赤い炎は揺れ踊る


 雨に濡れるのも、冬の寒さに包まれるのも大嫌いだ。
 ほう、と吐息を吐けば白い呼気が目の前に現れる。外気と体内の温度差が顕著に表れた結果がこれだ。肌を刺すような冬の冷たさに舌打ちを溢しながら腕を擦り、空を見上げる。気が重くなるほどの曇天が広がっていた。今にも空が落ちてきそうな勢いだ。
 街のきらびやかな空気を置き去りに、いつしか草原や草木が生い茂る森の奥深くへと迷い込んでしまったよう。辺り一面見渡したところで木が溢れている。最早太陽の光など差し込むことが少なく、よりいっそう寒さに体を震わせた。
 彼は赤い髪をなびかせてから辺りを一望し、溜め息を吐いて前を向く。相変わらず道という道はなく、草木が生い茂るばかりだ。あちらこちらで獣や小動物の気配、息遣いが感じられる。人里ではなく自然に生息する彼らに僅かながらの親近感を覚えた。
 雨が降りそうだと舌打ちをひとつ。それどころか明らかに落ちていく気温が、雪を呼び起こしてきそうでならない。体の熱が奪われ、動きが鈍くなることは彼にとって不快でしかない。

 ――さっさと見付けて暖を取れる場所へと行かなければ。

 ――なんて思っていたその直後、彼の頬に水滴がひとつ落ちる。まるで予感が的中したと言わんばかりの状況に、彼は赤い髪を掻き、鬱陶しそうに顔を歪めた。
 彼を煽るよう、雨は次第に量を増していく。ポツポツと小雨だったそれも、いつしか大粒に変わり始めて尚のこと鬱陶しかった。しっとりと濡れてしまう髪も、体にまとわりつく服も鬱陶しいことこの上ない。
 そんな状況でも彼が一向に歩みを止めないのは――なくしたものを探すためだった。

「……ったく、レインのやつはどこに行きやがった……」

 ぽつりと呟かれた言葉は雨音に掻き消されて虚しく消えてしまう。いつの間にかぬかるんだ地面が彼の足元を掬うが、そんな素振りを彼は見せることがない。しっかりとした足取りで、水溜まりの泥水が裾に跳ねるのも気にせず歩く。
 雨は嫌いだが、初めて会ったときも丁度雨だったな、なんて思いながら周囲を見渡した。

 彼が以前出会った精霊は、妙に彼に懐いてしまい放浪の旅に同行することになった。一人気儘な旅に何かが加わること彼は嫌がっていたが、精霊は無断で彼の傍に寄り添う。それにもう何かを言うことは諦め、同行を許してしまった。
 それは人間よりも騒がしいわけでも、馴れ合いを求めてくるわけでもない。ただ、定期的に余計なお節介を焼かれることが妙に喧しく思えるだけだ。
 そんな状況を許してしまったが故に、彼はあてもなくさ迷い歩く嵌めになるとは、この時は思ってもいなかった。

 精霊は人前に出ることは滅多にない。姿を現すとしても複数人の人間の前には決して姿を現さない。少しの興味と関心が向けられてしまえば、自分に利はないと彼らは知っているからだ。
 どこで見ているのかも、何をしているのかも人間達は知らない。静かに、鳴りを潜めて観察されていることなど、知る由もない。

 彼も勿論その一人だった。
 ――しかし、彼は自分に関するもの以外は殆ど興味もなく、関心も抱かない。それが精霊にとって居心地がいいと感じられるのだろう。誰一人として寄せ付けない彼の性格は、精霊達にはやけに心地よかった。
 自分の邪魔をしないのなら傍にいても構わない。――そんな気持ちから彼はもう口を出すことはなかったが、如何せん予想だにできない出来事が多々ある。
 雨の日に出会ったが故に彼は「レイン」と呼び可愛がっているが――、どうにもそれは酷い方向音痴に見舞われるのであった。

 ふ、と目を離した隙に傍らにいた筈のレインが忽然と姿を消す。初めこそはどこかへと消えたのかと思ったが、彼女――人型に化けたときは女の姿なのでどうやら雌らしい――の独特な気配が僅かに感じられる。他の人間とは違って純粋と言えばいいのだろうか、悪意のない気配が仄かに漂ってくるのだ。

 不思議なことに、彼女と旅を共にし始めた頃からやたらと存在が気になるようになり始めた。恋とか、愛だとかそういうものではない。「気にかけなければならない存在」のように思えてしまったのだ。
 ――それが、レインとの「契約関係」にある証明であるということに気が付いたのは、そう時間が掛からなかった。元より通常ならば認識しない筈の精霊の気配を辿るなど、そういった関係を結ばなければ難しい話でもあった。
 一体いつそのような関係を結ばれたのかと疑問に思っていたが、そんなことを考える時間が勿体ないと彼はそれを気にしないようにした。身体的な影響があるかどうかと言われれば、どういうわけか舌に不可思議な紋章が刻まれた程度。それ以外の影響は特に感じられなかった。
 精霊は人の形を取ることができる他、契約者の理想的なものに姿形を変えられる能力がある。これはレインに限った話ではないようだが、生憎彼にはその他を知る機会はない。そもそも得たいとも思わなかった。

 レインのように方向音痴であるのなら――、尚更知りたいとも思わないのだ。

 雨は次第に量が増し、大粒へと変わる。体を打ち付ける雨粒が痛いと思えるほどのそれに、彼は表情を歪める。雨によって冷えた体は、冬の冷たい風によって更に熱を失っていく。
 それでも彼が歩みを止めないのは、行方を眩ませてしまったレインを探し出すためだ。
 レインが姿を眩ませるのは今に始まったことではない。朝から消えていることがあれば、夜な夜な姿が見えないことも多々ある。彼はその度に微かに漂う気配を頼りに探し回った。
 その合間に彼はふと、思い至ったことがある。

 レインが人の前に姿を現してしまったのは、道に迷ってしまったことが主な原因なのではないかと。

 何とも馬鹿馬鹿しい考えではあるが、彼は今までに何度もレインを探す嵌めになった。放っておけばいいのだが、どうにも探さなければならないという感情が芽生える。それが、レインとの契約下にある所為だと知ったのは、彼が珍しく宿を確保したときだった。
 目が覚めて身支度をするために鏡を見て、歯を磨こうと口を開いたときにふと気が付く。昨夜までなかった筈の紋章が、何故か舌の上に刻まれていた。初めこそは何だと彼は思っていたものの、レインの額に同じものが刻まれていることから、それが契約の証しであることを知る。

 何でこんなものをつけてくれたんだ、なんて言ったことがつい先日のことのよう。レインは非常に申し訳なさそうに耳を垂らし、体を縮ませた。
 無許可でのそういった関係は勿論ご法度ではあるが、何よりレインが彼の元から離れられなくなってしまうのだ。
 「契約」は聞こえこそはまだ耳触りがいいが、悪く言えば一種の「呪い」のようなものとも言える。
 そんなものを交わされてしまった彼は、一人だけの気ままな旅をやめなければならないのだ。

 それでもレインは決して嫌がることはなかった。
 彼は自由奔放であり、自分本位な人間だ。彼の言動には他人を思いやるものはない。誰がどんな目に遭おうが、目の前で泣き喚こうが、彼は一切気に留めたことはない性格だ。
 しかし、動物に対しては妙に気遣いを見せることが、レインはいたく気に入ったのだ。

 彼女は決して彼の傍を離れることはない。それを渋々彼自身も認め、現在に至る。
 ――とは言え、彼はこんなにも探し回るなど微塵も思ってもいなかった。精霊は賢く、学のあるような不思議な存在なのだと、思っていたのだ。

「あー……さみぃ」

 細く洩れた声が何度雨音に掻き消されてしまう。身体中を打ち付ける雨にすっかり意気消沈したところで、歩みを止めるわけにはいかないと髪を掻き上げる。気が付けば肩甲骨まで伸びた髪がしっとりと濡れて、頬や服に張り付いているようで不快だった。
 レインの気配はもうすぐそこ。彼は何度も足元を探り、草を掻き分けてみるが、どうにも見当たりはしない。
 数度目の舌打ちを溢して彼はほう、と息を吐く。外気が低い所為で白い靄が目の前に現れた。冬真っ只中の雨は彼から体温を奪い、指先が少しずつ麻痺していく感覚を得る。
 こんな雨の日は宿を取る他ない。
 無駄な出費――とはいえ、これはろくでもない者達から搾り取った金銭の数々――を避けたがった彼だが、こればかりはどうしようもなかった。

 ――雨は嫌いだから。燃える炎を掻き消すように、降り注ぐ水の数々が嫌いだったから。

 その上、冷えた体を温めるには室内が一番なのだ。

「――……お」

 ――なんてことを考えている間に、レインの独特な気配が近くなる。来た道では跡が残っていただけで、実物はどこにもいなかった。点々と木々や草木の間をすり抜けるように歩いていった先は、よりいっそう深い森が広がるばかり。
 本能的なものだったのだろうか。精霊やら動物やらは人の手が加わるものよりも、自然が溢れる場所を好む習性があるようだ。その証拠に、彼が向かう先には整備も何もされていない――だだっ広い森が広がるだけ。
 彼が若草を踏み締めて立ち止まった先にあったのは、大きく立派な大樹が聳え立っていた。

「お前なあ……迷子になったらその場を動くもんじゃねえ」

 その木の根元で体を小さくして震えているそれに、彼は片足を地面に着ける。迷子になったことが悲しいのか、それとも雨に打たれてしまった所為で震えているのか、どうにも判別がつきにくい。レインもどうやら雨が苦手なようで、 服で陰を作ってやれば、パッと瞳を瞬かせる。
 彼が何の気なしに手を差し伸べてみれば、顔をすり寄らせて小さく鳴いた。

「つーかお前は俺の傍から離れるんじゃねえよ。分かってるのか?」

 こつん、とレインの額に人差し指を当てる。そこには彼の舌にあるものが確かに刻まれている。胸付近――と思われる場所――と額から少しだけ離れた位置で浮く赤い宝石は、未だに輝きを失うことはなかった。
 この鉱物が何なのか、なんて彼は気にも留めたことがない。額の上にあるそれは、彼女の意志ひとつで姿を消したりする。恐らく彼女の力が具現化したものだろうが――、彼は全く興味がそそられなかった。
 レインは額に指を食らったあと、体を持ち上げられて彼の懐に収まる。人に化ければ自ら歩き、彼と同様に街へと戻ることが可能だろう。――だが、目を離した隙に再び姿を消されてしまっては元も子もない。
 そうなる前に、彼はレインを懐にしまうことで事前に防いだに過ぎなかった。

「濡れてるだろうが我慢しろよ」

 彼は仏頂面で呟いて、レインは首を縦に振る。彼の意図は十分に理解した上で懐に収まり、体を小さく震わせていた。
 精霊に体温の云々が存在しているのかどうかは定かではないが、恐らく寒さに身を震わせているのだろう。彼は森を歩く足を速めながら地面の泥濘ぬかるみを踏み締め、枝を掻き分ける。
 道中木の枝が彼の頬を傷付けたが、彼は鬱陶しそうにその枝をへし折り、道端に捨てた。立ち止まっている時間など彼にはない。打ち付ける雨が、外がみるみるうちに冷えて、水だったそれが微かに氷へと変わっていくのが分かるのだ。

 彼は雪も嫌いだ。体の動きが鈍くなる冬の寒さも、人間達の喚くような声も。

 本調子に戻れば再び適当に歩くだけの旅を始めてやると、強く誓った。
 ――そんな矢先に、雨が遂に雪へと姿を変えた。
 幾重にも層ができたような曇天から落ちるそれは、肉眼で視認できるほど。心なしか先程よりも外が暗くなったような気がする。冷えきった体に雪はあまりにも冷たく、彼の体は己を温めようと、小さく震え始めた。

「…………チッ」

 はっきりとした舌打ちが遂に溢れる。何度も何度も溢した筈のそれは、今までよりも一番大きなものだった。それほどまでに不快に思っているのだと、彼は頭を掻き上げる。
 宿を取り、風呂に入り、さっさと眠りに就く。――そんな計画を立てながら彼は一心に歩き、街を目指した。

 そう遠くはない。もうすぐ街に着く筈だと――。

 そう思った矢先、懐がほんのり暖かくなったような気がした。

「…………?」

 何気なく懐を覗けば、レインは小さく丸まりながら胸元の宝石を煌めかせている。それが何を意味しているのか、彼は分かった。ルビーのように煌めく宝石の中心が、炎が燃えるように瞬いているからだ。
 レインが寒さから逃れようと自分自身を温めているのか、単純に濡れた服が不快なのかは分からない。
 ただ、その行動がほんの少しだけ微笑ましく思えていたのを、彼は覚えている。

 とっとと宿でも探してやろう。

 ――そう思いながら彼は、雪が降る空の下で街を目指して歩いていったのだった。

◇◆◇

 ――温かい。
 そんな感覚でふと目を覚ます。懐かしい記憶を夢に見ていたようだが、どうにも思い出せない。ここ最近ではやたらと古い記憶を掘り起こされているような気がして、彼はぼんやりと自分の手元を眺めていた。
 ここはどこだったかと、不思議な疑問が湧き上がる。それと同時に動かしにくい体に疑問すらも覚えた。
 秋までの記憶はあった。焦点の合わない目で手元を見つめているが、これが本当に自分のものかを彼は疑う。確か――そう。教会の前で焼き芋なんてものを押し付けられた記憶はあるのだ。
 だが――、そのあとの記憶がどうにもうろ覚えで。彼は鈍い腕を僅かに動かして、額を押さえながら小さく呻く。
 温かいような、寒いような――酷く不愉快な感覚に堪らず顔を上げると、彼は言葉を失った。

「――……レイン……?」

 大嫌いな雨の名前をつけてしまった。何となくでつけてしまったその名前にほんのり罪悪感を抱きながら、彼は近くにある見知った顔を見つめた。
 教会≠ナ身近にいた女が妙な近さで小さく微笑む。その顔色は酷いもので、目の下には隈があり呼吸は疎らだ。彼女に食事の概念は存在しないものの、睡眠はとても重要で、レインの顔色を窺った際にその異常性には嫌でも目が行ってしまう。
 まるで一睡もしていないかのような酷い顔色だ。女と思えないほどの疲れきった顔は、彼が今まで一度も見てきたことがなかったほど。
 つい先程までは健康的だった筈なのに――あまりの豹変に、彼は言葉を失った。

 ――「先程」って、いつだった……?

「何……何やってんだ……お前、やめろ」

 妙な距離感に回された腕。彼は、漸く自分が彼女に抱き締められていることに気が付き、咄嗟に腕を払おうと試みる。
 胸が当たっているだとか、顔が近いだとか――、普段のレインからすればすぐにでも恥ずかしそうな素振りを見せるものだが、彼女は首を横に振った。
 「いいえ」たったその一言だけが力強く唇から紡がれる。

 レインは体内に残る力の全てを彼に分け与えるよう、周囲を暖めている。まるで、彼の頭や体の芯を温めようと一心に魔力を溢し続け、彼は動揺を隠せない。
 そのまま彼は静かに周囲を見渡して――漸く事態の把握をした。
 辺り一面は氷だった。青や水色、ほんのり紫がかったような綺麗な結晶ばかりが周囲を凍てつかせている。まるで今いる一室だけが別の世界にでもなってしまったかのような光景に、彼の頭は痛んだ。
 何か固いもので頭を力強く打ち付けられたような痛みに、彼は歯を食い縛る。
 天然ではなく人工的な氷の塊。明らかに異質な部屋。彼はこの場所をよく知っていて、ゆっくりと目付きを変える。
 明確な敵意を向ける場所は決まっていた。

「……よお……モーゼさんよ……」
「やあ、元気そうじゃないか。ヴェルダリア……気分はどうだい?」

 くすりと微笑む男の顔に彼――ヴェルダリアは舌打ちをひとつ。何があったのか、何が起こっていたのか。空白だった記憶が少しずつ戻っていくような感覚に、彼はもどかしささえも覚えた。

 モーゼは相変わらず地下室に氷を広げ、棺桶を守るようにバラを幾重にも敷き詰めていた。特別なことがなければヴェルダリアでさえも入りたがらない一室に、男は常に入り浸り、それを眺める。棺の中で眠る「それ」は目を覚まさないというのにも拘わらず、語りかけ続ける様は非常に不気味なことこの上ない。
 そんなモーゼに彼は、頭の中を直接凍らされ、部屋の中に押し込まれてしまった。

 終焉殺し≠フ異名を持つヴェルダリアの存在は、モーゼにとっては非常に都合がいい存在だ。言い伝えによって忌み嫌われている終焉の者≠殺しさえすれば、教会≠ヘ今以上に名声と厚い信頼を得られる。
 その結果――、モーゼが何か悪さをしたとしても、「教会≠フ人間がそんなことをするわけがない」の一言で全てが片付いてしまうのだ。

 ――しかし、ヴェルダリアを都合よく扱うにはそれ相応の時間が必要だった。
 何故なら彼は人間が好きではないから。誰かの下に就こうなんていう考えがこれっぽっちもないからだ。
 そうなってしまっては漸く見付けた終焉の者≠ェ、再び姿を眩ませかねない。ルフランの平穏を維持する為には、終焉の者≠フ死が絶対条件だ。
 その上モーゼは見付けてしまったのだ。黒の予言書に書かれている事実を。追い求めていた唯一のものを。
 それを手に入れる為には、誰よりも早く手にする為にはやはり――ヴェルダリアの力が必要だった。

 しかし彼は従順ではない。ならばどうするべきか。頭を捻り、思い付く限りの考えをまとめた。その中でモーゼが得意とするものは頭の中を軽くいじること。
 つまり洗脳を施してやるということだ。
 我の強いヴェルダリアを支配するためにはどうするべきか。そう思い悩んだときに、男はふと、目元に手を当てる。
 ときに悪意は人に妙な自信を与えるものだと、何度思ったことだろうか。
 頭を凍らせてまともに機能しなくなった彼に、新しい知識を与えようと思った。燃える意思を無理矢理閉じ込め、新しい炎を焚き付けてやろうと思ったのだ。

 ――しかし、それは失敗に終わる。

 ずきりと痛む頭を抱えながら、未だにろくに動かない体をどうにかしようと、彼はもがいた。華奢な女一人に抑え込まれるほど力が振り絞れないことが、酷く不快だった。
 だが、そんなヴェルダリアを差し置いてモーゼは「予想外だった」と呟く。

「レイニール、君が私の邪魔をしてくるとは思わなかった。君はとても従順で、賢くて、間抜けで、か弱い女だと思っていたんだ」

 なんてことをモーゼは微笑みながら言った。ほんのり困ったように眉尻を下げているように見えるが、とても困惑しているようには見えない。
 寧ろこうなることが分かっていたような口振りだ。
 君が普通ではないことは分かっていたけれどね。――そう言ってモーゼは後ろ手を組む。
 ――不意に、ヴェルダリアの耳元に何かが割れるような音が聞こえた。パキン、とまるで固いものがひび割れたような小さな音は、すぐ近くで鳴る。その後に床に落ちるような音がして、彼はそうっと視線を落とすと、見知った赤の欠片が溢れ落ちていた。

 透き通るような赤。燃えた形跡のある輝き。それが、レインのものであることを、彼は知っていた。

「おい、お前、これ」

 先程からどうにも動揺が隠しきれない。
 ヴェルダリアは咄嗟にレインに向き直ったが、彼女はそれを制した。まるで子供を抱き留める母親のように彼をぐっと抱き締め、小さく笑ったのだ。

「主様」

 それは、彼女がルフランへ来て一度も言えなかった言葉だった。
 酷く耳触りのいい言葉だ。氷が溶けて温かさが体に染み込むような言葉に、彼は口を開けたまま呆ける。

「今までご迷惑をお掛けしました。私、暫くお休みさせていただきます。きっともう、寒くなることはありません。私を探し回ることもありません」

 今までに聞いたこともないようなはっきりとした口調に、彼は疑問ばかりが浮かぶ。
 彼女の体にある宝石は力の結晶だ。ひとつひとつに強い魔力が込められていて、どれだけ弱ろうが砕けることのない、特別なものだ。
 それが、あろうことか見るも無惨に――袖口から溢れ始めてしまっているのだ。

「……何だ、それ……」

 何を馬鹿なことを言ってるんだ、と彼は呟いた。まるで別れのような言葉に混乱しているのは、他でもないヴェルダリアだった。今まではいくらでも離れてしまえと思っていた筈なのに、いざその時が来てしまうと酷く焦る自分がいる。
 レインに情が移ってしまったかのような現状に、彼は事態が呑み込めなかった。
 そんなヴェルダリアに彼女はくつくつと笑い、漸くその手を離す。離れた手の隙間、袖の間――白い肌から溢れ落ちる赤色の結晶が、いくつも床に落ちていった。
 酷く窶れたような顔をしていながらも、レインは笑みを絶さなかった。普段の困ったような笑い方も、少女のようなふて腐れた顔もせず、淑女のように微笑むのだ。

「お前何したんだ……つか……首輪、どうした……?」

 レインには命令に逆らえないよう、普段から首輪をつけられていた。俗にいう奴隷のために用意されたものだ。
 それはニュクスの遣い≠ノ施すものとは多少異なり、意欲から始まる様々な活力を奪うものではない。彼女に与えられていたものは力を抑制させておきながら、たったひとつ盟約を交わさなければならないものだった。
 それがどういうわけが姿もなく、あるのはいつの日には与え、巻き付けられたままの白い包帯だけだった。

 彼の動揺にレインは瞳を瞬かせた。ぱちぱちと、数回の瞬きが落ちる。そうして彼は初めて知った。彼女の瞳が髪の色と同じよう、赤と青の炎が揺れるように時折瞳の色が変わることに。赤や、紫が僅かに存在を主張する。

 ――こいつは、こんな顔をしていたっけ。

 絶えず湧き上がる疑問に彼は自分らしさを見失った。行き場を失った彼の手はゆっくりと空を切ってから、床に落ちる。その際に赤い破片がちくりと手のひらに刺さった。

「主様。今生のお別れではありません。私はちょっとお休みするだけです。その間の貴方はもちろん契約なんてものに縛られません」

 そう言ってレインはゆっくりと立ち上がると、ヴェルダリアに背を向けて前へと立ち憚った。向こうにいる筈のモーゼが「おや」と小さく声を上げたのが、彼の耳にも届く。
 華奢な女に守られている、という状況で情けなく思える状況だ。それなのに、ヴェルダリアはその背中がとても大きく見えて、茫然としていた。
 立ち憚るレインが肩越しに小さく彼を見る。そうして、ヴェルダリアの周囲が少しずつ暖かくなってきたかと思うと――唐突に炎が灯った。
 ごう、といやに強い炎の発火音が鳴った。すると、モーゼの薄笑いが漸く歪む。
 それは、レインの背後にいるヴェルダリアの周囲を張る氷を全て溶かし尽くそうとする、強い炎だった。

「主様は寒いのがお嫌いでしょう。温めておきます。どうか、ご自身の意志を大事にしてくださいな」

 そう言って軽く笑ってから、一歩、また一歩とモーゼへ歩み寄る。その姿を見て彼は漸く口を動かし、どこに行くんだ、と言った。
 しかし、彼女がそれに反応を示すことはない。じゅうじゅうと妙な音を立てて溶け崩れていく氷が酷く厄介だった。強い熱が寒さを拭い取るが、同時に嫌になるほどの熱を与えてくる。
 ――見くびっていた。女だからと、何もできないと。
 その動揺はモーゼも同じようで、一歩一歩近付いてくるレインに強い嫌悪感を抱いているようだった。
 彼女が歩く度に足元の氷がみるみるうちに溶けていく。まるで、彼女自身の怒りを再現しているかのような熱に、男が「やめてくれないか」と小さく、小さく口を洩らした。

 そして――レインは人の形を失った。

 ぱたり。氷の上に小さな体が落ちる。あれだけ輝いていた炎は瞬く間に勢いを失い、最後にはヴェルダリアの目の前で静かに消える。
 氷の上に残った獣は息をしているのか、していないかも分からない。ただ、炎のような煌めきも、宝石の数々も、どこにも見受けられなかった。

「……いやぁ、驚いた。ここまでしてくれるとは」

 静かな空間を割くように先に口を開いたのはモーゼだった。
 男は氷の上を器用に歩き、倒れたレインの体を拾い上げる。成猫程度の大きさのそれは、小さな寝息を立てているようで「死んでいないのか」と男は言った。

「…………何してんだ」

 漸く口を開いた彼から絞り出せた声は、笑えるほど小さなものだった。

「ああ……言っていなかったね。一種の契約さ」
「…………何だと?」

 モーゼ曰く、彼女はいざヴェルダリアに手を出そうとしたときに間を割って入ってきたのだという。
 酷く気弱で、口数の少ない筈のレインが、強くモーゼを睨み付け、初めて牙を剥いたのだ。
 ――薄々、この二人の関係は気が付いているつもりではあった。契約関係にあった、ということだけが予想外であっただけで、親密な関係であることだけは分かっていた。
 だから、彼女が身を挺して彼を庇い、治すために首輪を外してくれと懇願することも、ある程度は予想していたのだ。

「私はね、言ったんだ。『そんなに言うなら君が彼の人質になるかい? 君が人質になれば彼は私の思い通りに動いてくれる。しかし、彼が君に何の未練もなければ、君は捨てられてしまうけれど』と」

 小さな体を持ち上げて、撫でるように手を重ねる。その姿は死を慈しむ神父そのものに見えたが、ヴェルダリアには不快なものでしかなかった。
 触るな、と言いかけた口が途中で止まる。今の自分にはそんな資格はないのだと、咄嗟に言葉を呑んだ。
 そんな彼の様子を見かねて、モーゼは「何もしないよ」と言う。

「言っただろう、人質になってもらうと。君にとって彼女は『大事なもの』なんだろう?」
「――ッ!」

 酷く、酷く優しい言葉だった。それがヴェルダリア本人を小馬鹿にしているものだと知っていたが、手を出さないことにやけに安心感を抱いた。
 それと同時に――酷い頭痛が彼を襲う。こめかみに走る深い深い痛み――まるで偏頭痛のような気味の悪いそれに、ヴェルダリアは頭を抱える。

「……どうしたんだい。私は何もしていないが」

 珍しく身を案じてくるモーゼの言葉が、ノイズと耳鳴りの間を縫って入ってこようとしたのは分かった。だが、「分かった」だけで、彼はその言葉を満足には聞き入られなかった。
 痛みと、耳鳴りが強くなって、堪らず呻き声を上げると、ノイズに混じって何かが聞こえてきたような気がした。
 ――いや、思い出した・・・・・のだ。

 ――貴方の一番大事なものを奪ってあげる――

 ――はっ、として、彼は浅い呼吸を何度も繰り返す。はあ、はあ、と肩で息を吸って、目眩をどうにかしようと目を細めた。
 言葉の意味を知ってからでは何もかもが遅い。
 そう、思いながらぐっと歯を食い縛る。自分自身を過信していたが、今回ほど無力であると知らしめられるのは屈辱でしかなかった。

 だから彼は人間が嫌いだ。優劣をつけたがる人間が。寄って集って弱者を痛め付け、弱点を突いてくる人間が。
 そうして、自分自身も例に漏れずそんな人間であることを、強く理解した。

「……くそ……!」

 他人相手に悔しい、と思ったのはこれが初めてだった。
 彼は氷が溶けて露わになった床に拳を叩き付ける。感情的な行動を取ることは全くなかったが、胸の中を、腹の中を渦巻き続ける妙な感情の処理ができなかったのだ。

 どこにぶつければいい、この苛立ちを。渦巻くほどの憎悪を。噎せ返るほどの殺意を――。

 ――なんて考えていると、ふと、自分の足元に赤く煌めく欠片を見付けた。
 先程の業火で大半のものは吹き飛んでしまったというのに、その欠片は力を蓄えたまま彼の足元で煌々と瞬き続ける。それは、時々少女のように笑う彼女の微笑みによく似ていた。
 彼はその輝きに引き寄せられるように手を伸ばし、そうっとそれを掴む。
 そして――何を思ったのか、赤く煌めく欠片をゆっくりと口の中へと運んだ。

 ガリ、と噛み締めたそれは、キャンディのような固さがあった。

「…………おや、もう平気なのかい」

 不意にモーゼがヴェルダリアに話し掛ける。その手元には静かに眠るレインの姿があった。やはり、炎のような煌めきはもう見受けられない。

 ――大嫌いだ。何もかも。終焉の者≠焉Aモーゼ・ヘルツローズも、あの女も、自分も。

「――はっ……面倒くせぇが、仕方ねぇ。付き合ってやるぜ、モーゼさんよぉ」

 重い足を動かし、彼は立ち上がった。崩れ落ちた髪を掻き上げ、普段通りの笑みを浮かべてやると、モーゼは笑う。普段の、見慣れた薄笑いだ。

「ああ、有難う。それじゃあ……暫く休もうか」

 頭に魔力を流し込まれるのは気分が悪かっただろう。
 ――その問いかけに彼は、一度だけ考えてから「氷は最悪だったな」と言った。


前項 - 次項
(74/83)

しおりを挟む
- ナノ -