地を焼く昼下がり。冷房の効いた移動教室先で、奇しくも自習に見舞われた柊透琉は、窓際の席で景色を眺めていた。
 午後イチの授業――且つ自習ということも相まってか、昼前の賑わいなど欠片もない。一定数以上の人間が机に突っ伏して、各々が各々の寝息を立てているから滑稽である。必死に勉強に勤しんでいるのは片手で数えられるほどで、起きていても数人は談笑しているのだから、よっぽどだ。
 彼――透琉とて眠気がないわけではない。腹も満たされてしまった昼下がりでの授業は、基本的に強い眠気を感じることが殆どだ。
 それでも透琉にとって「勉強」は、やって当然のもので、やらないという選択肢など存在しない。夏休み前ということもあって、期末のテストが近いのだ。それに備えなくてどうしろと言うのだろうか。
 勉強や努力はいい。積み重ねてきた結果が、目に見えるものになって返ってくるのがよく分かる。努力は実を結ぶとはよく言ったものだ。初めこそ褒められて嬉しかったものが、次第に当たり前になり、酷いものを取れば怪訝な顔をされる。親の顔色を窺いながら生きていくのも馬鹿らしいと思うのだが――、達成感溢れる勉強が、彼は嫌いではない。
 ――しかし、透琉も一人の人間だ。強い疲労を感じていれば、うつらうつらと船を漕いでしまう。机に肘を突いたのが間違いだったのか、手のひらに顔を載せた時点で手遅れだったのか。すっかり静まり返った教室の中で、生温い風に撫でられながら、重くなる瞼に抗う。
 閉じかけていた瞼をハッと見開いて、また閉じかける。時折意識が飛びそうになって、堪らず顔を顰めてみるが、やはり眠いものは眠いのだ。
 水泳がなかった分、体力の消耗は少ない筈なのだ。だが、ここまで眠気に襲われてしまうとなると、気温が原因なのかと疑ってしまう。目の前が暗くなって、心地好い眠気に身を委ねてしまえば、楽になれる気がして――

「……おい」
「――っ!」

 ――不意に掛けられた声に、透琉は肩を震わせて目を覚ました。
 ガタン、と机が揺れる。驚いた拍子に肘を角にぶつけてしまったようで、痺れるような、強烈な痛みが腕を襲った。思わず「いってぇ……」と言葉を洩らしたが、それを聞く人間はいなかった。
 咄嗟に辺りを見渡したが、気が付けば誰も彼もが眠っているのだ。

「眠そうだから声掛けたけど、まずかったか?」

 窓際から放たれる声に透琉はそっと目を向ける。
 視界いっぱいに映るのは、誰がどう見ても奇抜とも言える髪色だ。白髪の地に躑躅色のメッシュが不規則に入っている。初めて見たとき染めたのかと思ったが、本人曰く地毛なのだから、不思議なことがあるものだ。
 透琉は掛けられた言葉に「いや、」と首を横に振る。人の目がない以上、余計に猫をかぶる意味などない。ただ素の表情を出すように、溜め息がちに「助かった」と言えば、それが――川端戮闍が「そうか」と笑った。
 子供のような笑みだ。つり目がちに弧を描く目が、普段の様子からは見られないものだと知っていて、ガキっぽいな、なんて思う。紫がかった赤色の瞳に、どこか人懐っこさが見受けられる。一体いつからこんなに仲良くなったんだか、と疑問に思って、透琉は微かに頭を悩ませた。

「そっち、どうよ。涼しい? 今何してんの?」

 窓越しに語り掛ける戮闍は、軽く室内を覗いたかと思えば、ちらりと透琉の顔を見る。他のやつらは寝てるけど、なんて言いたげな目だ。時々その目が自分ではない何かを見ていることを、透琉はそれとなく気が付いている。それでも口にしないのは、単純に恐ろしいからだ。
 ――とはいえ、今の戮闍が見ているのは何かではなく、透琉だ。その証拠に視線が交差する感覚――簡単に言えば、目と目が合っただけ――を得て、悟られないよう、小さく息を吐く。何もいないようだ。

「移動教室で急遽自習。お前こそ何してんだ?」

 気を取り直して会話を続けると、戮闍はにこにこと頬を緩めながら「サボり」と言った。
 彼のサボり癖は今に始まったことではない。奇抜な頭のお陰で根付いた「不良」の印象は、いつしか戮闍の言動にぴったりと当て嵌まる言葉になっていた。彼は数々の授業を抜け出して喧嘩に没頭する節がある。それを経て透琉は戮闍に出会ったのだが、いい出会いだとは言い切れないものだった。
 試しに「何の授業なんだ、そっち」と訊けば、戮闍は瞬きをしたあと、「水泳」と答えた。

「……水泳?」
「水泳」

 戮闍の答えに、透琉は僅かに目を見開く。驚きのあまりおうむ返しをすると、戮闍は小首を傾げながら不思議そうに透琉の顔を見上げていた。
 水泳と言えば人気の授業だ。男女問わず、歓声を上げてしまうほどに。燦々と降り注ぐ太陽の光を後目に、冷えた水に体を浸すことへの楽しさが、拍車を掛けているのかもしれない。
 特別水泳が好きなわけではないが、特別嫌いでもない透琉は、「何で?」と言った。

「水泳って言ったらだいぶ楽しめそうな気がするんだけど」

 その純粋な疑問は、戮闍の授業態度によるものだ。
 時折見掛けることのある戮闍の態度は、普段こそは良くないものの、唯一欠席したことのないものがある。それは、体を動かす授業だ。相手が体育で透琉が移動教室の場合、体操着に着替えた戮闍が楽しげに校庭を歩く姿を見掛ける。案外彼のことを気に掛ける者もいるようで、稀に肩を組まれてたり、話をしていたりするのは今や珍しくはない。
 球技大会なんてものがあった日は、極力喧嘩を控えるほどだ。――とはいえ、普段の行いからろくに参加など認められてはいないのだが。参加できている場合は、それはそれは楽しそうに――少年のように笑うのだ。
 ――そんな男が、体を動かす筈の水泳をサボっているのだ。梅雨の明けた蒸し暑い真夏日和――こんなにもうってつけな日があるというのに、何故参加しないのか。
 そう疑問を抱いていたとき、戮闍は不思議そうに瞬きをしてから「傷」と呟く。

「傷、染みるんだよ。ほら、安静にしてたら治るけど、動いてたら治らねぇだろ? 特に俺はじっとなんてしてられないからな。閉じたもんも開いちまう」

 確かに水泳は好きだけど。そもそも傷痕なんて見られたくないだろ。
 ――そう透琉に告げた男の顔は、悲しさなどこれっぽっちも感じさせない笑みを浮かべていた。

 ああ、そうか、と透琉は思う。普段から喧嘩に明け暮れ、体を動かしているからか、時折その事実が頭から忘れ去ってしまう。
 戮闍の背中には抉れるように刻まれた傷痕が、大きすぎず小さすぎず刻まれているのだ。本人曰く高いところから落ちた、とのことだが、何をどうすればそうなったのか、透琉には理解し難い。――だが、その傷が本人にとっても決して良いとは言えないものであることは分かっている。
 透琉本人に戮闍のような傷痕は存在しない。だからこそ、戮闍に与えられる傷の痛みがどの程度なのかも理解できない。倒れて踞る姿が目に焼き付いて離れなくなるのは、ふとしたときに思い出してしまうからだ。

 そんなわけでサボってんの。戮闍はそう言うと、踵を返した。半袖のシャツの下にTシャツを着ているようだが、その下には包帯でも巻かれているのだろう。本人は水に浸かりたい筈なのに、それを我慢する背中が酷く寂しく見える。
 俺も焼きが回ったかな――そう思いながら「どこ行くんだ」と問えば、戮闍は振り向きながら「何言ってんだ」と言う。

「俺みたいな不良が、透琉みたいな優等生と馴れ馴れしく話してたら周りが怖いわ」

 くつくつと笑って「根詰めすぎるなよ」と言いながら、戮闍はどこかへと向かって歩いてしまった。炎天下でありながら日に当たって自分と話していた男に、彼は多少得体の知れない感情を抱く。
 出会ってから長いとも、短いとも言い難い付き合いだ。それを、優等生や不良の言葉で片付けられるのは何故だか酷く不快だった。
 帰りにまた文句のひとつでも言ってやろう。――そう思っていると、大きくチャイムが鳴る。授業終了の合図だ。眠りこけていた周りの同級生はもそもそと動き出し、思い思いに片付けを始める。
 あまり進められなかったな、なんて思いながら透琉も片付けていると、不意に声を掛けられた。

「なあ、柊。夏休みさ、海とか行かねぇ?」

 ――そう声を掛けてきたのは、クラスメイトの一人だ。付かず離れずの絶妙な関係を保っているが、戮闍や普段から付き合いのある人間と同じように接したことはあまりない。そんなクラスメイトが、夏休みに出掛けようと誘ってくる。
 海、海か。そうぼんやりと思案を繰り返していると、何気なくひとつ、考えが浮かぶ。

 ――海なら、海辺なら、足くらいは浸かれるような――。

「……ごめん。課題とか片付けないと。うち、厳しいから」
「……そうかぁ。柊がいればまた楽しくなると思ったんだけどなぁ。また今度誘うわ!」

 邪魔してごめんな。
 そう言ってクラスメイトは自分の友人へ話し掛けに行く。海の家だとか、女がどうとか。肝試しが何だとか――そんな会話を聞きながら、透琉は一人、

「…………海か」

 ――とだけ、呟いたのだった。

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とある夏の話


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