鏡の前で身嗜みを整える。
 髪を梳かして丁寧に二つにまとめ、制服のシワの有無を確認して、赤いリボンタイの形を整える。周りにはしっかり真面目に見えるよう、比較的装飾品の類いは身に着けないまま、ありのままの自分を晒け出す。髪を染めようなどという考えに至ったことはない。何せ、私に似合う髪の色は黒一色なのだから。
 スカートの襟は折らない。膝上の規則を守り、埃を手で払う。靴下の色は黒。本当は白でもいいんじゃないかと思うけれど、これも規則だから破るわけにはいかない。スクールバッグの中身を確認するためにファスナーを開ける。じぃ、と低い小さな音。銀色の口を開けたのなら、先にあるものをひとつひとつ見つめていく。
 女を意識させるために買った可愛らしいノート。ドット調の罫線がついた、表紙は可愛いピンク色のもの。シャーペンの滑りやボールペンでの書き心地は抜群で、私はこれを愛用している。
 次に確認するのは教科書の類い。全てを持ち歩いていては肩が凝ってしまうので、いくつか重いものは教室に置き去りにしておく。流石にテスト前の日に置き去りにしちゃうのはまずいかな。なんて苦笑しながら、バッグの中身を漁る。
 長財布は慣れなくていつも折り畳み式の小さなお財布。女必需品の可愛いハンドタオルと予備のナプキン。いつ会ってもいいように身嗜みを整えるための小さな手鏡。声を聴くための最新式の小さな盗聴機にGPS。いつでもその姿を収められるよう、持ち歩いているカメラと携帯の有無を確認して――「よし」と笑う。
 さあ、今日も普通より早く家から出て貴方に会いに行く。起床は七時。寝惚けながら跳ねた髪の毛を整えて、朝御飯を済ませて、ぼうっとしてから慌てて身支度をする。――ああ、昨日も遅くまでバイトしてましたもんね、と労りたい気持ちを胸に押し込めて、布が擦れる音を耳に聞き入れる。
 私は悠然と歩く。「行ってきます」と聞こえる低い愛しい声。玄関を開く音。慌てるように走る音。貴方はずっと同じような時間で、お兄ちゃんと学園に行く。だから聞こえる「おはよう」の声と、小さく返事をする声。
 その後を私は楽しみに、ゆっくりと、踵を鳴らす――。

「お! あれ小春ちゃんだろ? 小春ちゃーん!」

 耳元に響く声と直接後ろから聞こえる声。ああ、なんて幸せなのだろう。――そんな気持ちを押し込めて、今しがた気が付いたかのように振り返る。水面のように煌めく淡い水色の髪、氷のように冷たい色をしているのに温かな眼差し。手を大きく振る様はまるで子供のようで、愛情の全てが胸に大きく募っていく。
 私は立ち止まって「幸人さん!」と可愛らしい中学生の声を上げる。人懐っこく親しみやすい様子の私に、隣のお兄ちゃんは知らん顔をする。まるで他人だと言いたげな様子に私は笑って、「お早いですね!」と貴方の隣に並ぶ。

「いやいや、小春ちゃんの方が早いんじゃない? だって中学そこじゃん」

 貴方は指で十分程度の距離にあるその建物を差す。大きな門扉がいの一番に目に入る向こう、聳え立つ学校の威厳と言えば相も変わらず堅苦しいものを連想させる。広い校庭にはサッカーコートや野球コートがよく目立ち、防球ネットが建物を守るようピンと張りつめられている。
 そう、中学校は無駄に近い。二人が三十分もかけて向かう大学よりも遥かに近い。私はここまで学校が近いことに恨みを覚えたことはなく、指摘されたことにむぅ、と頬を膨らませる。
 しっかり手入れした制服も、綺麗にまとめたお下げも、真面目に見せるための風貌も、しっかりと認識される前に私は離れなければならないのだ。結局私の努力は無駄だと言われているような気がして、私はほんのり世の中を恨むように小さく呟きを洩らす。「くそが」と、聞こえないように。

「近いと良いよなぁ〜。疲れないし、帰りも早いし……」
「でも私はまだ幸人さんと一緒に……」

 咄嗟に胸に押し留める筈の言葉を口にしてしまった。私はハッとして口を押さえるものの、こちらをじっと見つめてくるその目は確信を抱いている。その向こう、お兄ちゃんは雑音を聞き入れないように耳を手で覆う。あの人もまた同業者。きっと意中の相手が何かを言っているに違いない。
 ――そんなことはどうでもいい。通学の道すがら、私は大胆にも一緒に居たいなどという言葉を洩らしかけてしまったのだ。その言葉は悔しくも愛しい人の耳に届いてしまって、顔から火が出るほどの強い熱に襲われるのが嫌だった。
 折角大人しいイメージを積み上げてきたのに台無しだ。しょうもないマセガキだと思われても仕方ないだろう。――そう覚悟を決めていた。

「可愛いこと言うよな〜」

 ぽん、と頭に乗せられる手のひら。一瞬だけ現状が理解できなくて、唖然とする。今何が起こっているのだろう、これは夢なのだろうか、私は歩きながら寝ているのだろうか――そう思わざるを得ない状況に、また違った意味で顔が熱くなる。それも体を巻き込んで、だ。
 私はつい、「はぇ……?」と間抜けすぎる声を洩らした。動揺と羞恥心がそのまま声になって出てきたような感じ。そんな様子を見かねてパッと手を離した後、「なあ、これセクハラになる!?」と慌て始める幸人さんに、私は咄嗟に「なりません!」と一言。
 だからもっと触っていいんですよ、の言葉は言わず、胸の奥で高鳴り続ける鼓動の早さに心地好さすら抱いてしまう。紛れもない恋をしているのだと私の中の何かが囁く。偽りではないこの感情に悦さえ覚える。「よかった」と笑う表情を見て思わず膝から崩れ落ちそうになるのを耐えた。

「幸人の妹なんだし、いつだって会えんだろ?」
「えっ、おにぃだけじゃなくて私にも会ってくれるんですか!?」

 聖人のような幸人さんの微笑みに覚えるいっそう大きな胸の高鳴り。弾むように軽やかで、でも恐怖なんかよりもずっと重くて、頭の先まで登っていく血が沸騰したお湯のように熱い。――そんな気がする。
 咄嗟に頬を両手で包んで「本当に好い人だ」と改めて認識する。腐れ縁の筈のお兄ちゃんだけでなく、私にまで気をかけてくれるなんて嬉しいことこの上ない。
 幸人さんは善意の塊のような人、私はそれを知っている。道端でご老人を見かけたら荷物を持ってあげるし、子供が風船を木に引っかけてしまったら登って取ってくれる。迷子がいれば肩車をしてご両親を見つけるまで付き合ってくれるし、バイトの代わりさえも進んでやってくれる。お勉強はあまり得意ではなくていい点数は取れないけれど、何があっても友達を大事にして空気を和ませてくれるところもまた素敵な要素のひとつで。男であっても重い荷物を持っている人がいれば半分持って手伝ってくれる。
 ――男女差別することなく。平等に。全員と接している。
 うっとり。その感覚を胸の奥にしまって、「当たり前じゃん」とはにかむその表情を収めるべく、心のシャッターをひたすらに押す。素敵な笑顔。これだけでご飯三杯は食べられちゃいそう――そうこうしているうちに中学の目の前まで歩いてきてしまった。
 ああ憎い。こんなに近い中学が憎い。でも仕方ないし、ここは幸人さんと初めて出会った思い出の場所だから許してあげる。

「……着いちゃいましたね」

 ぽつり、届くか届かないかの声で小さく呟きを洩らした。お兄ちゃんは相変わらず素知らぬ振りをしながら私の後ろを通り過ぎて、幸人さんは「やっぱ早いなあ」と歓声にも似た声を上げてくる。
 折角の幸せな時間もここまでだ。
 私ははあ、と溜め息を吐くと、着くのには早すぎる校門にそっと手を掛ける。「行ってきますね」そう呟いて幸人さんの顔を見れば、何かを言いたげな表情のまま、じっと私を見つめていた。

「……? あ、おにぃも気を付けてね!」

 幸人さん越しにお兄ちゃんに声を掛ければ、お兄ちゃんは背中を向けながらひらひらと手を振っていた。本当に声が聞こえているのかって問い質したい気持ちを抑えながら、未だ立ち止まる幸人さんの顔を見上げて「遅れちゃいますよ」と告げると――不意に頭に重みを感じる。
 また頭を撫でられているのだと気が付くのに、瞬きを数回必要としてしまった。

「何かあったらまたおいで」

 そう呟いて幸人さんはふんわりと微笑んで、「またね」と言ってお兄ちゃんの元へと駆けていく。残された私の中に残るのは感動と、幸福と、動揺と、好意がぐちゃぐちゃに混ざったような、形容しがたい奇妙な感覚だった。

「はあぁ……ゆきとさぁん……」

 頬っぺたに手を当てて、熱くなる頬を冷やしながら私は小さく、小さく口を洩らした。

 ――貴方の全てが大好きです。

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