男が居なくなった屋敷の中は異様に静かで、まるで自身の呼吸の音すらも響いているのではないかという錯覚に陥るほどだった。各部屋の明かりなど一切点いてはいないが、部屋の至る所の明かりが点いているのではないかと疑えるほど、明るく眩しい日の光が差し込んでくるのがよく分かる。
『私は出掛けるが、万が一誰かが来ても決して出てはいけないぞ』
そう言って惜しみなく背を向けて屋敷を後にした終焉を見送って、残されたノーチェは閉じられた扉を見つめた後、何気なく天井を仰ぎ見る。肩車をしたとしても到底届かないであろう高さの天井だが、梯子か何かがあれば何とか届くだろう。
頭上には光を受けて煌々と煌めくシャンデリアのようなものが一際異彩を放っているように見える。
悠然とした構え、毅然とした態度、一切の動揺を表に出さない終焉という男は、実のところ相当身分の高い存在なのだろうか。
――ふ、とノーチェの頭に過る歪な記憶。身分が高ければ高いほど性格の歪んだ人間の屑のようなものが溢れている。身分と力の差に妙な自信を持ち、身分の低い者を人間とも思えない扱いで玩具のように扱うのだ。
少なくともノーチェはそういう扱いを受けていた。彼は常人とは異なった見た目通り、通常とは違った種族であるのだ。何故だか終焉はそれをよく知っているようで、自ら探るような素振りも、誰かから聞いたという素振りもみせない。
恐らくあの男は既に知っているに違いないのだ。ノーチェの種族は大まかに魔法特化型と物理特化型に分類されていることを。その中でもノーチェは物理が特化している方だ、と。
物理に特化している、魔法に特化しているというのは周りにとってもそれなりに便利なようで、ノーチェはこの街に辿り着くまでに幾度となく酷い目に遭ってきた。魔法に特化していれば魔力の貯蓄に、物理に特化していれば労働用に分類される彼の種族の奴隷事情。
物理に特化しているノーチェは言わずもがな労働用ととして働かせていた。体に見合わない重度な労働が続いて体がろくに動かなくなれば、理不尽な暴力が体を襲う。
抵抗しようにも首の輪に施された抑制魔法はノーチェから抵抗の意志を奪い、されるがままの日常を送り続けていた。目の前で同じように奴隷として捕らえられた人間は、使い物にならないとなると容赦なく殺されていく。
その光景を目にして恐れを抱いたかと思えば――それは全く違うある種の感情に塗り潰されているのに気が付いてしまう。
それは紛れもない願望だった。
目の前に繰り広げられる一面の死に対する憧れ――いっそのこと死ねたなら楽なのに、という奴隷にされてから根付いた無意識下の先入観。自分で身を滅ぼす為の勇気など初めから持っていない。持っていたとすれば、奴隷などという立場になどならなかっただろう。
――いつしかノーチェは、刃の矛先が自分に向きやしないか、という期待すら抱いていたのだ。
――しかし、世の中そう甘くはないのだ。
ノーチェは物理に長けていると無駄に重宝されるように生き残されていた。周りがいくら殺されても自分には刃だけは向かず、失敗をしても殺されるまでには至らない。長い痛みが淡々と続いていた。
ただ種族が違うというだけで異なる扱いの差に多少なりとも憤りさえ覚えたものだが――それも気の所為だったというように、気が付けばすっかり頭から消え去ってしまうのだ。
更に言うならノーチェはそれなりに見目が良かった。確かに酷い目に遭って衣食住もまともではなかったが、それでも数々の奴隷の中でもそれなりに容姿は良かったのだ。
――だからこそ、望まぬ出来事を呼ぶには十分だった。過酷な労働に追い付かない体に伸びてきた手は、子供から見た大人の手のひらのようにあまりにも大きくて――。
「…………うっ」
記憶の蓋を開けるということは嫌な記憶も思い出してしまうというもの。
過去の出来事を思い返していたノーチェは腹の奥、喉元に競り上がってくる苦い酸味を感じ、咄嗟に口許を押さえながら床に膝を突く。
目の前が酷く眩む感覚が頭を支配するようだった。だだっ広い屋敷のくせに埃ひとつない床の木目が絨毯の隙間から微かに覗く。
こんなところで戻すわけにはいかない――ノーチェは覚束無い足取りでゆるゆると立ち上がると、壁に手をついてゆっくりと歩き出す。壁伝いに歩けばきっといつかは然るべき場所へと辿り着ける筈。
例えばあの一人暮らすには広すぎるリビングの近く――そこを目指すべく、ノーチェは目まぐるしく左右に揺れる床や壁、階段や植物の中を這うように歩いていく。
――本当ならばすぐにでも戻してしまいたかった。小綺麗に整えられていたあのサンドイッチを。咀嚼して舌の上で味わったあの柔らかな食べ物を。
――だが、そうしないのは今はまだ終焉が彼に対して理不尽な暴力を、軽蔑的な目を向けてこないからだ。
今までの人間はノーチェが奴隷であると知るや否や、すぐに玩具のように弄んでは馬車馬のように扱き使った。ろくな食事を与えられなければ、まともな寝床すらも用意されないような環境だ。
しかし、終焉の屋敷に来てからというもの、男は彼ら人間とは真逆の行動ばかりを取っていて、まともな食事も寝床も当たり前だと言わんばかりに与えてくるのだ。
――いつかは化けの皮が剥がれる、今だけでそのうち本性を見せてくるかもしれない。――とはいえ、今何もしてこない相手に対して些細な嫌がらせをするのもどうかと思うのだ。
単純に汚せば被害を受けるのは自分だという懸念があるだけとも言えるのだが――。
そうしてノーチェが覚束無い足取りで、やっとの思いで辿り着いた扉のノブに手を伸ばし、きぃと音を立てながら静かに開ける。辿り着くのに数分としか経っていないだろうが、今のノーチェには数分が数時間にも思えたのだ。
漸く見付けた安心感にほっと胸を撫で下ろすと――大きな吐き気が彼の身を襲った。
――けほっ。小さく咳をして洗面器の栓を捻る。口の中の鈍酸を取り除くべく、蛇口から流れる水を両手で掬い取り、口へ含んで
近くに掛けてあった白いタオルで口許を拭けば、ふわりと見知らぬ香りが鼻を擽る。これはきっと、あの男の香りだろう。比較するのは可笑しいと思うが、この香りは今までよりも遥かにずっと、いいもののように思えた。
手洗いを後にしたノーチェは扉を閉めて手のひらで微かに腹を擦る。思い出したものが確かな要因だが、きっと食べ過ぎたのもひとつの要因だろう。
仕切り直すように改めて見渡した屋敷の中は広く、全体的に彩度の低い仄暗い赤を基準にした茶色に彩られている。俗に言う赤茶色と言うのだろうか。熟年の木の幹よりは明るく、鮮血よりは鈍い色をしている。所々敷かれている絨毯はどこか赤黒い色に統一されていた。
少し歩けばエントランスがある。その目の前にすぐ大きな階段があって、左右に部屋が多少広まっている。二階は同じような感覚で幾つか扉があったことから、恐らく同じような部屋なのだろう。ということは、機能的な部屋は一階に集中しているのだ。
「…………あの人の言う通り、少し回ってみるか……」
命令もなく立ち止まっていては何も始まらない。
試しにノーチェは終焉が言っていたように屋敷の中を散策する気分で徐に歩き出す。隅に追いやられている背の高い観葉植物が、仄暗い赤に彩られている部屋では一際大きく存在を放っていた。
葉っぱを見れば白い汚れなど見受けられず、土はしっかりと濡れていて手入れがよくされている。あの愛想のない見た目で植物の手入れをしているとは到底思えないが、緑を見ると心なしか気持ちが軽くなったような気がした。
いつの日か誰かに「緑は人を癒やす効果がある」という言葉を聞いたことがあった。それがいつの頃だったかはまるで思い出せない。その言葉が本当のことだと言うように、ノーチェの憂鬱がほんの少し取れたような気がする。
――それでも錆びた心に残る「願い」は取れることなく、「早く死にたい」と小さく呟いた。
そうして、ふと思い出す。この屋敷の広さだ。屋敷内を散策するのもいいが、庭というものがあるのかもしれない。そして、ひとつの植物にも手を抜かない男のことだ。庭園とは言わないが、手入れが行き届いた庭にでもなっているだろう。
好奇心、というものがまだ残っていたのかは定かではない。ただ、逃げ道を確保しておく、という無気力の前では役に立たなさそうな弁明も意味はないのかもしれない。単純に庭の様子が気になったと言えばそうなのだろう。
『――決して出てはいけないぞ』
エントランスの扉に手を伸ばしていたノーチェは、不意に屋敷を出ていく終焉の言葉を思い出してピタリと動きを止める。
――ああそうだ、出てはいけないと言われていたんだった。
それはきっと、白昼堂々暴れて奪ったものを再び外に放り出さないためのものだろう。あくまでノーチェを奴隷として招き入れたわけではない終焉のことだ。再び彼を奴隷として逃すことが嫌なのだろう。
手を伸ばしかけていたノーチェは徐に手を下ろして、ふと屋敷を見渡す。外はまだいい。怒られることも懸念して、男が他の人間よりもまだ甘いことを考えて、言われたことを守ろうと思ったのだ。やはり屋敷の中を歩き回るのがいいのだろう。
何気なく目にした大広間。エントランスから見て右側の大きな広間だ。客人が現れればもてなす部屋があるとするなら、そこで間違いないのだろう。
遠くから見ても分かるソファーとテーブルと、使われているか分からない電気製品が明るく煌々と照らされている。光の差し込む量がエントランスよりも遥かに多いことから、広間には大きな窓があることが予想される。
――いつ何を命令されるか分からない。屋敷の中を把握しておくことは、自分の体を守るひとつの術にもなるだろう。
ふらりとノーチェは足を踏み出して客間へと歩いた。似たような背の高い観葉植物が壁の隅にほんのりと存在を主張している。
つい、と客間へと顔を出してみれば案の定そこには大きな窓が備わっていた。終焉のような背丈の人物が一人と半分――ノーチェと終焉が肩車でもすれば上まで届くような大きな窓が聳え立つように備え付けられている。手前には赤い大きなソファーがひとつと、足の低いテーブルを囲むようにやけに高そうな椅子がひとつ用意されている。
窓の脇に纏められている厚手の遮光カーテンは窓の向こう――外の世界を見てもいいと言っているようで。ノーチェは無意識のうちに窓の方へ近付く。何気なく気になっていた庭の一部が眼前に広がっていたのだ。
――それはまるで異世界にでも来てしまったかのような感覚だった。きらきらと輝いて見えるものは植物の葉に乗った水滴が太陽で煌めいて見えるものだろう。
中央に見えるのはガゼボと呼ばれる、休息の場として知られるものがあった。それを取り囲むように植物が植わっている。
手入れがよく行き届いていると言えば、行き届いているのだろう。雑草と呼べる余計な植物が一切姿を現していないところを見るに、終焉は細かなところもよく見ているようだ。水滴が反射しているこの幻想的とも言える光景は、忘れたくても忘れられないものになるだろう。
――特別嫌なことが起こらなければ、の話だが。
「…………埃ひとつねえ…………」
ぽつり、ふと呟いた言葉がノーチェの背筋を凍らせるようだった。
そっと窓の縁に指をなぞったノーチェだが、その指の腹には埃という埃が一切付いていない。まるで「完璧」を体現しているかのような男だ。そんな男に掃除でも任されてしまえば、あまりの出来の悪さに落胆することだろう。
――いや、落胆されてしまえば「殺してくれ」などと妙なことを頼まれなくて済むのではないのだろうか。
不意にノーチェの頭に妙な考えが募る。いくら無気力とはいえ、死に対する執着は誰よりもあるつもりだ。あの男もまた死への執着があるように見えるが、恐らく自分ほどではない筈だ。だからこそ落胆されて、一思いに殺されてしまえば良いのではないだろうか。
見逃しやすい窓の縁。それすらも見逃さない終焉が仮にノーチェに掃除を頼んだとして、
「………………考えとこ」
ノーチェは考えを胸に踵を返して窓の外から目を離す。
向かいに立つ家電製品が目に入るが、夜よりも暗いその画面に馴染みという馴染みはなく、彼はそれをまじまじと見つめる。穴が開くほど見つめても動く兆しは見られないのだが、何故だかその黒いものに目が離せなかった。
それもまた一瞬の出来事で、「散策しないと」と呟いて意識的にそこから目を逸らす。
五人は座れるであろう大きな赤いソファーが一際目を惹いていた。何気なく腰掛けてみれば、ふわりと柔らかな生地が体全体を包み込むような感覚に陥る。これはきっと安い物ではない――突発的に思ったのがそれだった。
安い物ではない、それなりにいい値段のする家具のひとつだろう。
「ん……あったけぇ……」
日に晒されているからだろうか。一般的に言う「太陽の匂い」がする優しいソファーだった。抱き締めるのに丁度良いクッションがひとつあって、昼寝をするのに最適なのかもしれない。
目の前の足の低いテーブルもテーブルクロスがしっかりと敷いてある他に可笑しなところはない。椅子もまたクッションがあって、座るのに最適とも言えるだろう。足下に敷いてある絨毯も他と同様赤系統に統一されているところを見る限り、終焉は赤色が好きなのだろうか――。
ぎ、と足を着けた床が微かに軋む音がした。造りの良い見た目とは裏腹に、それ相応の年季が入っているのだろう。
立ち上がったノーチェは客間を後にすると、脇に備え付けられている扉のノブを引いた。つい先程使用した手洗いが汚れひとつもなくそこに備わっている。
気が付かなかったがそこは気を紛らせるようにラベンダーの甘い香りがしていて、洗面器に取り付けられている鏡にも汚れが一切見当たらない。石鹸もまた桃の香りがしていて、仄かに甘かった。
部屋を渡り歩く度に終焉が綺麗好きということ、甘い香りが好きだということが分かるようだった。
手洗いを出て目に入った扉を開けると、脱衣室が目に入る。籠の中には洗濯物は入っていない。何気なく浴室の扉を開ければ、換気された浴室と、栓が抜けた浴槽があるだけだった。
「……あの人、朝のうちに全部終わらせるタイプか…………?」
からりと湿気のない乾いた浴室。窓を見れば森林浴でも味わえるかのように、心地のいい外がよく見渡せる。よく見れば浴槽は白ではなく黒であるという点が、身分の高さを彷彿とさせた。
何気なくシャンプーやコンディショナー、ボディーソープのボトルを持ち上げてみるが、底には滑り毛のない新品同様のボトルがそこにあるだけだった。
よく見ればタイルにはやはりカビもひとつ残っていない。こうして見て歩く限り、やはり男の綺麗好きという線が浮き彫りになってくるというもの。万が一掃除でも頼まれてしまえば、ここまで綺麗にできる自信のないノーチェは死ぬつもりがなくとも怒られてしまう未来が見えていた。
浴室を後にしたノーチェが次に入ったのはリビングだった。
客間とはまた違ったその場所にノーチェはただ茫然と歩いていたが、何気なく「ああ、あの人は俺が来るまで一人だったのか」と思うと、異様に広く感じられた。一人で居るにはあまりにも広すぎる空間が胸の奥の寂しさを打ち震わせてくるようで、一人で居ると心細くなる。
そんな思いを胸に奥の扉に進むと、今朝方終焉が使っていたであろうキッチンが顔を覗かせた。洗って時間の経った食器、立て掛けられた新品同様の包丁、使い古しているとは言い難い、背丈よりも少し高い冷蔵庫――料理をしようと思わないノーチェにとっては無縁な場所だろう。
ふと包丁を手に取ると、手の内に収まる柄の感覚が妙に落ち着いた。これを体に突き立てれば間違いなく死ねる。終焉の居ない今、確かに奴隷から解放されるだろう――。
「…………まあ……できたら苦労してねぇんだけど……」
立て掛けてあった場所に包丁を戻すとノーチェは足早にその場を後にする。
キッチンはまるで終焉の居場所だと言わんばかりに少し心地が悪かった。咄嗟にリビングを出て壁沿いに歩いていると、脇に扉がひとつあった。上を見上げれば階段の手摺りがかろうじて見えるといったところ。この扉の中は恐らく物置部屋か何かだろう。
開けてみようかと思ったが、不用意に開ける必要のない箇所は開けない方がいいのだろう。ノーチェはそこから目を離して壁に沿って歩いていく。すると、一周してしまったようでエントランスに戻ると、「何しよう」と小さく呟いた。
赤茶色の階段に足を着いて一段一段上がっていく。やることはないけれど、暇潰しにはなる動作。このまま与えられた自室でもよく見てみよう、とノーチェは左端から二番目の部屋を開けた。きぃ、と鳴る音が耳を劈いてほんの少し不愉快になる。
扉が開いた後に目に映るのはひとつの寝具。丁寧さとは何かを問うように崩れた布団が目に映ると、今まで見てきた丁寧さが更に浮き彫りになるようだった。
何気なくその布団を綺麗に直して部屋を見渡すと、天井には大きな電気がひとつ。寝具の隣には小さな棚の上にランプがひとつ。窓を越えた先にある本棚に近付けば、本はひとつも残されていないのに埃もまた残されていない。ここにもまた赤黒い絨毯が敷かれていて、統一性が窺えるほどだ。
「ここも赤……赤は血の色みたいで、何か…………」
あまり好きじゃないな――そう呟いてノーチェは何気なく窓の外を見れば、一風変わったものが目に入った。溢れんばかりの木々、人が通った形跡すらない外見――あれは森だ。
先日は終焉のコートをかぶせられていた所為で気が付かなかったが、この街は森にでも囲まれているのだろうか。
――そう思ってしまうほど、どこを見ても辺りは森ばかりだった。街の中でもこの屋敷は人目を恐れるように端の方にあるらしい。とすれば案外外に出たとしても、誰の目にも触れることはないのではないか。
恐らくこれが終焉の言った「万が一」なのだろう。街から離れてはいるが、稀に誰かが来ることがあるかもしれない。その「誰か」がノーチェを狙う誰かであれば、それ以外の誰かの可能性もあるのだ。
――そこまでして終焉はノーチェを手放したくないのだろうか。
「何考えてんのかわっかんねぇな…………」
ほんの少し頭を掻いて部屋を出るノーチェは、試しに右隣の部屋を開けてみたが与えられた部屋と同じで、特に変化はない。この調子なら他の部屋も同様だろう。
ノーチェは何気なくとぼとぼとした頼りない足取りで階段を下りて、再び茫然と辺りを見渡す。あらかた散策は終わってしまった。あと見ていないとすれば、庭くらいだろうか――。
「……? 向こう、部屋あったのか…………」
階段を下りた先、ふと右回りすればノーチェの目の先にはひとつの扉が細々と存在していた。それはエントランスから見て左側に位置する部屋だ。
――そう言えば左側の部屋は見ていないな、と首を傾げるノーチェはその扉に向かってふらふらと歩き始める。
どの部屋もそこはかとなく重苦しい印象を受ける造りだった。実際は重いわけもなく、難なく開けられてしまう木製の扉なのだが、黒光りするそれは鉄のように重いのではないか、という妙な印象を与えてしまうほどだ。
――無論、ノーチェが辿り着いた部屋の扉も重苦しい色をしていたが、難なく開けられるものだろう。
ふ、とノーチェはその扉のノブに触れる。この部屋は恐らく、彼が与えられた部屋の丁度真下に位置するだろう。くっとノブを引けばそこにあったのは奇妙な違和感だった。それはまるで、長年に亘って使い古されているような使用感――この部屋はもしかすると、終焉の部屋なのだろうか。
思えばどこの部屋もありふれた場所で、空いている部屋はどこもかしこも使用感が全くない。ノーチェを奪ってきた終焉がどの部屋に居るのか考えたこともなかったが――人目を憚るように位置するこの部屋こそが、男の自室だと言っても過言ではないだろう。
そして、それは紛れもない事実へと移り変わるようだった。
音もなく開く扉――今までは微かに軋むような音が鳴っていたが、この部屋だけは鳴らない――その先に待っていたのは、昼に差し掛かる朝の筈なのに酷く薄暗い部屋。どの部屋とも同じように寝具と本棚と、ランプが備え付けられているが、他の部屋にはない机や椅子が見て取れる。
「…………あの人の部屋……?」
ここが終焉の部屋と言うなら確かに頷けるものだった。
――しかし、本棚に入れられた傾いている本や、床に落ちて割れた花瓶がそれを否定するように残されている。部屋の広さは二階のものよりも多少広かった。けれど、今まで見てきた「完璧」を体現するようなあの綺麗さはどこを見ても見当たらない。
試しに足を踏み入れて散策を続けるノーチェは部屋をまじまじと見渡してしまう。自分を攫った終焉という人物がどのような人物なのか、多少でも分かれば居心地は更に良くなるだろう。
――死にたいと思い続けているのに、居心地を求めるのは可笑しいことだろうが、何だって良かった。単純に他と同じように扱わない男の何かが知れればいい気がした。
「……何で、こんなに暗いんだ…………?」
ぎ、と床が軋む。辺りをどう見渡してもこの部屋だけは薄暗くて、妙に眠気を誘われる。布団は綺麗に畳まれていて、試しにランプを点ければ橙色の心地いい明かりが灯った。それを消すために紐を引いてから机に近付くと、足下で小さく何かを踏んでしまった音が鳴る。――割れた花瓶だ。
屈んで見たその花瓶は細かい破片と、大きな破片が幾つか散らばっていて、手に取るとその鋭さが指先に伝わってくる。
――そう言えば昨夜眠る直前に何かが割れる音がした。その音の正体はこの花瓶だったのだろう――しかし、どうして。
何故男はこれを片付けようと思わないのだろうか――。
「……って」
不意に破片から手を滑らせたノーチェは咄嗟に手を閉じる。指先に食い込んでいた破片が、手から滑り落ちる際に指を傷付けてしまったのだ。咄嗟に閉じた手を恐る恐る開けば、人差し指からゆっくりと染み出るような赤い液体が顔を覗かせてくる。「いてぇ」と呟きながらそれを咥えて血を吸い出すが、後から徐々に血が溢れてくるのだ。
あの人が帰ってきたら何て言い訳をしよう――徐に立ち上がって机の上を見た。そこにあるのは読みかけと思われる栞が挟まった本と、いやに高そうな羽ペンがひとつ。ノーチェの知らない言語で、尚且つ達筆で何かが書かれた紙が数枚散らばっている。
何か調べているのだろうか。こつり、踵から鳴る小さな足音を絨毯越しに響かせながら近付いた本棚には、いくつもの本が収まっていた。見慣れない言語のものから、ノーチェが知る言語まで幅広く取り揃えられている。
「……これ、フランス語だ…………」
傾いていた本を整えながらノーチェは傷のない手でそれを手に取った。終焉は様々な言語を知っているのかと思っていたが、この本はフランス語について書かれているだけの、謂わば参考書のようなものだった。
――完璧のように見えて、あの男には知らないものがあるらしい。
パラパラと捲ると基礎中の基礎から応用まで幅広く詳しく書かれているようだ。いくつか付箋が貼られている箇所があって、試しに目を通せば参考文章と、終焉のものと思える達筆な筆跡がひとつ。
「……彼は私を……=H」
目についた終焉の文章は途中で途切れていた。単純にフランス語が分からなかったのだろうか。参考書があるほどだ、終焉も知る言語というのは限られているに違いない。ノーチェもまた終焉が書いたと思われる紙に書かれた内容はこれっぽっちも分からなかったのだから。
終焉もまた勉強を欠かさないのだろう。機会があって、その気があったら終焉に教えてもいいのかも知れない。
ノーチェはこれ以上部屋に居座らないよう、開いていた本を閉じて本棚に戻す。
――すると不意に、見計らったように隙間から小さな紙がはらりと落ちてきた。それに気が付いたノーチェは拾い上げるため、身を屈めて傷のない手で紙を拾う。
――それは小さな紙だった。メモのようなものだった。練習するように、先程の字面とはうって変わって拙い言葉が綴られていた。
――J'ai été abandonné
「…………私は捨てられた=c…?」
その小さく拙いメモが何を意味していのか、今のノーチェには理解することができなかった。