忍び寄る冬の足音


 冬も本番だという時期に入る風呂は別格だと、ノーチェは深く息を吐きながら思う。湯気で隠れつつある天井を仰ぎ見て、今日も寒かったと何気なくひとりごちれば、返事がなくとも満足感が得られた。
 相も変わらず湯船は入浴剤で白濁に染まっている。無色透明の頃よりもほんのりとろみがあるような錯覚を覚えながら、懸命に素肌へと刷り込むように腕を擦った。保湿効果のあるそれは、桃の香りが漂う。
 一向に途切れたことのない入浴剤を見るに、終焉は相当気に入っているのだろう。同じ屋根の下に住むもの同士、その恩恵を賜っているノーチェの肌は、随分と滑らかになった。労働にこんなものは要らないと思いながらも、肌の調子に小煩いリーリエにとやかく言われないよう、配慮する。
 屋敷の風呂場は見た目にそぐわず、辺り一面が桃の香りのするものに溢れている。白い床や壁の中にぽつんと存在している浴槽には似合わないほど、甘く蕩けるような香りだ。シャンプーやリンス、ボディーソープがそれらの香りを放つものだから、ノーチェ自身もすっかり慣れてしまった。
 体の芯から温まるような感覚に、僅かに身震いをしながらほう、と吐息を洩らす。普段なら必要以上に温まらないのが主だが、今日ばかりは入念に浸かろう、と彼は肩まで沈んだ。
 ぐらぐらと煮詰まった熱湯を掛けられることも、罵倒を飛ばされることも決してない。この現状がやはり自分にとって異端であることは承知しているのだが――、身を投じている間くらいは甘えてもいいだろう。
 ほうほうと沸き立つ湯気が顔にかかる。ほんの少しの息苦しさを覚えたが、その違和感も一瞬だけ。ふう、と何気なく息を吹き掛けて、白い湯気が揺れ動くのをじっと見つめていた。退屈ではあるが、息抜きをするには丁度よかった。
 終焉は既に風呂に入ったあとだというが、その痕跡は少しも残されていない。普通なら髪の毛の一本でも落ちていそうだというのに、それすらも落ちてはいないのだ。

 ――まさか沸かし直したりしてないよな。

 ――ふと、湯船に沈んだ手を上げて、湯船のお湯を掬い上げる。見ただけでは分からないが、特別変化があるわけではない。それでも不思議と汚れているような不快感が得られないものだから、尚更不思議でしかなかった。
 湯船から出した手を再び沈め、彼は浴槽に体を預ける。当然の話ではあるが、湯船に沈んでいる部分は温かく、露出している部分は酷く冷たい。その温度差に多少の驚きを覚えたが、深く息を吐く頃には何も気にならなくなっていた。
 冬を越えたら再び春が来る。その自然の摂理を実感する毎に、終焉と出会ってもう一年が経とうとしているのが分かる。長いようで短い――、色々と考えさせられることが多かったものの、あっという間に過ぎ去ったような気がする。
 ――とはいえ先に訪れるのは年を越すことだろうか。
 ゆらゆらと揺さぶられるような意識に、ノーチェは自分が眠気を覚えていることを自覚する。寒さにうち震えたあとの風呂は決まって眠気を誘ってくるのだ。
 うつらうつらと船を漕いでしまっているのに気が付いて、咄嗟に首を横に振るうこと数回。それでも眠気は取れることもなく、次第に意識が朦朧とするのを抑えようと奮闘する。
 首輪の異質な存在にも存外慣れてしまえばどうってことはない。何の気なしに指を滑らせて鉄製のそれに触れると、ふと喉の違和感に気が付く。

 ――咳が出てこない。

 日中あれだけ渇いた咳が出ては終焉に視線を投げられ、頭を悩ませていたというのに、風呂に入るとすっかり治まってしまった。冬特有の乾燥が症状を引き起こしているのだろうか。
 辺り一面に沸き立つ湯気を流し見ながら、やはり湿度は大事なのだと実感する。思えば屋敷には保湿を保つようなものは何ひとつ見当たらない。男に懸命に訴えてみれば話は聞いてくれるだろうが、過保護になりすぎやしないかと悩む。
 初めは取っつきにくいと思っていた終焉は、ノーチェに関することには少々過保護になりがちだ。怪我のひとつでも負ってしまえば包帯を巻きかねないそれに、何度呆れを覚えたことだろうか。一言で言えば鬱陶しいと思えていたものだが――、今では程好く心地のいいものだと思えてしまう自分にも呆れてしまう。
 堪らず彼はふう、と溜め息を吐いて、カビひとつない天井を見上げた。掃除が行き届いていて、見れば見るほど居心地の良さを痛感させられる。隅から隅まで掃除をするのはこの屋敷が借り物に過ぎないからだろう。

 ――そうなるとますます気になることがある。何故終焉は、たった一人で屋敷に身を寄せているのか。今まで慣れ親しんだ――リーリエを除く他の人間は、一定期間どこに行ってしまったのか。

 今ではもう少しも思い出すことができない終焉の過去だが、男が抱えていた言いようもない寂しさは、ノーチェには分かるような気がした。追体験、というものだろうか。実際に自分が体感したようなその胸の蟠りは、彼が時折感じるものによく似ている。

 あの人も寂しいと思っていたんだなぁ、なんて思わず言葉を洩らすと――ふと、大きな欠伸が洩れた。
 寒い冬は人肌が恋しくなる季節。彼は体を骨の髄まで温めようと、深く息を吐いて肩の力を抜いた。

 あの二人は今、何を話しているのだろうか――。

◇◆◇

 教会≠フ動きが密やかであるのは、聖夜祭の準備を行っているからだと断言した。男の口振りに迷いはなく、リーリエをじっと見つめる眼差しは獣のよう。それでも違和感があるのか、一度だけ目を逸らすと「準備に追われている筈なのだ」と小さく呟く。
 冬に入って行われる祭りは夏のそれと規模が似ている。教会≠セけでなく、街が一丸となるのだ。街中を彩る飾り付けも、もみの木を飾り、イルミネーションなんてものを施すのも殆どが街の人間だ。その中で教会≠ヘ子供達に手渡すプレゼントを用意するのに忙しなく動き、休む暇も与えられないという。
 「一年間いい子になれた子供には最高の贈り物を」そう言って真心を込めたプレゼントを渡し、子供達の歓声で溢れ返るのがルフランの常だった。
 それに加えて、聖夜祭には教会≠ェ慕うとある人物が生まれた日であると言われている。その事も相まって毎年冬になると彼らは鳴りを潜めるように、事を荒立てないように密やかになるのだ。
 ――とはいえ、ひとつ、気掛かりなことがある。

「リーリエ、お前……街中でヴェルダリアを見掛けたことはあるか?」
「ああ〜やんちゃボーイね。まあ、街にお邪魔したときは見掛けるかも。彼、教会≠フ言いなりになんてなりそうにないし」

 終焉の問い掛けに女はワインを飲みながら軽く答える。気が付けば男が出した夕食もすっかり平らげてしまって、仄かに赤みのある頬のまま終焉との会話に臨んでいた。ぱちぱちと火花が飛び散る音が仄暗い部屋に響く。暖かな火が女の頬を、男の黒髪を赤く照らした。
 一体何の意図があってその手の質問をしたのか、リーリエは軽く首を傾げる。街に行くことがあるとはいえ、女は終焉やノーチェほどルフランへと赴くことはない。ヴェルダリアが終焉と仲が悪いことを知っているリーリエといえど、目にする機会などそう多くはないのだ。

 赤い髪に終焉とは違った雰囲気のある金の瞳。挑発するような笑みを常に湛えたまま、街を闊歩する姿はまるで縄張りを巡回する獣のよう。
 何か問題が起これば楽しいことこの上ない。その中に自分も混ざれば全身の血が騒ぐように、生きていることへの実感を味わえる。童心に帰れるような感覚さえ味わえる。
 戦いの中に楽しみを見出だす男こそが、終焉殺しと名高いヴェルダリアなのだ。

 そんな男が一体どうしたのかとリーリエは終焉の答えを待った。じっと見つめていると、少しずつ、話の内容に対する嫌悪感を滲み出していることが分かる。あんな奴の話題を出すなんてことをしたくはないのだが、致し方がない――なんて言いたげな視線に、女は思わず苦笑いを浮かべた。
 そうしている間に男はゆっくりと唇を開き、溜め息がちに独り言――のように言葉を洩らした。

「あれが街に姿を見せなくなった」

 それは終焉にとってとても喜ばしいことである筈なのに、男の表情は曇りを湛えたまま。ほんの少しだけ眉間にシワを寄せているように見えるのは、リーリエの錯覚だろうか。
 ほんの少し疑問に思ったのか、リーリエはワイングラスをテーブルに置き、「それがどうしたの?」と呟く。リーリエは終焉がヴェルダリアを心底嫌っているのは理解しているのだが、姿を見せないことに納得がいっていない様子の男が気になったようだ。

 ――終焉とリーリエの最もな違いは、今まで知ってきた中の、記憶の保持だろうか。

 ゆっくりと視線をテーブルに落としながら終焉は唇を開いて、「不思議だとは思わないのか」と呟く。

「何十、何百と繰り返してきたが、あれが私の前に姿を見せないなんてことはなかったのだ」

 ふぅ、と小さな溜め息を吐いて男は額に手を突いて眉を顰める。終焉が口にした「繰り返し」の言葉にリーリエは訝しげな顔をした。それでも唇を開かないのは男の言葉を待っているからであって、自分が口を出せる状況ではないと思っているからだ。

 終焉殺しの異名を持つヴェルダリアは、その性格上誰かの言いなりになることは決してない。何にも縛られず、何にも囚われることもなく、自由気ままに生きて放浪するのが彼の常だ。
 街を徘徊するのも、気紛れに終焉に手を出すのも、全ては彼の気分によって決まる。それは、たとえ教会≠ノ属していようとも、変わることのない事実だった。
 ――それが、今回は少しも姿を見せずに聖夜祭を迎えようとしているのだ。
 ――数日。たった片手で数えられるほど、姿を見せない期間は当然のように存在する。
 彼も人間だ。人間は自分の意志で動き、自らの考えの下で言動を決める。特にヴェルダリアは感情や気分で行動するということが最も多く、誰よりも気紛れな人間だった。
 そんな彼の楽しみは、終焉を殺すこと。互いに嫌い合っているからこそ、手掛けることが楽しみでもあるというのに――、終焉はここ暫くヴェルダリアの顔を、気配を辿ることができなかった。

 そんなことは今までに一度も起きたことがなかった。

 ぽつりぽつりと語っていた終焉の顔は、ほんのり不快感が滲むような表情になっている。頻りに指を動かしては視線を落とし、溜め息を吐いて頭を掻く。到底風呂上がりだと思えないような気持ちの張り詰め方に、リーリエは堪らず「落ち着きなさいよ」と声を掛けた。

「いないならいないでいいでしょ。その方があんただってむしゃくしゃしないんだから」

 女は空になったワイングラスに赤ワインを注ぎ、再び酒に口をつける。リーリエ曰く、飲んだあとの酔いが回る感覚が堪らなく心地がいいそう。満足げに微笑んで喉を鳴らす様を見ながら、終焉は理解ができないように首を横に振る。
 酒の独特な味わいが男には受け入れられなかった。
 ふう、と何度目かの溜め息を吐きながら「そういうことじゃない」と終焉は呟く。リーリエは相変わらず酒を飲みながら「じゃあどういうこと?」なんて言った。とろん、と酔いが回っている赤い瞳を見て、本当に話をしっかりと聞いているのかどうか、些か疑わしく思っている男は小さく唸った。
 本当に口にしてもいいのだろうか――そんな迷いが男の中に生じてしまう。口にしたら最後、原因を決めつけてしまいそうで嫌だった。

 それでも終焉は口を開き、「その程度で済むといいんだが」と言う。

「……今まで……今まで違うとすれば、それだけじゃない」
「じゃあ他にもあるのね?」

 ゆっくり、項垂れるように頭を垂れる終焉に、女はグラスを置く。男の言動に何を言おうとしているのか分かってしまったような気がして、小さく視線を逸らした。

「……少年もそうなの?」

 何気なく口を洩らせば、リーリエの視線の先で、手を組んでいた終焉の手指がぴくりと動く。言葉こそ紡がれなかったが、終焉の小さな反応が確かな答えだった。

 何十、何百と繰り返し続けてきた人生に変化が起こる。それは、奇しくも終焉が一番望んでいたことでありながら、一番に諦めていた事柄だ。
 同じように生きて、同じように嫌われ、同じような結末を迎える。
 そんなことを繰り返し続けていれば、自ずと変化を求める気持ちなど消え失せてしまって、男に残されたものは変わりのない日々と習慣だった。
 そんな中で初めて訪れた変化に男は喜びを覚えた。――同時に、違和感と恐怖すらも覚えてしまった。
 終焉の者≠ニして生きてから初めて出会った彼は、終焉の知るノーチェ本人ではなかった。――だが、潜在意識に刷り込まれたような狂おしい感覚は、嘘偽りもなく、彼だけに向けられるものだ。
 嗚咽を洩らしそうになるほど求めてしまった人間がいる。――同時に、首輪が無気力な彼に施されている事実を知って、ぐらりと世界が揺れるほどの目眩を覚えてしまった。

 この変化が一体何を意味して、何をもたらすのか。長く長く生きてしまった男にはもう、考えもつかない。終わりか、始まりか。絶望か希望か――終焉には見当もつかなかった。
 ぐったりと項垂れるような様子の終焉を見てから、リーリエはくしゃりと表情を歪める。何と声を掛ければいいのか、笑ってお茶を濁すのがいいのか、女にも判断はできなかった。余計に言葉を掛けたところで火に油を注ぐことは明白だ。下手に終焉を宥めたところで、男の神経を逆なでする可能性すらある。
 ヴェルダリアが姿を見せなくなったことと、教会≠ェ怪しい行動に出ていること。――それらの原因がノーチェにあると言えば、男は間違いなくリーリエに敵意を向けてくるだろう。
 
 何故なら終焉はノーチェを愛してしまっているから。男にとって彼を「愛している」という事実は、何にも代えがたいものであり、決して裏切れるようなものではないからだ。
 終焉にとっての「愛」は自分自身を殺すための手段であり、彼に接するための理由のひとつだった。
 名も知らぬ男に強奪され、屋敷に留められていることを彼が許しているのは、あくまで自分が「奴隷」であるからだろう。奴隷には人権も決定権も与えられず、あるのはただ体ひとつのみ。無償の愛を振り撒くなど、終焉のような物好き以外にはいないのだ。

 男はノーチェを愛している、愛してしまっている。
 そんな男の前で彼の存在を否定してしまえば――、命の保証はできない。

 だからこそリーリエは下手な慰めも、労りの言葉も終焉には与えなかった。その代わりにワインボトルを握り締め、「あんたもどう?」なんて笑いかけながらボトルを揺らす。残りは少ないのか、それとも然程重いとは感じていないのか――軽々と左右に揺れる暗い色のそれに、終焉がゆっくりと顔を上げた。
 「こんな重苦しい雰囲気は嫌だ」そう言いたげなリーリエの振る舞いに、終焉は訝しげな顔をする。ほんの僅かに眉を顰め、唇を屁の字に曲げるのだ。
 男もそれなりに今の雰囲気を気に入っていないのだろう。リーリエの意図を汲み取るように女の言葉に「何を言っているんだ」と呟き、手で払う。

「私が酒に弱いことは知っているだろう」

 はあ、と大きな溜め息を吐き、男はリーリエの言葉をはね除ける。香りも苦手だと言って払う仕草を取ったあと、腕を組んでじっとそれを見つめた。先程のような不安な色などどこにもない。真っ直ぐに、且つ冷たい瞳がワインボトルを――リーリエを見る。
 ほんの少しでも気分は晴れたのだろう。先程とは空気が一変して一息吐けるような雰囲気に、リーリエは口角を上げた。「そうだったわね〜」なんて言ってグラスを置き去りに、ボトルを抱えて柔く笑う。
 上品に飲むことをやめたのだろう。ワインボトルの先を手で鷲掴みにするや否や、軽く持ち上げ豪快に飲み始める。数回喉を鳴らしてワインを飲んだあと、ボトルの口先を離して口許を拭う様は、とても淑女とは思えない。
 通常なら人体に影響を来すであろうその飲酒に、男はとうとう頭を抱えた。

 ぱちぱちと火の粉が舞い上がる。大きな窓の向こうに広がる庭は、普段の夜に比べれば仄暗い。月明かりや星の瞬きを分厚い雲が覆い隠しているのだ。冬の夜空は空気が澄んでいて目映く目を見張る反面、肌寒く、気温が下がり天気が崩れれば雪が降る。
 それが冬の醍醐味なのだろうが――いかんせん、終焉は寒さに身を投じるのが苦手だった。
 少しでも気分を紛らせるよう、ふと見上げた先にある窓の向こうは、薄暗い雲に覆われていく空だ。星の瞬きはおろか、どこかへと消えてしまった月明かりすらももう見えやしない。
 雪でも降ろうというのだろうか。
 ――堪らず男は腕を擦り、溜め息を吐いた。

 ――月明かりが恋しい。

 長い睫毛の下で色違いの瞳を瞬かせ、終焉は小さく俯く。目の前ではソファーに座ってワインを堪能しているリーリエが、満足そうにワインボトルを抱き抱えていた。空になったそれを手離す気はないのか、「今日も美味しかったわよん」なんて言って、まるで我が子のようにボトルを撫でる。
 タイミングも、時間帯も丁度いい。ノーチェが風呂へ向かってとうに三十分を過ぎてしまっている。終焉に彼の入浴の邪魔をすることなど到底できやしないが――、まだかまだかと焦るような気持ちが募り続けた。
 ――ぺた、
 ――不意に男の耳に絨毯がない場所を、素足で踏み締めたような足音が届く。堪らず男は顔を上げ、音のした方へと顔を向けた。

 気持ちが焦っていたのか、先程までの不安を引きずってしまっていたのか、終焉にもよく分からない。
 ただ、彼の顔を一目見ておきたいと思ったのは事実だった。

 終焉が顔を向けた先。出入り口で茫然と立ち尽くすノーチェは、首からタオルを下げて目の前のそれを見つめていた。どこか白い頬は赤く、普段なら留めている筈のシャツのボタンは三つほど空いている。相変わらず黒い首輪は着いたままだが、血色の良さは普段とは比べ物にならなかった。
 茫然と立ち尽くしたまま、ノーチェは瞬きをひとつ。どこか様子の可笑しい彼に、終焉は小さく首を傾げながら「どうした?」と口を洩らす。

「今日は随分と長かったな、しっかりと温まったか――」

 終焉がノーチェの体を心配する言葉を紡ぐや否や、彼はゆっくりと足を進め、徐に終焉の元へと向かう。そうして、男が言葉を言い切る前に床に膝を突き、――顔を、男の膝元へと下ろした。

「――!?」
「あら! 何か面白いことになってる!」

 彼の行動に終焉は驚き、体を強張らせる。すると、同時にリーリエがボトルから顔を離し、赤い瞳を瞬かせながら眼前の二人を見た。
 「最愛ノーチェ」の突拍子もない行動に男が硬直していると、彼は終焉の足元で「冷たい……」と小さく言葉を洩らした。

「あら〜、少年もしかしてのぼせたの?」
「…………ちょっと……」

 女は口許に手を当てながら覗き込むようにノーチェを見る。彼は赤く染まる頬や、身体中に閉じこもる熱をどうにかして逃がしたくて、終焉の元へと近付いたようだ。
 窓の向こうは寒空が広がっている。下手をすれば風邪を引いてしまう、と終焉から注意されかねない。少しの迷惑にもなりたくないノーチェが思い付いたのは、周りの熱すらも冷ましてしまう男の特性を活かすことだった。
 未だ動けずにいる終焉の代わりに、リーリエがノーチェに向かって「気持ちいい?」なんて訊く。それに彼は軽くしがみつきながら、「案外」とだけ答える。熱を奪ってしまう終焉の特性がこんなところで活かせるなんて、という話題が上がっているが、男自身は話に乗れなかった。

 心臓が強く脈打つような感覚がした。胸の奥で鳴りを潜めていたかのように、鼓動を感じる。血の巡りが止まっていたと錯覚するほどに少しずつ、指先が温まるような錯覚さえも覚えた。
 言葉では言い表せないほどの感情が沸々と湧いてくる。それを表に出してはいけないと、男は懸命に感情を殺す。
 それでも、とめどなく溢れてくるこの感情は――確かにノーチェだけ向けられるものだった。

「ん…………やっぱ……ちょっと喉変になる……」

 終焉の膝元に頬を寄せたまま、喉元を押さえる彼は僅かに眉を顰めながら呟いた。どうにも喉の奥が乾燥するような感覚がするのだと、彼は愚痴のように洩らす。気分が悪そうに呟くノーチェに対し、リーリエは同意しながら解決案を提示した。

「やっぱりここ湿度が足りないのよね。このままじゃお肌にも悪いかもだし、今一度周りを見直しましょうよ」

 明日も私はいることだしね。
 そうリーリエは終焉に話し掛けると、男はハッとした様子で咄嗟に返事をした。
 動揺のあまり多少話を聞いてはいなかったが、湿度関連だということはそれとなく聞き入れていた男は「考えよう」と答える。乾燥が続いてしまうとそれだけで健康を損ねる確率も上がる――それだけはなるべく避けたいと、終焉も首を縦に振った。

 本当に話を聞いていたのかノーチェやリーリエがからかうように話し掛けてきたが、男はそれを振り払いノーチェの頭を軽く撫でる。髪がまだ濡れていると気が付くと、彼の首に掛かっているタオルを手に取り、頭を拭いた。
 なるべく首を痛めないよう懇切丁寧に。されるがままのノーチェは「気にしなくていいのに」なんて呟きながらも、男の丁寧な手先に目を閉じる。対面に座るリーリエはその様子を見ながら「風邪を引いちゃうかもしれないから拭かれなさい」と言って、空のワインボトルをテーブルに置いた。

 コトン、と固いものがぶつかり合う音が鳴る。満足した終焉が彼に向かって「もういいよ」と言うと、ノーチェは寝惚け眼のまま漸く終焉の足元から離れる。赤い火が揺れる暖炉から熱が溢れ、部屋の中を十分に暖めてくれるのを痛感して、彼は大きな欠伸を洩らす。
 それが――彼らの眠る合図だった。


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