――酷く飽いていたのだと思う。
 無気力で空を見上げる私の傍らに、小さな猫が寄り添った。白い毛並みに、長い尾。真昼の空のように澄んだ水色の瞳と、金に輝く瞳が穏やかそうに細められる。私は何も言うことがなかった所為か、猫は鳴きもせずに丸まって、すぅすぅと寝息を立てた。
 生きていることに飽いていた私は、その変化に多少の驚きを覚えたものだ。所詮、満たされることのない空腹に苛まれ続ける人生。息を繰り返して楽しかったことなど、ひとつとしてありはしない。
 そんな中で現れた変化に、私は小さく微笑んだ。

 何を思ったのか、仔猫は私を「兄」と称し始めた。
 艶やかで長い尾を私の手に絡ませて、くるくると喉を鳴らしながらゆったりと呼吸を繰り返す。満足に食事にありつけていないのだろうか――ほんの少し痩せた体に、骨が小さく浮いている。
 しかし、私のように空腹を訴えることはなかったのだ。
 名前のないその仔猫に私は、ただ「猫」と呼んだ。「私といて何が楽しいのだ」と問い掛けもした。私は猫に何かを求めていた試しはないが――、猫は私の問いに小さく首を傾げるのだ。

「兄といることに嫌悪を感じる弟が居りますか」

 にゃあ、とひと声。私の問いに答えた後、猫は私の手元でくるりと丸くなり、そのまま寝息を立てた。上下に動く腹部を見ると、生きていることを実感させられる。
 私に同類は居れど、血縁関係のない私にとってはその解は、不思議なものでしかなかった。
 しかし――、不思議と悪い気はしなかったのだ。

 生きることは空腹を満たすこと。終わりのない食事を続けること。
 増えすぎた人間を減らすために生み出された我らに与えられたのは、ただ喰らうことのみ。情も情けも不必要だとされているが、人間に近寄りやすいように与えられた姿は、多少不便さを感じていた。
 獣である私にとって、傍らに寄り添う仔猫は、種も違う決して関わり合うことのない存在だ。――それでも、食事を終えた後の時間で、話をするのは特別楽しかった。

 ――ある晩、私は普段のように仔猫の元を訪ねた。特に人気のない、木々に覆われた森の中で、私はあれと会うことが常になっている。言葉を交わさずとも、仔猫は私の元へ訪ねては、私の手元でくるくると喉を鳴らすのだ。
 それが今宵も訪れるのだろう、と私は小さく心を躍らせていた。俗に言う「幸せ」と言うものだろうか。仔猫と対話する時間は穏やかで、いくらか空腹が紛れていたような気がしたのだ。
 今日の話は何にしよう。随分と星が綺麗な夜だ。ぽつぽつと瞬くあの星々を眺めながら、綺麗な空だと仔猫は笑うのだろう。尻尾をピンと張り、やけに綺麗な瞳を瞬かせ、はしゃぐのかもしれない。
 ――そんな光景を思い浮かべながら、私は仔猫の元へと辿り着いた。
 ――忘れていたのだ。我々は、ある一定以上の感情を抱いたとき、それを剥奪されるということを。

 辿り着いた私の足元で、仔猫は虫の息だった。

 小さな体を切り裂いたような、生々しい痕。骨や内臓は見えていないが、赤い血が絶え間なく地面を染め上げていく。仔猫の向こうに転々と続く赤い痕跡があるところを見ると、これは意地で辿り着いて私を待っていたのだろう。
 動くように見えなかった尻尾の先が、小さく私の来訪を喜んだ。

 ――兄様と、一緒にいられて、僕は幸せでした。

 そう、小さく呟かれた言葉に、私は意表を突かれた。生き物を喰らうしか能がない私といられて、仔猫は幸せだと言ったのだ。小さく、小さく喜ぶように尻尾は動いて、腹が微かに動く。私のために生きようとした行動が見て分かる。
 だが、それも一瞬の出来事だった。
 ぱたりと地面に落ちたまま、真っ白だった尻尾は動かなくなった。じわじわと赤の浸食を許す毛並みが、艶もなくしたまま薄汚れてしまう。最後、私に言葉を告げるためだけに息を吸っていた腹も、次第に動かなくなった。
 私は初めて喪失感を得た。
 ゆっくりと命の炎を消していく小さな体に、私はただ茫然と見つめるだけ。今まで空腹しか得られなかった体が怠く、足元から崩れ落ちるような、妙な感覚。
 これを哀しみと知る頃には、私はひとつ、衝動に駆られた。

 仔猫の体は致命的な傷を負っているだけだった。頬と、胴体に切り裂いたような傷があるだけ。他に命を脅かすようなものは一切見当たらない。いくつか骨がやられたようだが、それは時間を掛ければ治るようなものだった。

 私は――仔猫と体の一部を入れ替えた。白かった毛並みに、私の黒が一際存在を主張してしまったことは、酷く申し訳なく思う。その代わりに、致命傷となったそれを、私の体に移すことに成功した。
 これでいいのだ。私はもう生きることには飽いた。空腹に苛まれ続けるだけの生き方など、何の楽しみもない。
 死に場所を探そう。身体中から溢れる血液をそのままに、私は意識朦朧とするそれに微笑んで、体を引きずった。
 あの猫なら生きていけるだろう。私の代わりに、生きてくれるだろう。

 ――流石の私でさえも、致命傷で歩き続けるなど無謀すぎたようだ。
 足が縺れ、そのまま地面へ倒れる。若草の香りが鼻を擽って、呼吸が浅くなっているのがよく分かった。その合間にも私の腹は空腹を訴えていて――

 私は、ちゃんと笑えていたのだろうか。

 ――満たされたことのない腹を抱えながら、私は眠りに落ちた。

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黒い獣と白い猫1


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