猫と魔女と団らんと


 取って付けたような台座を動かして、暖炉からそれを引き離し、大きな衝撃を与えないようにそうっと台の上へ置く。
 広い屋敷、ということもあってか、そのテレビは随分と画面が大きく、一人で画を見るには余計なほどだ。比較的新しいのか、薄型のそれは些細な衝撃を与えただけでも割れそうで、思わずノーチェも慎重になってしまった。
 台は一人でも運べる大きさだったから、というだけで率先した彼とて、電子機器を運ぶのは終焉と行った。両手いっぱい広げた程度の画面を両端から持ち上げ、下ろすときも息を合わせる。数十センチの身長差が男に負担を与えていないか気にしながらも、解放された途端に肩の力が抜けた気がした。
 ほう、と思わず息を吐くと、終焉が慣れた手付きでノーチェの頭に手を置く。
 そうして長く伸びてしまった髪を見ながら撫でるのだ。

「無事か?」
「……そんなに柔に見える……?」

 ここまで来るともう頭を撫でられるのを避ける理由がなくなる。
 ――そう言わんばかりに終焉の手を堪能すると、男はゆっくりと手を離したあと、「そう見えてしまうものだ」と呟いた。まるで独り言の――自分に言い聞かせるような言葉に、終焉の中にある寂しさを感じてしまう。

 この人が見ているのは俺ではない――それに何度虚しさを覚えたことだろうか。

 踵を返し、終焉の黒い髪が揺れる。言葉の端に感情が見え隠れしている筈なのに、表情や行動には一切現れない男が不思議で仕方がなかった。

 いくら感情が表に出せない状況下にあるといっても、生きている以上喜怒哀楽は隠しきれない筈だ。目元が緩むだとか、眉が顰められるだとか、そういった変化が見えて初めて感情が窺えるのだ。
 しかし、対する終焉はほんの少しの変化が現れたような「気がする」程度のものだ。五秒だとか、十秒だとか、そんな時間が掛けられた変化ではなく、ほんの一瞬だけ。見間違いかと思い、瞬きをする頃にはすっかり元の無表情へと戻ってしまっていて、感情の見る影もない。
 恐らくそれが終焉なりの「死なない対処」なのだろう。
 一見便利に思える男の永遠の命≠ヘ、蘇生に体力を消耗することが分かっている。傷の深さが深ければ深いほど蘇生には時間と体力が必要となる。起き上がったあとの終焉は酷く疲れ切ったような――とはいえ、ただ無表情で顔色が一層青く見えるだけだが――顔をするのだ。
 動きは鈍く、声を掛けても反応が全くないか、一点を見つめるだけでノーチェの存在にすら気が付かないかのどちらかで、日常生活に支障が出るほど。
 
 それらの不具合を避けたいがために、男はすっかり表情を出さなくなったのだ。
 
 ノーチェも自分自身の表情がろくに出なくなった自覚はしているが、終焉ほど「押し殺している」人間を見たことはない。笑いたくとも笑えない、幸せだと思いたくても思えない――そんな印象を強く受けるようになった。
 以前終焉の命≠ノついて教えてもらった所為だろうか――ノーチェと顔を合わせる度に時折強張るような表情が、彼の瞳に映り込む。僅かに動いた兆しのある口許が手の下に隠されると、我慢しているのだと思わざるを得ないものだ。

 ――とはいえ、以前リーリエの家へ泊まりに行って以来、より一層無表情に磨きが掛かったようで、我慢するような兆しは全く見受けられなかった。
 何かあったのだろうかと彼の口許が小さく歪む。揺れる黒髪は相変わらず小綺麗で、交じる赤のメッシュが勿体ないと思える。白いシャツにシワがなければ、黒地に白のラインが施されたベストは汚れひとつも残されていない。一日の言動――主にノーチェに対するもの――は少しの変化もないのだが、男本人に何らかの変化が起こってしまったようで、少しの表情も読めなくなってしまった。
 
 過ごしてきた数ヶ月、観察して漸く読めてきた終焉の表情が全く読めないことが、彼にとって少し不服だった。
 
 むぅ、と小さく唇を尖らせるノーチェを他所に、終焉は屋敷の暖炉に手を掛けて不備がないかの確認をする。少し埃がかぶっているだとか、柵の取り付けが悪いだとか、独り言を洩らしていて彼の顔など見る余裕もなさげだ。
 そもそも終焉に暖炉のつけ方が分かるのかどうかが疑問に残る点ではあるが――今の男にはそれすらも眼中にないようだ。

 終焉にとってはノーチェの体が一番大切で、寒さから身を守るために暖炉と悪戦苦闘するのは当然のこと。それらに関する知識は本を中心に掻き集め、それでも足りなければ他人――と言っても終焉と関わっている人間など限られている――に知恵を貸してもらう。それが、男のあり方なのだ。

 暖炉の状態と、不備の確認ですっかり汚れてしまった終焉の服の袖口は、ほんのりと煤のようなものがこびりついていた。思わず彼が「あっ」と声を洩らすと、男はそれに気が付いてノーチェに目を向ける。どうした、と不安げな声色で訊ねてくるものだから、ノーチェは首を横に振って「大したことじゃ、」と呟いた。

「んと、袖……」
「……ああ」

 小さく人差し指を向けると、終焉は今気が付いたと言わんばかりの態度で袖口を摘まむ。白い生地に薄黒い汚れがついてしまっているが、終焉は興味なさげな表情のまま手先で払い、ふう、と息を吐く。その動作で汚れが取れるなど少しも思わないが、男もまたノーチェと同じように汚れが落ちないことを知っていたようだ。
 まあ、仕方ないと独りごちて、重い腰を上げるように立ち上がる終焉に、彼は「どうだったの」と小さく呟いた。
 状態は悪くはないらしい。いくらかの手入れを施し、綺麗に整えれば使えないこともないようだ。いくつかの問題点を並べるとするのなら、火を点すための道具と、薪の類いなのだが――終焉は心当たりがあるようで「仕方がないな」と溜め息を吐く。
 暖炉は終焉の専門外なのだろう。軽く頭を掻きながら悩むような仕草を取り、鬱陶しげな表情を表に出してくることから、男が何をしようとしているのかが分かった。

「……魔女でも呼ぶ?」

 ――何の気なしに口を開いてみれば、終焉は小さく頷いて答えるのだった。

◇◆◇

 原罪の魔女<梶[リエを屋敷に呼ぶ際に必要なものは極めて簡単。彼女が満足する程度に手の込んだ終焉の手料理だ。街中で買った所謂「市販」と呼ばれるような料理の数々でも女は満足するだろうが、終焉の手料理の味を知ってしまっていては話が変わってしまう。
 リーリエが求めるものは「酒に合う手の込んだ料理」だ。小麦を使ったパンに合う料理でも、白米に合う料理でも本人は大して不満も洩らさないのだが、作り手である終焉にとっては妙に気になってしまうもの。「味わってほしい」という感覚を酒という飲み物で流し込んでしまうのが、男は気に食わなかった。
 リーリエからは定期的に酒の独特な香りと、煙草のこびり付くような煙の香りが漂ってくる。それも終焉は気に食わないようで、余程のことがない限り終焉自らリーリエを屋敷に招くことはない。
 
 それでも男がリーリエを招くと決めたのは、彼女が終焉よりも家具や人間関係に詳しいからだ。

 屋敷に招かれたリーリエは相も変わらず酒瓶を片手に満面の笑みを浮かべていた。体から僅かに漂ってくる煙たい香りに、ノーチェは僅かに顔を顰めてしまう。煙草や酒の類いに終焉ほどの嫌悪感は抱いていないが、数ヶ月も娯楽から離れていたノーチェにとっては多少刺激が強かった。
 そんなノーチェでも顔を顰めてしまうのだから、五感が鋭い終焉には酷い苦痛にでもなっているのだろう。ちらりと終焉の顔色を窺えば、終焉はじっとリーリエを見つめているが、酷く冷めたような目をしていた。
 怒りだとか、呆れだとか、そういったような感情よりも嫌悪が体中から滲み出ている。腕を組み、今にも舌打ちをしてきそうな雰囲気ではあるが、客人がいる手前――というよりはノーチェが近くにいるから――必死に堪えているようだった。
 冷めた終焉に対してリーリエはこれまでにもないほどに柔らかな笑みを浮かべている。眼前には酒に合う料理ばかりが並べられていて、赤子のように抱え込んでいた酒瓶をドン、とテーブルに置いた。

「あんたが家具家電、その他諸々に興味がなかったことでこんな待遇を受けられるなんて〜!」

 ほんのり赤く光る酒瓶を軽く視界の端に入れながら、ノーチェは腕を摩り、暖炉へと身を寄せる。

 終焉が嫌々リーリエを招くために連絡手段として使ったのは、召喚だとか魔法だとかの類いに近かった。それを一口に召喚魔法だなんて言い切れないのは、男が喚び出した使い魔≠ェ、足下に存在する影から引き摺り出したものだったからだ。
 終焉は徐に黒い手袋を外すとその場に屈み込み、足下の影に――正確には影が落ちてくる赤黒い絨毯に――手を滑らせる。真っ白な手の甲を見る度に体の白さに彼は茫然と眺めていると、ゆっくりと人差し指が沈んだ。

「…………アンタって、できないこと、ないの?」
「何を言う。できないことばかりだ」

 奴隷のまま生涯を終えていては一生目にすることはできなかったのではないかと思うほど、不可解な現象に彼はぐっと目頭を押さえる。魔法や不可思議な現象には一般人よりも遙かに慣れている心構えはしているつもりだが、やはり目の前で行われてしまうと気持ちが揺らいだ気がした。
 男の手が足下の影に沈み込み、手首までが真っ黒なそれに沈んでしまっている。よく見れば光で落ちてくる普通の影の筈が、気が付けば墨を溶かしたように先の色も見えないような黒に塗り潰されている。揺らめくだけだった影も、まるで水溜まりのように波紋を生んでいて、ほんの少しノーチェの胸に興味が湧いた。
 ずるり、とその真っ黒な空間から引き摺り出されたのは、やはり黒に塗り潰されたものだった。
 終焉の白い手。それが首根っこを掴んだように現れたと思えば、その手中に収まっているのは真っ黒な猫が一匹。目や口の存在は全く見受けられず、シルエットのような黒猫だ。尻尾は長く、今にも影に溶け込みそうなそれに、ノーチェは目を奪われる。
 現状は奴隷であるとはいえ、彼にもやはり一族の血が混じっている。魔力が素肌を刺激するような感覚を覚え、「これも何かの魔法の類い?」と終焉に問い掛けた。

 彼の一族――ニュクスの遣い≠ヘ、物理や魔法特化型に囚われることなく、自身の体を強化する人体強化の魔法を有している。特に物理に特化している遣いは多用することがあり、奴隷になる前のノーチェもまた上手く人体の強化魔法を扱えるよう、鍛えていたことがあった。
 それとは形式も、使用方法も全く違うのだが、肌を滑るような魔力の気配はどこか似ているものがあった。

 ノーチェの質問に終焉は肯定を示し、首根っこを掴んでいた手を離す。黒い姿の猫は終焉の手から離れると、毛繕いをするような仕草を取っていた。それが本当に毛繕いであるのかは、判断もつかないほど黒く、曖昧だった。

「私が従えるのは黒だとか、影の類いだ。それに魔力を流し込んで思い描く形を作り、表に引き摺り出してやると生まれるぞ」

 ゆっくりと立ち上がり、終焉はノーチェに黒猫の説明を溢した。終焉は簡単そうな口振りで彼に語るが、肝心のノーチェには感覚が掴めなかった。「形を作る……?」と呟きながら手の開閉を繰り返す。召喚、よりは造形、と言った方が正しいであろうそれに、ノーチェは顔を顰める。
 男にとってその魔法は一種の料理みたいなものなのだろう。ノーチェが上手く理解できていない様子を見て、終焉は唇を閉ざして視線を逸らした。どうにも気まずそうな男の横顔に思わず彼は顔を俯かせる。何か間違えてしまったのかと不安に駆られていると、終焉の足下に黒い猫がすり寄った。
 にゃあ、と鳴いた声は聞こえないがそういった仕草を取ったのはノーチェでも分かる。その猫に終焉は「ああ、」と呟きを洩らし、頭を撫でる。

「森の中にある小屋に行ってリーリエを呼んできてくれ。余計なことは言わなくていいぞ、どうせ酒を持ってくるのは目に見えているからな」

 仏頂面で、終焉は「行ってこい」と言いながら撫でていた手を離した。
 終焉の言葉のあと、黒猫はくるりと円を描いてから足下の影に飛び込んで消えてしまった。行ってこいの言葉のあとで影に飛び込んでいった様子を見るに、黒猫の移動方法は影を伝って森の中へと入り込むのだろう。
 影、だから飛び込んだんだ、と何気なく呟いてみれば、終焉は頷いて「そうだ」と言う。
 影から生まれた黒猫は、影を伝って森の中へと入り、その足で小屋へと向かう。使い魔の存在は使役する人間によって姿形を変え、移動する方法も異なるのだ。

「……そう言えば……あの人、周りに蝶がいたことがあったな……」
「見たことがあるのか。リーリエは基本的に蝶を模したものを使役する傾向があるよ。私にはよく分からないのだが、使い勝手がいいのか……それとも、用途が異なっている所為か」

 人にはその人なりの象徴がある。リーリエは蝶であり、終焉は猫であっただけのこと。――しかし、終焉の言い方によれば男の象徴であり使い勝手のいい使い魔≠ェ猫であるというのは、彼の中で妙に食い違いがあった。
 喉元に小骨が引っ掛かっているような、妙な違和感。男に対する解釈の違い、というものだろうか。何の気なしに「アンタが猫は何か違う気がする」なんて呟いてみれば、終焉は瞳を瞬かせて「よく分かったな」と感嘆の息を洩らす。

「私は特にこれといって決められた……決めた形はないのだ。せいぜい四足歩行の獣に馴染みがあって、そのときに頭に思い浮かんだ獣を生みだしているな」

 今回は相手が女であるからなるべく可愛らしい生き物にしてみたのだ。
 くるくると人差し指を宙で回し、円を描く。大して意味もない行動にノーチェは目を奪われながら「ふぅん」と生返事をして、小さく肩を震わせた。喉の奥にある違和感を吐き出そうと定期的に咳を溢す。それを見て、ついでに体を診てもらおうと終焉が提案をした。
 日が昇っているとしても冷えた屋敷の中はやはり肌寒い。するりと腕に手を滑らせて渋々首を縦に振った。抵抗も反抗もない。家主が提案をするのだから、彼はそれに従うしかないのだ。
 試しに終焉に「いつ頃来るの」と訊いてみれば、終焉は口許に手を添えて「そうだな……」と呟く。

「移動自体は楽だから、リーリエが気付いて外に出る用意ができ次第、といったところだ。早くて数分……遅くて一時間ほどか……?」

 男が確約もしきれないような曖昧な答えを出したのは、リーリエが自宅にいるとは言い切れないからだろう。
 肌寒さの残る屋敷で膝を丸めて日向に避難でもしようかと悩み、顔を俯ける。暖炉について口を出した張本人であるため、投げやりにするつもりは毛頭ないのだが、風邪を拗らせてしまっているために終焉が彼を放っておいてくれないのだ。恐らく自室にでも戻って布団をかぶれと言ってくるに違いない。

 ――それでも何もしないのは、彼の何かが許してはくれないのだ。

 ――とはいえ、ノーチェ自身にできることがないのは明白だ。
 終焉はぼんやりと足下を見つめるノーチェに、案の定部屋に戻るよう促した。外ではないとはいえ、暖炉のない屋敷の中が冷えているというのは男でもよく分かる。彼の体を冷やさないよう手袋を付けているが、ノーチェに触れるのを躊躇ってしまうのだ。
 そんな彼がここ数日体調を崩しているとなると、ノーチェに対する気持ちが強くなってしまう。
 男には人間の体の事情など理解しきれない。せいぜい極端な環境の変化に体がついていけず、体調を崩してしまうということだけは知っているのだ。
 脆く、弱く、気を抜いたらすぐにでも崩れてしまいそうで――それでも、ノーチェは首を横に振って「大丈夫」と言った。

「自分の体のことは自分がよく知ってる……」

 ――直後、彼の口から再び咳が溢れて、終焉は僅かに顔を顰めた。
 「しかし……」と口を突いて出たらしい言葉に、ノーチェはじと目を向ける。唇をへの字に曲げて不服そうな顔をしてみれば、男はぐっと息を呑み込み、呆れがちの溜め息を吐く。

「……あの人呼ぶなら、何かするんでしょ。手伝う……できることは特にないけど」

 リーリエが終焉の屋敷には大抵何らかの料理が振る舞われた。それは、女が毎回酒を持参することと関係があるようだ。
 普段なら突然の訪問に呆れながらもキッチンへと歩いていく終焉を見かけることが殆どだが、今回は事情が違う。あくまでリーリエを「招いた」側なのだ。男にはリーリエを迎えるためにすべきことがある筈だった。
 その手伝いをすると彼は言った。
 小さく乾いた咳を繰り返して肩を震わせているノーチェだが、たとえ終焉が強く言い聞かせたところでまともに聞いてはくれないのだろう。
 男は溜め息を吐きながら軽く頭を抱え、顔を俯かせる。こうなってしまっては話も進まなければ、動くこともままならない。ノーチェの瞳は相変わらずぼんやりとしているが、自分の意思を強く抱いているような瞳をしている。

 ノーチェ自身に「奴隷ではない」と言い聞かせているのは終焉自身だ。彼は男が断りの言葉を言わないことくらい、十分に知っていた。

「……仕方がないな。支度をしよう。手伝いつつ、リーリエが来たら出迎えてくれ」
「ん、分かった」
「くれぐれも無理はしないようにな」

 ――と、会話をしたのが早くも数時間前の出来事だった。
 パチパチと燃え盛る赤い炎にノーチェは感嘆の息を吐く。冬に投じた街の中で、暖炉で体を温めるのも風呂とはまた違った温もりがある。色のない世界に唯一穏やかな赤が灯るような感覚に、ほう、と再び吐息を吐いた。
 リーリエ曰く特別不具合もなければ不備もない。唯一ある問題を提示するとしたら、「薪をどうするか」という点のみだけだ。
 その点すらも、リーリエの判断で解決するに至った。

 森≠ヘ傷つけられることを酷く嫌う傾向がある。薪として木を切り落としたが最後、この街から二度と出られないように永遠に道を塞ぎ続けるのだ。
 そんな森でももちろん個体ごとに寿命の長さが異なる。枯れ朽ちたそれは土へ還り、巡り巡って再び木へと戻る――その繰り返しで森ができている。その中の枯れ木をひとつ、分け与えてもらうことで薪を調達することになった。
 森は基本的に外部からの干渉を拒むだとか何とか言っていたが、生憎ノーチェには何ひとつ理解することもできないほど難しい話で、兎に角頷くのが精一杯だった。
 それに多少のまじないを施し、暖炉にくべて、リーリエが持ち出した火を暖炉へと点ければ――みるみる炎は沸き上がり、体を温められる道具へと変貌したのだ。

 リーリエのまじないは暖炉そのものへも直接注がれ、所有者の意思によって火を灯せるようにとしてくれた。
 もちろんそれが魔法だとか魔力云々だとか、その手の細工だということは彼も薄々気が付いている。ただ、そんなことが可能なのかと不思議そうに見つめていて、それに気が付いたリーリエが「魔女なりの特権なのよ」と笑ったのだ。

 ――それが、所謂終焉の「できないこと」なのだろう。

 パチパチと音を立てて時折火花を散らす火を目の前に、ノーチェはちらりと後ろを見つめる。
 リビングではなく客間で食事をしたい、と言い出したリーリエの為に食事を運び、ワイングラスを用意した。すっかり日も暮れた夜は外と同じくらいの気温ではないか、と思うほど寒く、一向に腕を擦る手が止まらない。その中で暖炉の存在は一際眩しく、有り難かった。

 普段なら焼酎だとか、麦酒だとか、そういった類いの酒を持ち寄るリーリエだが、今回は赤ワインを持ち寄ってきた。猫が訪ねてから僅か数十分で身支度をして、三十分後には屋敷の扉を叩いた。あまりにも早く訪ねてくるものだから、ノーチェはおろか終焉も驚きの言葉を洩らし、顔を見合わせるほどだ。
 扉を開けた先にいたのは、金の髪を振り乱し、肩で息をする黒いドレスをまとった女だった。冬真っ只中だというのにも拘わらず、頬は赤く、汗をかいていて見るに堪えない。
 取り敢えず上がって休んだら、という言葉にリーリエは甘え、幾ばくかの休憩を取ったあとに暖炉へと顔を向けたのだ。
 元々冬で日が暮れるのも早い、ということもあって、作業が終わる頃には星が瞬くような空へと移り変わっていた。丁度いい頃合いだから、と今まで煮詰めていた料理を用意する手筈となった。
 キッチンへと足を運び、煮込んでいる鍋の蓋を開けてみれば、程好く肉が柔らかくなったビーフシチューが顔を出す。思わず「おお、」と口を突いて出た言葉をそのままに、促されるままノーチェは深皿を終焉に手渡してよそわれるのを待つ。

「折角だからノーチェも食べるといい。もちろん無理のない範囲でな」

 そう言って手渡された料理をノーチェが運び、終焉はワイングラスを携える。運ばれてきたそれにリーリエは女を輝かせ、顔が緩むのを抑えられずにいた。

 ――そうしてノーチェが軽く料理を口にしてから、暖炉の前で暖を取る現在に至る。
 後ろではリーリエがワインを口にしていて、程好く酔いが回っているのか、頬を赤く染めている。普段と異なるのは酔った勢いで出てくるリーリエ特有の笑いが出てこないところだろうか――。終焉は一足先に風呂に入りたいと言うので、彼は先を譲り、相談する相手もいない。
 どこか様子が可笑しいのかと何度も視線を向けるうちに、ほんのり酔いが回った女の瞳が彼を捉えた。

「……体調悪いの?」

 グラスに軽く口を付けたままぽつりと呟いたリーリエの言葉に、彼は「え、」と言葉を洩らす。

「不定期に咳をしてるのが見えたわ。季節が変わって寒くなったからね〜風邪を拗らせたんでしょう」

 体は大丈夫かどうかを訊ねてくる女に、彼は頷きをひとつ。大して影響はない、と伝えるや否や、リーリエは満足げに「あらそう」と言った。

「何かあったら何でも言いなさい。最近エンディアのやつ、ピリピリしてるから、言いにくかったら私でもいいわよん」
「……? 何かあったの……?」

 不意に呟かれた言葉に彼は瞬きを繰り返した。彼の問いに女はワインを飲みながら小さく頷いて、いやに真剣な目付きでぼんやりと宙を眺める。

「教会≠フ動きが少し、怪しくてね……」

 ぐっと声を潜めたであろう言葉に、ノーチェは眉を顰める。
 教会≠ニ言えばやたらと終焉を敵視している集団の名称だ。彼らは街から離れたこの屋敷に乗り込み、終焉の命を奪うことを目的としている。街の住人からは厚い信頼が寄せられているらしいが――、終焉と共にいるノーチェにとって、教会≠ヘあまりいいものではなかった。
 その教会£Bの人間の動きが怪しいのだと、リーリエは独り言のように呟いたのだ。

「……それって、何か」

 何か悪いことの前触れか何かなの。
 ――そう問い掛けようと思い、徐にノーチェは立ち上がった。炎の側から離れた途端に肌寒さが軽く伝うが、そんなものは気にしていられない。終焉の身に再び何か起こるのではないかと思い、咄嗟にリーリエの元へと歩みを進める。
 すると直後、視界の端に黒い髪がちらりと映る――。

「……ノーチェ、風呂が空いたぞ。入るといい。それと……リーリエは泊まっていけ」

 近寄らせまいと言わんばかりに伸びてきた手がノーチェの頭を撫でる。普段の冷たい手が、風呂に浸かったお陰ですっかり温まっていた。
 額に置かれた手が頭の先に上るように髪を撫でる。手が温かいというだけですっかり絆された気持ちになり、ノーチェが「ん」と生返事をするのと、リーリエが苦笑交じりに「目の前でいちゃつくんじゃないわよ〜」と揶揄う言葉がかぶる。
 そうして女はワイングラスを軽くくるりと回した。

「本当に泊まっていいの〜?」
「…………もちろん。流石の私でも、冬の寒空の下で女を叩き出すなど、する気も起きない」

 軽く笑いながら聞き返すリーリエに対し、終焉は静かな声色で答える。ノーチェから手を離し、腰に手を当てる。火照る体に冷えた空気が心地いいのか、終焉は白いシャツの姿のまま欠伸を溢した。
 夜の屋敷は凍えるほど――というのは大袈裟ではあるが、体が熱を生もうと震えるほど――寒く、到底シャツ一枚では過ごせない気温になる。その環境下で暢気に欠伸を溢す終焉に、彼は咄嗟に腕を引っ張った。

「風邪、引く」
「あっははは!」

 ぐっと腕を引き、終焉の体を暖炉の前へと招く。その光景にリーリエは笑い、ワインを注いだ。
 パチパチと音を立てて燃える暖炉の火で温まるように言うと、終焉は徐に首を縦に振る。そのままノーチェに風呂でよく温まるように言えば、彼もまた了承の意を示して踵を返した。

「ふふ、仲がいいっていいわね〜」

 ――そんなリーリエの声がノーチェの背中から聞こえてくる。
 客間を出て、階段を上り、自室へと向かう。暖炉の元から離れた所為か、迫り来る寒さにノーチェは咳を溢したのだった。


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