――孤独なひとなのだと、幼いなりに思いました。
人間の八つ当たりの対象となっていた僕は、よく人の少ない場所へと赴くことが主でした。ろくにご飯にもありつけず、弱っている僕を見て笑うものですから、心底腹が立つというものです。なので、僕は森の深くに行くことにしました。
当然森の中ですから、獣に喰われて終わる命かと、覚悟すらしたものです。
――ですが、僕の視界に映ったのは、静かな紫の色を湛えたひとりの獣でした。
僕は彼を「兄」と呼び、慕うことにしたのです。
理由はありません。ただ、寂しそうな目が、どこか遠くを見ているものですから、どこにも行かないで欲しかったのだと思います。兄様の隣は酷く心地好く、心が落ち着いたような気がしたから。こうして呼べば、離れないだろうと思ったのです。
兄様はやけに不思議そうな顔をしましたが、僕を突き放すことはありませんでした。寧ろその端整な顔立ちで軽く微笑んで、「私といて何が楽しいのだ」と僕に問い掛けます。
僕は
「兄といることに嫌悪を感じる弟が居りますか」
と鳴いて、兄様の手元でくるりと丸くなり、眠りに就きました。
僕と違って兄様は獣の他に、人間と同じ形を取れるものですから、ほんの少し羨ましいと思っていました。しかし、兄様は生きることは厄介だと言いたげに、溜め息がちに遠くを見つめるのです。
たとえ僕が居たとしても、癒されることのない兄様の孤独に、僕は少しばかり腹が立ちました。兄様を苦しめるその感情が、僕に移ればいいのに、と何度も星に願いました。
兄様と共に過ごす時間は、僕にとって大変幸せなものだったのです。物心ついた頃に親きょうだいから引き離された僕は、兄様だけが頼りだったのですから。
何年生きれば兄様と同じ姿になれるでしょう。百年も生きたら兄様の隣に並ぶ資格が僕にも与えられるのでしょうか。
そう思いながら僕は、昼間は人の通りの多い街を歩くのです。ご飯を求めてふらふらと。兄様が褒めてくれた白い体を丁寧に手入れして、兄様の手元で眠る夜を迎えるのです。
日中は私に近寄らないでくれ、と兄様は言いました。その約束を守り、街中を歩いていたある日の事です。数人の子供と呼ばれる人間が、僕に鋭利な何かをちらつかせ、首根っこを掴んできました。
やだやだ、と僕は暴れ回り、沢山の血を流しました。頬や体に傷をつけられ、兄様の認める白い毛並みは汚れていきました。僕が暴れるのが楽しいのか、人間の狂気は増すばかりでした。
――やがて、僕に力が入らなくなると、人間は去っていきました。カランカラン、と何かを地面に捨てて、夕焼けの空を見上げながら惜し気もなく、帰っていきました。
ああ、夜が来てしまう。
そう思った僕は、力の限り立ち上がって一歩、二歩と歩みを進めました。目の前は霞んで、息は苦しくて。足元がふわふわと宙に浮いているような感覚にさえなりました。僕は歩いているのか、それとも夢を見ているのか、それすらも分からなかったのです。
――しかし、死ぬのなら。死ぬのなら兄様の手元がいいと思ったのです。
野良の割には綺麗な白い毛並みはなくなりました。それを、兄様は許してくれるでしょうか。不安を胸に抱えながら、僕は地面を蹴り続けました。
兄様はきっと僕を食べてくれることでしょう。森の中がやたら静寂に包まれるのは、恐らく兄様が色々な生き物を喰らったからでしょう。
ならばせめて、僕は兄様に喰われて一部になって、世界を見渡したいと思いました。この醜悪な野良猫が兄様の傍に居たことを、兄様には忘れてほしくない身勝手な考えです。こんなこと、兄様は許してくれないでしょう。
兄様は僕を一度も弟とは口にしてくれませんでした。当然です。僕らは血の繋がらない、種族の違う生き物でしたから。
それでも僕は、温もりが恋しかったのだと思います。僕が生きている間だけ、兄様には兄になってほしかったのだと思います。そうして、兄様の孤独にも、消えてほしかったのだと思います。
――夜も更けた頃、僕は漸く兄様と会っている場所へ辿り着きました。兄様の姿は見えませんでしたが、待っていたら来てくれるでしょう。
僕は歩き疲れて、そのまま地面に横たわりました。酷く眠かったので、眠ろうとも思いました。
すると、兄様が僕の傍らに足を着いたのです。
兄様は僕を見付けるや否や、普段の柔らかな笑みなど消し去ってしまいました。ただ、驚くような、それでいて状況を理解できていないような顔をしていました。紫の瞳を丸くさせて、唇を微かに開いたまま僕を見つめています。
僕は兄様の姿を見られたことが嬉しくて、疲れきった体で尻尾を動かしました。ぱたん、とほんの少しでしたが、動かせました。
僕はもう死期を悟っていたので、胸の奥から競り上がる言葉を押し殺せませんでした。
――兄様と、一緒にいられて、僕は幸せでした。
――確かそう呟いたかと思います。
直後、僕は酷い眠気に襲われて尻尾すらも動かすことができませんでした。朧気な視界に、兄様の茫然とした顔がただ映ります。何もせず、ただ立ち尽くす兄様は、普段から血の匂いを体にまとわせていました。僕も、そのひとつになることが、最後の願いでした。
兄様は一度足を曲げたかと思うと、顔を覆いました。人の形を保ったまま、「あ……あぁ……」と声を上げたかと思うと、兄様は背を丸めました。
兄様、どうしたのですか。痛いですか。僕が代われたらいいのに。
そう思った直後――、僕の視界には黒い、黒い獣が大きな口を開けて僕を喰らいました。
ずきずきと痛む体に、僕は重い瞼を抉じ開けました。違和感のある視界に疑問を抱いていると、頭上から沢山の血が降り注いできます。あまりの唐突の出来事に、僕は目を向けました。すると――、兄様が僕をじっと見つめていたのです。
黒かった筈の毛髪に、白い毛髪がありました。傷ひとつなかった筈の体に、沢山の傷がありました。頬にあるそれを見て、「あれは僕の傷だ」と直感的に思ったのです。
そうして兄様は小さく言いました。
「――死に場所を探してくるよ」
そう言って兄様は、覚束ない足取りでどこかへと行ってしまいました。
目が覚めたばかりの僕は、体の違和感と、得体の知れない強い空腹に頭を悩ませていました。お腹が空いた、お腹が空いた、お腹が空いた――ただそれしか考えられないのです。
きっと、兄様はこのような空腹を体に宿していたのでしょう。毎日毎日それを満たしていたのでしょう。たった独りで、孤独に。
誰でもいい。誰でもいいから、兄様を幸せにしてあげてほしいのです。
――「死に場所を探してくる」と告げた兄様の顔に、笑みなどひとつも浮かんではいませんでした。
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黒い獣と白い猫2