咳と暖炉と模様替え


 ――こんなことをする筈ではなかった。
 息が詰まるような気分の悪さ。ぐらりと揺れる視界。寒気とは裏腹に熱を増す頬――赤く染まる手のひら。鼻につく鉄の香りが生臭くて、思わず顔をしかめたような気がする。
 ――だが、それも目の前にある恐怖に比べれば、気にするほどのものではなかったのだ。

◇◆◇

 調子が悪いと思ったのは然程時間が掛からなかった。
 朝起きて、喉の違和感に気が付く。
 ここ数日どうにも咳をすることが増えて、不調を拗らせてしまったのかと警戒し続けていた。乾いた咳が出るにつれ、終焉が酷く不安そうに――とは言え、全く表情は変わらないのだが――ノーチェを見つめてくる。その度に何度目を逸らしたことだろう。
 喉にある違和感が質量を増すように沸々と、存在を増していくものだから尚更だ。
 体調が悪いなら休んでいいと終焉に言われること数十回。その度に首を横に振って、平気と答えること数回。喉の奥で何かが詰まるような感覚に苛まれては、小さく咳をして何度も解消しようと試みた。
 夏場で男が熱を出したことがある所為か、どうにも終焉の近くでは頻りに堪えていることがあったが、我慢ができた試しはない。けほ、と乾いたそれを出す度に、終焉の赤い瞳が僅かに揺れる。
 しかし、それだけだ。露骨に何かが起こっているわけでも、体のどこかが変に痛むわけでもない。
 男の視線が妙に鬱陶しくてノーチェは逃げるようにそそくさと離れ、普段のように赤いソファーへと腰を掛ける。大きな窓から差し込む太陽の光が心地好く、次第に体が温まる感覚にほう、と息を吐く。

 冬になってからか、太陽の温かさが以前よりも遥かに弱くなったようで、日の光がやけに心地いい。どうにも屋敷の中は寒く、体の芯――とまではいかないが、足先や手先、体の末端から少しずつ冷えていくのだ。
 暖房の類いは存在している。どうにも使ったことがないらしい暖炉が、客間に聳え立っていて、未使用のまま黙って鎮座している。薪の類いがあるのかどうかは分からないが、少しくらい寒さを紛らせるように温かくしてもいいのにな、なんて彼は思った。

 試しに終焉に告げてみようか。
 ぼんやりと暖炉を見つめたまま、ノーチェは瞬きをひとつ。喉の奥にある違和感を吐き出すように、口許に手を当ててから咳をする。男にバレないように小さく。――それでも気付かれてはいそうではあるが、目の前にいなければ何ら問題はないのだ。
 冬は嫌いではないが、肌寒さは体に堪えてしまう。それでも奴隷として扱われていたあの頃よりは、遥かに温かな環境下にいるのは確かだ。日光浴なんてもの、堪能できなかった頃に比べれば寒さなどないに等しい。
 雪が降るような予報は未だに聞いてはいないが、夜になればなるほど寒さが体を刺してくる。屋敷内を温めるのも、終焉にとって居心地が良くなるだろう。その分風呂が心地いいと思えることに関しては、感謝せざるを得ないだろう。
 以前、終焉やリーリエと外で食事をした頃はまだ暖かかった気もするが、月を跨いだ今では到底外での飲食などできる気がしなかった。あれだけ赤く染まっていた紅葉も、すっかり枯れ落ちてしまって、冬を痛感する。立冬も気が付けば過ぎてしまって、夜の訪れは早くなった。男の言う「御茶会」を次に行えるのは、冬が通り過ぎた頃だろうか――。

「ん……」

 丸まった背を伸ばしながらノーチェはぼんやりと天井を眺める。豪奢な明かりが存在感を放っているが、目にする度にどう手入れをこなしているのかを疑問視してしまう。脚立の類いがなければ終焉ですらも届かないであろうそれは、見たところ埃が一切付いていないものだから、尚更だ。
 そんな天井を見つめてからほんの少し重い体を動かして、ソファーから立ち上がる。軋むような皮の音も鳴らなければ、重みで一部がへこんだような形跡もない。いつまでも新品のように真新しい姿のままで――彼の疑問が沸々と湧き出てくる。

 この座り心地のいいソファーはどの程度の値段がするのだろうか――なんて。

 ――過去に一度でも思った疑問を頭から払うべく、彼は頭を小さく左右に振ってそれを追い払う。
 ここ最近の終焉は寒さからか、どうにも体が強張っているような印象を受けた。それを紛らせるべく動き回っているようで、以前のように小休止を挟むことが目に見えて減っている。普段なら屋敷内では脱いでいる筈のコートですら着込んでいるのだから、尚更だ。
 そんな男にはやはり提案をするしかないのだろう。
 席を立ったノーチェは軽く腕を擦り、はあ、と何気なく息を吐く。屋敷の中にいる所為か、視界には入りにくい白い息がふっと目の前を舞った気がした。
 未だに白い雪が降らないことが疑わしく思えてしまうほど、寒くなったように思える。
 そんな環境下に身を置くノーチェだからこそ、終焉に部屋を暖めることを提案しようとしているのだ。屋敷にいる状況に慣れてしまった今だからこそ、素足で廊下を歩くのも、暖房の類いがないのも酷く寒く思えてしまう。軟弱になった、なんて頭の片隅で苦笑を洩らすものの、状況が状況なだけに鍛えることすらままならないのだ。

 僅かに咳を溢し、渇き冷えた空気に体を探しながらノーチェは終焉の面影を探す。初めは洗濯物に手を付けているような気がして、脱衣室へ。――しかし、既に洗濯機が回っている状態で、男の姿はなく。あてが外れた彼はその足でキッチンを目指す。
 終焉が洗濯物に手をつけたあとは何をしているかなんて、あくまで彼の予想でしかない。その足で掃除に励んだり、おやつと称した甘いお菓子を懸命に作っていたり――買い出しに行こうか悩んでいたりと、様々だ。
 その中で男が「よく行きそう」な場所をしらみ潰しに当たっているだけで、「そこにいる」という確たる証拠など彼にはない。
 だからこそ廊下を歩いてリビングへ足を踏み入れたあとに、「そこにもいなかったらどうしよう」なんてぼんやりと考える。
 何かをどうするわけでもないが、平常通り終焉がいなければやることのないノーチェは、ソファーで寛ぐことしかできないのだ。

 知らない間に買い物に行っていたらもう諦めようかな。

 ――なんて思いながら、リビングの家具を後目にキッチンへの扉に手を伸ばす。

「――む、」
「……!」

 ――すると、ノーチェが扉に手を掛けるよりも早く、キッチンから終焉が姿を現した。キッチンにいたこともあってか、男の腕には着なれているであろう黒いコートが掛かっている。流石の終焉も服を着込んだままキッチンに立つ、なんてことはしなかったようだ。
 黒く滑らかな長い髪が相変わらず終焉の背中で存在を主張している。ほんの少し目を凝らして漸く見られる赤いメッシュは、光を受けてちらちらと輝いているように見えた。
 純粋な「黒髪」とは言いがたいそれに、彼はほんの少しだけ残念な気持ちになってしまう。
 一点の汚れもない、純粋な黒髪だったらどんなに綺麗だったのだろう――なんて考えて、じっと男の髪を見つめてしまうのだ。

「……何か用か……?」

 痺れを切らしたらしい終焉が、ノーチェの顔色を窺うように小さく訊ねる。普段よりも優しく、ノーチェの様子を気に掛けているようなもので、彼は堪らずむ、と表情を歪めた――ような気持ちになった。
 いくら大丈夫だと言っても身を案じてくるのが終焉の者。恐らく、どれだけ心配は要らないと言っても話すら聞いてくれないのだろう。
 ――なんて思いながら「別に」と小さく呟いて、男の通り道を開けるように端に逸れる。急ぎではない話をするのは男の用事が済んでからでいい。何も邪魔をしたいがために口を挟もうとしているわけではないのだ。

「アンタの、用事が終わってからで――けほっ」

 終焉の顔を見上げて急ぎの用事ではないことを告げようとした際、必死に堪えていた咳が喉の奥から競り上がる。彼は咄嗟に手で口許を隠してそれを溢すと、ほんの少しだけ違和感を覚えて、上目でちらりと終焉の顔を覗き見た。
 不安そうな、不機嫌そうな――どちらともつかない無表情で、男がじっとノーチェを見つめている。黒髪に映える赤と金の瞳があまりにも獣らしく、威圧感を与えてくるもののように思えてしまった。
 長い間終焉と共に過ごした彼は小さく目を逸らし、その視線から逃れようと試みる。
 恐怖だとか、息が詰まるだとか、そういった感覚はすっかり抜け落ちてしまった。体が慣れたのか、出会って当初で得た体が強張る感覚は、今では滅多に得ることはない。終焉自身も不快な気持ちにさせまいと奮闘しているのだろうが――、未だに残るそれに彼は鬱陶しさすらも覚えてしまった。

「ノーチェ、休めと言っているだろう」
「……平気だってば……」

 コートを片手に終焉は彼の肩に手を乗せて、体の向きを変えさせる。普段よりもいくらか雑に整えられた白い髪が小さく靡いた。それに伴い、首輪に残された取りきれない鎖の残骸が、カチカチと小さな音を奏でる。
 それに何度も不快な思いをしているが、男は一切言葉に出さず、ノーチェの背を押す。歩幅も、足の長さも異なる男に背を押される所為か、歩くことが覚束ない。もたつく足が僅かに絡むが、倒れないのは男の手が肩に乗ったままだからだろうか。

「何か用があったんだろう?」

 リビングの扉を押し退けて、廊下に出た辺りで終焉がぽつりと呟く。その間にも彼の背を押し続け、結局ノーチェは客間に戻されてしまった。相変わらず存在感を放ち続けている赤いソファーに座らされ、彼は唇を尖らせる。
 終焉の予定を優先していいというにも拘わらず、男はやはりノーチェを優先しているようだ。彼が口を割るまでこの場所を離れる気はないと言わんばかりに傍らに立ち、ノーチェをじっと見つめる。
 それに根負けしたノーチェは――小さな溜め息を吐きながら、「別に大したことじゃないけど、」と小さく呟いて男の目を見た。

「部屋、暖めないのかなって……あれ、暖炉だろ……」

 暖めたら過ごしやすくなると思うんだけど。
 そう言って彼は目の前にある暖炉を指差しながらぽつりと呟いた。黒光りするテレビの傍に暖房器具――もとい、暖炉があることは多少なりとも懸念すべき点があるものの、今まで未使用であったことを考えれば、配置には納得がいってしまう。

 ――とはいえ、長い間終焉は何をどうして寒さを凌いでいたのか、疑問が残るのは確かだった。

 ――そう頭を捻るノーチェに対し、終焉は暖炉を一瞥したあと、小さく唸る。考え込むときの癖――というのだろうか。僅かに眉を顰め、「むぅ……」と呟く様を彼は何度も目にしてきた。
 それは、大抵視野に入れたことがないものを指摘したときに見られる言動だ。
 やはり独りで屋敷にいたとしても、終焉には「部屋を暖める」という考えには至らなかったのだ。

「…………嫌なら別に」

 眉を寄せたまま考え込む仕草を取り続ける終焉に、ノーチェは痺れを切らして小さく言葉を紡ぐ。単に彼は自分の体を心配してくる終焉に、環境の改善を提案しただけであって、それを採用してもらおうとは思ってもいないのだ。
 こんな奴隷じぶんの為に時間を費やしてしまうなど、勿体ないにも程がある。
 ――そう決め付けて、彼は終焉からそうっと視線を逸らした。大して気に留めなくてもいい、というノーチェなりの意思表示のつもりだ。
 しかし、終焉は彼の言葉に「そうか」と納得したように呟き、暖炉を見つめる。

「そうか。あれは、暖める道具だったのか」
「――…………」

 ぽつりと呟かれた言葉に男の無知を垣間見た気がした。何気なくノーチェが横目で終焉の顔色を窺うと、男はぼんやりと暖炉を見つめたまま瞬きをひとつ。どこか寂しげに遠くを見つめるような瞳が僅かに細められる。
 この人にも知らないものがあるのか、と彼は小さな驚きを覚えた。

 普段の終焉の口振りや、態度は「知らない」ことを知らないと言いたげなものだ。料理に始まり、掃除や街中の道筋。季節毎の旬のものや、どこの店で何を取り扱っているのか、など日常的なことは熟知している。
 それどころか、本棚に収納された本の内容は殆ど覚えてしまったと言わんばかりに、時折何がどんな物語なのかを彼に説明して勧めるのだ。

 その様子を見る度にノーチェは終焉を「完璧な人」だと思うようになっていた。失敗も挫折も味わったことがない。奴隷である自分とは全くもってかけ離れた存在なのだと、それとなく一線を引いてしまうほどだ。
 この人は何かを失敗したこともないんだろうな――なんて、何度羨んだことか。怒られることも、殴られることも、見放されることも、ないのだろうと勝手に決めつけていたのだ。

 ――それも、以前見てしまった「夢」を見て以来、思い過ごしだったのかと不意に思うことがあった。

「……あれに、薪を入れて、火つけて……そしたら暖かくなる。少なくとも、この部屋は」

 二階はちょっと分からないけど――そう説明を口にすると、終焉は小さく頷きながら「そうか」とだけ答える。

「ではあれは他の場所に移そう。ノーチェはまだ使うか? 私は使ったことがないので観るつもりは毛頭ないが」

 そう言って指を差した先にある黒い電子機器を見ながらノーチェに語り掛け、彼の反応を窺う。ノーチェは終焉の言葉に考え込むような仕草を取ってから、控えめに首を左右に振った。

 確かに退屈であれば目を通すが、今の彼にとっては何もかもが現実離れしたもののように思えてしまう。それを娯楽と認識することができれば、卑屈になって何もかもを羨む思考に陥ってしまうのだ。
 そんなことに時間を費やすよりも、現家主である終焉の手伝いをするか、男の所持している本を読むことに没頭した方がマシだった。

 外の世界が自分とはかけ離れすぎている。その現実をまざまざと見せつけられるよりも、終焉と同じような時間を過ごしているのは有意義であると思えた。
 ――そう思えてしまうことに多少なりとも疑問を覚えてはいるが――生きていることに支障はない。ちらりと終焉の反応を窺えば、男は「じゃあ動かそうか」と白いシャツを捲り上げる。

「…………けほっ」

 その直後、終焉に声を掛けようとしたノーチェの口から出てきたのは、やはり渇いた咳だった。
 口許を押さえ、控えめに繰り返される咳が止まるのを終焉は待っていた。何せ、誰よりも愛してやまない彼が何かを話そうとして唇を開いたからだ。彼も彼で、口許を押さえながらも男の袖口を指先で小さく摘まんでいる。
 ――そして、男はノーチェの咳が止まるのを確認すると、彼に気が付かれないようこっそりと息を吸って、「どうしたんだ」と彼に問い掛けた。

「……俺がやる……」

 袖を捲り、自らの手で模様替えをしようとする終焉に、ノーチェはひと呼吸置いてから男に告げる。力仕事の類いなら自分がやると言って、じっと男の顔を見上げた。ほんの少し、驚きを覚えたように瞳が揺れたのが分かる。体調が悪いくせにこいつは何を言っているんだ――そう言いたげな瞳だ。

「ノーチェ」

 それを裏付けるように終焉は彼の名前を呟いた。言葉のあとに「お前は何を言っているんだ」なんて言いそうな口振りに、堪らずノーチェ自身も僅かながらに眉を顰める。首輪の効力が多少弱まってもう半年は過ぎた。そのお陰か、気持ち程度なら感情を表に出すことができている。
 ――とはいえ、それも本当に「よく見れば」の話ではあるが、男には何の関係もないようだ。
 普段とは打って変わって引く気のないノーチェに、終焉が彼と同じような表情を浮かべた。器用に片眉を動かし顔を顰めて、自分がいかに彼の言動に対して不服であるかを示している。彼が眉を顰めることがなければ「何を言っているんだ」と確かに紡いでいただろう。
 ――だが、今回ばかりはノーチェも引くつもりはなかった。

「……体、動かした方が温まるし……こういう力仕事は得意」

 通常なら彼は終焉の圧に根負けして渋々折れてしまうことが殆どだ。そうすることで円滑に事は運び、余計な疲労も気遣いも背負わずに済むからこそ、彼は今までそうしてきた。――そうすることしか能がないと、思い込んできたのだ。
 しかし、終焉を始めとしたある一定の人間に悉く奴隷であることを否定され、今までの行いが間違いだと思い知らされてしまう。

 ノーチェは奴隷ではない。ニュクスの遣い≠フ一人であり、ヴランシュの姓を持つ一人の人間なのだと。

 その意志に従うべきならば――自らの意志で物事を進めようとすることは、間違いではないだろう。

 ――彼の言葉に終焉は顰めていた眉を戻すと、ゆっくりとノーチェから視線を逸らす。ノーチェの言う「体を動かすこと」も、「力仕事が得意」という事実も、決して間違いではない。男が知るノーチェは確かにそういった人間だった。
 酷く眩しく、誰よりも好戦的で、可愛げがあって――今も昔も、愛しいことこの上ない。
 終焉はふう、とあからさまに溜め息を吐いて、再びノーチェを見やった。咎められるかと思い、ノーチェは一度だけ肩を震わせたが、男が僅かに口許を緩めて困ったように微笑んだと思うと、体の強張りがなくなる。

「そう、だな……やはり過保護になっているようだ」

 失笑気味に、自虐的に言葉を紡ぐものだから、ほんの少しの違和感が彼の胸を掠めた。
 ――それでも終焉は気を取り直すよう、首を左右に振ってからほう、と息を吐く。重い荷物を下ろすような深い呼吸に、彼は首を傾げた。

「……よし。ノーチェの力を貸してくれるか? 一人でも問題はないが、二人でやる方が楽だろうし」

 時間が余れば甘いものも作れるしな。
 終焉がそう言うとノーチェは頷いてソファーから立ち上がる。その際にほんの少しだけ寒さを感じたのか、小さく腕を擦りながら再び口許を押さえた。けほけほ、と渇いた咳が洩れる。

「…………ただし無理をするのはなしだ」
「…………ん……」

 咳を溢したノーチェの心配をする終焉を他所に、彼はぐっと腕を捲り上げた。


前項 - 次項
(71/83)

しおりを挟む
- ナノ -